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感謝受けても残る後悔 住民救った私設避難所 佐藤 善文さん

 東松島市野蒜地区には、震災後から「おさとうさま」として地域内外に親しまれる里山がある。この山は発災の12年前に新町地区に住んでいた佐藤善文さん=野蒜ケ丘二丁目=が購入し、有事に備えて整備を続けてきた私設避難所だ。いつ来るかも不明な災害に備えた個人での避難所整備。周囲にとって当時は理解しにくいものだったが、津波襲来時に70余人もの命を救い、今では日頃の備えの重要性を語りかける地となった。

 佐藤さんは20代の頃にチリ地震津波を経験し、石巻市などの被害状況を目の当たりにした。当時志津川の友人から「海の近くでの生活は大変。津波は多少の高さでしのげるものでもない。安全に避難できる場所を事前に設けていた方が良い」と助言を受けた。それから60歳まで津波被害を受けることはなかったが、北部連続地震など度重なる大きな揺れを経験し、「遠くない将来、津波がくるかもしれない」と、会社近くの里山を自費で購入。65歳で私設避難所整備を決断した。

震災時に約70人が避難し、一命を取りとめた

 当時は「ここに避難所はいらない」と反対の声を受けた。「私自身も津波は来てほしくないが、相手は自然。備えが必要だと作業を続けた」と振り返る。山頂に手作りの東屋と小屋を整え、どこからでも避難できる山道も四方に配置した。

 着手から約12年後、大津波が野蒜地域を襲った。着の身着のままの避難者約70人が山に集まり、女性や子ども、負傷者や高齢者は石油ストーブのある小屋へ。男性陣は東屋近くで昼夜、焚火を囲んで暖をとった。

 発災から12年。住民の命を救ったことで「佐藤山」の呼称に「御」が付き、国内外から多くの見学者が足を運ぶようになった。災害を伝える絵本の題材にもなった。

私設避難所整備を振り返る佐藤さん

 震災前からの取り組みが功を奏した佐藤さんだが、喜びの気持ちはない。「津波の後、土に埋まった人、道路に横たわった人、多くの遺体を目の当たりにした。周囲に反対されようと、もっと前面に立って強くこの山の存在を周知していれば救えた命もあった。後悔を抱えながらの歩み」と海岸線を見つめた。

 現在は山の周囲への植栽を進め、公園化を目指している。「野蒜は観光地。外部からの人も多い。公園としても認知度を上げ、有事の避難の選択肢に入れてもらう」と黙々と作業を続ける。

 地域では、高台移転が進んだことで、津波への危機意識低下が危惧されている。「先の津波が最も大きいものではないのかもしれない。襲来する方角によっても被害は異なる。備えは今後も大切」と訴える。

 5月で89歳となるため、私設避難所の存続方法を模索中だ。管理者がいなければやがて荒れ地となり、有事の避難も困難となる。「個人が地域のために取り組む防災活動を自治体が支える仕組みがあっても良い。命より大事なものはないのだから」と理解を求めていた。【横井康彦】





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