見出し画像

お父さんがすきだというと 「一緒にお風呂入れる?」 と聞いてくる人が心底嫌い (#キナリ杯参加作)


突然だが、私は、父がすきだ。


就活で「あなたが熱烈にすきなものやひとについて語ってください」と言われて迷うことなく父の話をしたくらいに、すきだ。

全日本・お父さんだいすきやねん!娘選手権(きっと放映はテレ東)があれば、まぁまぁな上位に組み込める自信があるほどに、すきだ。

異性として、とかそういう話をしている訳ではない。人として単純に、すごくものすごく父がすきなのだ。


こういう話をすると「お父さんと仲良しでいいね〜〜」と素直に言ってもらえるのはよくても中学生くらいまでで、高校、社会人、と歳を重ねるに連れて周りの反応が段々と変わってくることを知った時、私は大層ショックだった。

娘と女親が仲良しなことは「姉妹みたいで素敵やね〜〜」といつまでも羨ましがられるのに対して、娘と男親が同じレベル感で仲良しなことについては、まだまだ正当な価値観が持ち合わされていないのではないかということを、以前からつくづく疑問に思っている。

現に成人を過ぎて周囲に父がすきだという話をすると、いろんな反応が返ってきた。

「珍しいなぁ」と驚く人。

「信じられへん」と嫌がる人。

「へー……」と濁す人。

「いいなぁ」と羨む人。

いろんな価値観があるのは当たり前だし、全員にいい反応を求めている訳でもない。
しかし、取り分けその中でも断トツで心底嫌いな反応がある。


「え、じゃぁさ、

今もお父さんと一緒にお風呂入れる?」


・・・・・・・・・・・?
今も お父さんと 一緒に お風呂 入れる?


【題】父親がすきか
【答】とてもすきだ
【問】一緒にお風呂に入れるか


・・・え、いやいやおかしくない?
この会話の流れ、よく考えて?おかしくない??
めちゃくちゃに、はちゃめちゃに、おかしい。

【題】佐藤健がすきか
【答】とてもすきだ(ガチで)
【問】一緒にお風呂に入れるか


対象者が変わると「いやいや、そういうことじゃなくて!」と、おかしいことを聞いているのが明らかに分かるのに、なぜ相手が父親になると途端におかしくない感じになってしまうのだろう。

仮に私が「お風呂?全然一緒に入れるよ!何なら今も一緒に入ってるよ⭐︎⭐︎テヘッ」と返答した場合、彼らはどう反応してくれるのだろうか。

おそらくこの話のポイントは大前提として
「いい年齢の娘が、自分の父親をすきだということがちょっと気持ち悪い(or 変だ、おかしい)」
という価値観こそが世間のノーマルである、という意識が根底にあるからだと思う。

洗濯物を一緒にしないでくれ、会話をしたくない、ウザい、臭い、気持ち悪い……

よく話題になりがちなこういったネガティブな反応の方が普通だと捉えている方々の多くが、この「お風呂問題」を定義してくる傾向にある。

もちろんそういう娘さんも実際にいると思うし、私の周りにも男親とあまり口を聞いていないという友達も多い。
そんな可哀想なこと言ったらお父さんが悲しむよ!と言うつもりも更々ない。人によって、感じ方の違いがあるのは当たり前だと思う。

つまりな、お父さんのことどう思おうが、
それは人それぞれやねん!!



お風呂問題を定義される度に、私の中のアンミカさんがずっとこうして怒っている。

すきな気持ちを測る基準で「一緒にお風呂に入れるか」って何やのそれ!
一体いつ誰が決めたんやそれ!

と、いつもいつもいつも心の中で怒りながらも、私もいちいちイラッとした顔を見せることなく(出ていなければ)、その都度笑って交わしながら答えてきた。

「いや〜さすがにお風呂には別々で入ります〜〜うちのお風呂狭いんで〜〜ハハッ(圧)」

(ちなみに、この後輪をかけて
「え、じゃぁさじゃぁさ、お風呂が広い場合はどうなるん??」と聞いてくるような人は、もう人生で関わっても得られるものがないと思うので潔く論外とする。)


・・・



なぜ、こちらがいつも少し傷つかなくてはいけないんだろう。いけないことを言っているような反応をされるのはどうしてなんだろう。

別に私は「子どもは親をすきであるべきだ」ということを押し付けたい訳でもなく
「娘がいつまでも父親をすきでいる理由50」を執筆したい訳でもなく
シンプルに純粋に「すきなひと」の話がしたいだけなのだ。

たとえば、佐藤健がすきなように、長澤まさみがすきなように、椎名林檎と東京事変と宇多田ヒカルがすきなように。(全部ガチ)

ただ、それだけのことなのだ。


ちなみに我が家は両親の離婚に伴い、私が13歳の時から父子家庭である。
これを言うと「あー、だからお父さんがすきなのか!」と解釈されることも多いが、別にそういう理由でもない。

私は物心ついた時からお父さんっ子だったし、離婚していようがしていまいが多分そのままずっとお父さんっ子で育ったから、細かな道筋は違えど、どうせ今と全く同じでお父さんがすきだったと思う。

じゃぁ、なぜすきなのか?
優しいから。面白いから。カッコいいから。
どれも間違ってはいないけれど、父をすきだという気持ちに、これといった決め打ちの理由は特にない。


画像2


4才の時に公園で弟に意地悪をした私を叱った時、「おとうさんなんかきらいっ」と泣きながら三輪車で逃亡されたことがあまりにショックで、以降なかなか厳しくできなくなったと聞いた。

幼稚園の頃から運動会では、朝一番に校門前に並んで待機してブルーシートを持って場所取りをしてくれた。

ちなみに運動会前日には、出場演目ごとにどのポジションで撮影をするのがベストかを伝える親子会議が開かれた。

小学校の卒業式で答辞を読んだ私を、親子席ではなくど真ん中のレッドカーペットに仁王立ちして泣きながらビデオを回してくれた。(「お父さん、お母さん、今までありがとうございました!」の台詞で撮影画面が大きく揺れるのが見どころ)

中学で慣れないお弁当を作りながら、ご飯とご飯の間にウインナーが挟まれている謎のサプライズを仕込まれて、ちょっと恥ずかしかった。

高校の運動会で観覧席の最前列でカメラを構えて手を振っていた時と、修学旅行で空港へ送り迎えをする為にわざわざ平日有給を取った時には、流石に笑った。

大学受験に落ちた私を待っていたのは、唐揚げとお肉とポテトという私の大好物を揃えた見事に茶色い夕食だった。

就職して初めて一人暮らしをした2年間は、毎朝欠かさずに今日の天候が記されたおはようLINEがきた。(大阪と京都だったので、雨降るで!と言われても絶妙に違う時があったことは今も内緒)

転職を決めたことを事後報告した日に、心配かけてごめんと伝えると「心配はしてないけどいつも信頼はしてる」と笑って言ってくれた。


誕生日には冷蔵庫からケーキの箱を取り出すと中に冷えっ冷えのプレゼントが隠されていたり

クリスマスには赤い自転車が欲しいと言ったら枕元に該当のものに丸をつけられた自転車屋さんのチラシが置かれていたり

新しいアイスのCMを観て美味しそうやな〜とぼそっと呟けば、必ず次の日には冷凍庫にそのアイスが家族分入っていた。

雨の日には何も言わなくても最寄り駅に車が停まっていることが普通じゃないと知ったのは、恥ずかしながら大人になってからだった。

仕事中に台風で電車が止まった時に慌てて電話をしたら「もう向かってるで〜」の一言が返ってきて、ついでに帰れなくなった同僚達をうちとは逆方向なのに2時間かけて全員の自宅まで送った挙句に「みんないい子で楽しかったなぁ」と笑った時には本当に驚いた。

終電で帰ってもうたた寝していたけれど必ず居間で待ってくれていて、おかえりの声が聴こえることがいつも私の明日を生きる活力になっていた。



これは私が一人娘だから特別なのではなく、父は同じようなことを弟にもしてきている。

習い事のサッカーを幼稚園から大学までずっと観に行って、チームの友達を車に乗せて送迎して、就職する時には引っ越しを手伝いに車で東京まで行って帰ってきて、彼が帰省する時には今も必ず新大阪まで迎えに行く。

父の子ども・娘という立場を超えても、
これほどまでに愛情深い人が果たして
世の中にどれだけいるのだろうか。

と、私はいつも考える。
そう胸を張って言えることがとても誇らしいことだと思っている。

だからこそ、人として、父がすきなのだ。


決して裕福ではない我が家だけれど、父がくれたものはどんな高価なものにも変えられない。
家族で一緒に、こうして、普通でありきたりなすばらしい日々を今日までずっと大切に紡いで生きてきた。

その積み重ねで、今がある。


これだけの大きな愛情を向けて育ててもらった私の28年間の人生は、しあわせでないはずがなかった。

何があっても絶対的に自分の味方でいてくれるひとがいる、という大きすぎる自己肯定感のカタマリを貰った。

父がしあわせであればいいなと常々願うけれど、そのしあわせは父自身のものよりも真っ先に、娘と息子のしあわせに直結していることも痛いほど理解しているから、私たち自身がその分常にしあわせでいなければといつも肝に銘じて自分のことを一層大切にしていられる。


真にすきな気持ちを測りたい、のであればこういったその気持ちに至るまでのキッカケや経緯を聞いてほしいのだ。

「一緒にお風呂に入れるか」という、めちゃくちゃしょうもない基準の前に。

どうして?という、残念な偏見の前に。

なんで?という、浅はかな嘲笑の前に。


私にとってはその気持ちの最上位にあたるのが父であるというだけで、それがジャニーズな人も、二次元な人も、お笑いな人も、YouTuberな人もいるだろう。

すきなものの前では、人類皆平等であるべきだ!

と、私は声を大にして言いたい。

そこには偏見も嘲笑も、そして押し付けも否定も決して許されてはいけない。
価値観の合う人同士が手を取りあって存分に盛り上がればいいというそれだけの話で、
価値観の合わない人は趣味嗜好が異なった・違ったという、それもまたそれだけのことなのだ。

誰かに迷惑をかけていないのなら、すきで何が悪いのか。何も悪くない!
そしてすきという気持ちを表明する方としても、何かを愛することができるというすばらしい気持ちに対して、凛として堂々として、
自信と誇りと責任を持っていればいい。


・・・


今日もまた「パパちゃん今から帰るところ〜」と、ご機嫌な絵文字付きのLINEがくるだろう。

(恥ずかしながら、私は小学生の頃から今もなお、父のことをパパちゃんと呼んでいる。それに伴い父の一人称もまた、パパちゃんなのだ。尊い!)

ツムツムをしながら、うとうとしてスマホを落としそうになりながら、父はいつものように私が待つ我が家に帰ってくる。

三十路の波がぐんぐん押し寄せてきているが、これからも、幾つになっても、
きっとずっと、この気持ちは変わらない。


画像1


TwitterでもFacebookでもなく、LINEのタイムラインを活用しているおじさん絵文字が愛おしいパパちゃん。

「彼氏ができてもいちいち紹介しやんといてな。その後もし別れるならその度に傷増やしたくないから……この人だけ紹介するって決めた最後の人だけ紹介してな。」

と、いう話をなぜか高校入学前のまだ15歳の私に真剣に切ない顔で伝えてきた愛おしいパパちゃん。

今のところその予定は未定なので(残念そうでごめん!)どうぞこれからも一緒に、普通でありきたりな、とってもすばらしい日々を。


今日もやっぱり。

私は、父がだいすきだ。




価値を感じてくださったら大変嬉しいです。お気持ちを糧に、たいせつに使わせていただきます。