ブラック企業回顧録 ⑤
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その日、3階の倉庫にリボンを取りに行くと、ベニヤ板の壁で囲まれた謎の部屋のドアが開いていて、僕に覗かない選択肢はなかった。六畳程の部屋には布団が敷かれたままで、部屋の片隅にはテレビがあり、それを見た瞬間、直感的にそこがガリガリの鈴木の部屋だとわかった。鈴木は毎朝誰よりも早く出社し、僕や立溝より先に帰ったところを見たことがなかったし、貧相な風貌の鈴木がそこに住んでいてもまったく違和感がなかったからだ。
どういう経緯で鈴木が工場の倉庫に住み着いたのかはわからないけど、こんな生活をしている人間がいることに僕は少なからず衝撃を受けた。
入社して半年が過ぎた頃には、僕は一人で3台の印刷機を回せるようになっていて、意外なことにその仕事が向いているようだった。
社員は僕も含めて寡黙な男ばかりで、朝九時から十八時まで黙々と印刷機を回していればよく、ガリガリの鈴木に余計な仕事を命じられることもなくなって毎日気楽なものだった。
その頃、ようやく貯金が13万円貯まっていたのだけど、会社の帰りに通りがかったカメラ屋のショーウィンドーの前で僕は自転車を止めていた。そこには、世界初のオートフォーカス一眼レフであるミノルタの「α-7000」があり、35-70ミリの標準ズームレンズ付きで12万8千円だった。まだ消費税のない時代だ。僕は自転車を走らせ、銀行で貯金を全部下ろしてカメラ屋に駆け込んだ。
初めて覗いた一眼レフのファインダーの臨場感に感動した。見慣れた日常風景もファインダーの中で切り取られて絵になっていた。最初の一枚は家の前の道のマンホールに空のラムネ瓶を置いた謎の写真だった。
湯川画房で疲弊して創作意欲を失い、絵を辞めてから抜け殻のようになっていた僕は、写真を撮ることが生きがいのようになっていった。
すぐに35-70ミリのズームでは物足りなくなって、75-300ミリの望遠ズームを丸栄百貨店の4回払いで買った。
その頃、アサヒカメラの表紙にどこかの南の島の写真が載っていて、その鮮やかな色彩に心を奪われた。それは木村伊兵衛賞を受賞した三好和義さんの作品で、撮影されたのはモルディブだったのだけど、当時の僕はそんな国があることさえ知らなかった。
その写真の多くは20ミリくらいの超広角レンズで撮影されていて、望遠レンズで一部を切り取るような僕の写真とはまったく異なる構図が新鮮で、24ミリの単焦点レンズを購入している。
それからしばらくして、鈴木と立溝の輪転機要員に僕より一つ下の新入社員がやってきた。なぜか名前を思い出せないのだけど、当時のチェッカーズの藤井フミヤの髪型ふうの見るからにヤンキーの男だった。
ヤンキーは入社してしばらくすると、僕や立溝に鈴木の陰口を言うようになった。僕も鈴木は苦手だったけど、陰口を聞くのは気持ちのいいものではなく、無口な立溝はただよくわからない笑みを浮かべているだけだった。
ある日、仕事が終わって更衣室に行くと、ヤンキーが「何これヤバくない?」とロッカーの上部に突っ込まれた大量の紙を立溝と一緒に見ていた。立溝は相変わらずニタニタと曖昧な笑みを浮かべている。
ヤンキーが開けていたのは鈴木のロッカーで、大量の紙は投資会社の明細書だった。どうやら鈴木は先物取引に手を出して負債を抱えているようで、確かにヤバい金額だったけど、僕も立溝のように曖昧な笑みを浮かべながら着替えを済ませて帰った。
ヤンキーがやっていることは明らかにプライバシーの侵害ではあったけど、そういうものをロッカーに乱雑に突っ込んでいる鈴木が信じられなかった。鈴木という男はもう人生を捨てているようで、ヤンキーの方がマトモな人間に思えたのだ。それからまもなく、鈴木はどこかにアパートを借りたようで、倉庫の部屋は空になった。
ある日、鈴木という1人の男が入社した。ガリガリの鈴木とは正反対の丸顔のその男は、僕より5歳くらい年上で、それまで営業マンをやっていたらしく、人当たりのいい人間だったけど、本心を隠しているような感じがあった。
丸顔の鈴木に年下の僕が仕事を教えることになって、ちょっとやりにくいと思ったけど、鈴木は気にしていない様子だった。
盆休み前、会社に届いたソーメンや缶詰などのお中元のお裾分けをもらって家に着くと、テレビの夕方のニュースで日航ジャンボ機墜落事故を報じていて、夏の開放的な空気が重苦しい空気に変わっていた。
その頃、どう見ても僕が最も仕事をしていて、一向に上がらない給料に不満を持ち始めていた。それに、物心ついた頃には両親に捨てられていて、フクザツな家庭で育った僕は、そろそろ居心地の悪い家を出たいと思っていたのだけど、当時の給料では一人暮らしは難しく、社長に給料を上げてほしいと直談判したものの給料が上がることはなかった。
そして、その年の暮れに僕は20歳になった。
©Hida*Hitsukï/転載禁止
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