ブラック企業回顧録 ④
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その会社にはすぐ近くに「分室」と呼んでいる事務所があり、右脚に障害があった社長は、その分室にいてほとんど会うことがなかった。
分室には樋口という30代半ばの男がいて「書き込み」と言って、チラシの文字などをトレッシングペーパーに書く仕事をしてしていたのだけど、時々、セーラー服の女子高生が僕がいる民家の社屋に樋口を訪ねてくることがあった。その女子高生は樋口の恋人で、どうも樋口は女子高生と付き合っていることを自慢したがっている様子だった。
しばらくして、僕がいた民家の社屋と分室が近くに移転して統合されることになった。引越しをやらされるのかと思ったら、すべて業者がやって、週明けには近くのビルの2階に移転が完了していた。
社長室の一部が畳になっていて、社長は「いいでしょ」と珍しく嬉しそうに言った。畳は椅子に座っていることができないからだろう。その社長室の両側の部屋に写植と版下が分かれて入ることになり、僕は陰気な内田とヤンキーのフクちゃんから離れることができて嬉しかった。
分室にいたロリコンの樋口は版下の部屋に入り、それまではほとんど会うことがなかったのでわからなかったけど、なかなかいいヤツだった。移転してから女子高生が樋口を訪ねてこなくなったのは、事務所が統合されたからか、別れたからなのかわからなかった。
版下の部屋は僕と年が近い新人が2人入って、賑やかになった。僕は19歳になっていて、高卒の後輩ができた。以前の社屋では笑い声が聞こえることなどなかったけど、陰気の内田がいないだけで部屋の空気が明るく軽くなって、笑い声が絶えない職場に変わり、毎日が楽しくなっていた。
しかし、そんな日々は長く続かなかった。ある日、いつも通りにみんなで喋ったり笑ったりして仕事をしていたら、陰気な内田がやってきて注意されたのだ。根が陰気だから笑い声が耳障りなのだろう。実際、内田が笑ったところを見たことがなかった。
しかし、翌日以降も僕らは時々笑い声を上げて楽しく仕事をしていたのだけど、そこに移転以来初めて社長が入ってきた。どうも僕が一番騒いでいると思ったようで、ものすごい剣幕で僕に怒り始め、僕の後頭部をかなり強く叩いて「もう来なくていい」と言った。
僕はなぜ自分だけが怒られて叩かれるのかさっぱり理解できなかったし、いつも一緒に喋ったり笑ったりして仕事をしている他の社員は、黙り込んで仕事をしていた。
さすがに社長が社員に手を上げるのはダメだろう。僕は社長に手を出さなかった。先に手を出されたとはいえ、障害者を殴ると不利になりそうだし、そのまま倒れて後頭部を強打して死んだらさらに不利になる。もっとも、その時の僕がそんな冷静な判断をしたわけではなく、気がついたら会社を飛び出していたのだ。自転車を漕いで家に向かう途中、悔しくて涙が流れた。社長に対する怒りもあったけど、黙り込んで無関係を装った他の社員に失望したのだ。
そして、僕はそのまま辞めた。
結局、どれくらいいたのかもよく覚えていないけど、その会社はもうない。おそらくデジタル化の波に乗り遅れたのではないかと思う。
そして、次に就職した会社も結果的にブラック企業だった。そこは自転車で通えるところにあった印刷会社だった。その頃になると、僕はもうイラストレーターになることは完全に諦めていて、趣味で絵を描くこともなくなっていた。転職の繰り返しの中で山岸とも疎遠になり、友達もいなかったが、一人でいる方が好きだった。
その会社は服に付いているサイズや洗濯表示を印刷していて、仕事はすぐに覚えられた。宇佐美という一つ上の男が退職する代わりとして僕が入ったようで、宇佐美は役者を目指して劇団に入っているというようなことを話していて、窓辺にもたれて夢の一つ一つを消した僕には、夢を追う宇佐美が少し幼稚に思えた。
宇佐美は1か月ほどして退職し、僕は工場長である社長の兄と二人で数台の印刷機を回していた。他にも輪転機という印刷機を担当する鈴木と立溝という男がいた。細身の僕よりもさらにガリガリに痩せていた鈴木は、持ち場が違う僕に雑用を命じる嫌な男で、立溝は無口で無害な男だった。
僕の仕事は印刷機に樹脂製の版とナイロン屋サテンや綿のリボンをセットして、指定の色を作って、あとは印刷機の様子を見て回るというものだった。
その印刷会社では黒、白、マゼンタ、イエロー、シアンの5色のインクを混ぜて指定の色を作るので、何十種類もの絵の具で色を作るのとは勝手が違って、最初は難しかったけど、慣れるとあらゆる色を作ることができるようになっていた。
服のタグは細いリボンに印刷されて、段ボールの箱の中に溜まっていき、それをパートのおばちゃん達が手回しの巻き取り機で巻き取って乾燥機に入れる。
仕事としては退屈ではないし、割と1日が早く過ぎていった。3時にはパートのおばちゃんがお茶を入れ、毎月1人数百円集めて購入した菓子を1人分ずつをタッパーに小分けして出してくれ、それまでの会社ではそんなことはなかったので、いかにも町工場的なのどかな習慣が新鮮だった。
残業はほとんどなくて、残業になればきちんと残業代がつくし、遅くとも8時には終わっていた。
ガリガリの鈴木も、前の会社の気難しい権田や陰気な内田と比べたらさほど嫌なヤツではなく、人間関係は良くも悪くもなかったので、元々人付き合いが苦手な僕には楽な会社だった。
工場は3階建てで、1階は別の会社に貸しており、印刷機は2階、3階はリボンの倉庫とミシンを担当するパートおばちゃんが二人いたのだけど、その片隅にベニヤ板の壁で作られた謎の小部屋があって、ある日、僕はその小部屋の正体を見てしまったのだった。
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