「自分事」はすべて思いのまま。自分事にできない他人事は【知らぬが仏】

○導入

1人きりでしかできないことがある。

2人きりでしかできないこともある。

3人きりでしかできないこともなくはないだろう。
4人きり、ここらで「きり」が機能しなくなる。
5人きり、、そのうち2人はきっと替えが利く程度の存在だろう。

その”場”の(人)数が増えるほどに
増えるもの:「自由」「選択の余地」「不安」「相対性」
減るもの:「自信」「重み」「責任」「絶対性」


○1人の特権

私は基本的に1人でいる時にケガをしないし、不機嫌にもならない。

ケガをしそうな事象があっても認知しなかったことにして無視を決め込む。

そうすると不思議と身体も無傷で済む。足をぶつけても、熱湯に触れても、しれっと(慣れないころは無理やり)「なかったことにする。」

なかったことにしきれず、傷を認めてしまった場合は治癒した後に「なかったことにする。」
詭弁のようではあるが、結果的には確かにケガをしなかったことになる。

これがまかり通るのが1人でいる時の特権だ。

以下、これを絶対自由と呼ぶ。


○1人の特権(絶対自由)が損なわれるとき

欠損が大きく、他人にそれを認知された場合にのみ限って、私はそこに傷を負い、それ相応の苦痛を味わう。

そして私はその時にはそれ相応の苦痛を陳述するだろう。

あるいは、その逆もあり得る。

私が苦痛を訴えて、それが相手に届いた場合に初めてその傷は確立され、私は相応の苦痛を味わう。

すなわち、少なくとも私にとっては

「痛みという感覚は個人的なものではなく、どこまでも社会的で理性的なものなのだ」


そしてさらには

このうがった法則は逆の使い方もできる。


この記事で言いたいことはこれである。

すなわち、

どんなに大きな傷も、どんなに大きな悩みも、

どんなに複雑な問題も、どんなに深刻な事態も、

観測者が総じて「なかったことにすれ」ば、

あらゆる不祥事は発生すらしないのだ。


「知らぬが仏」とはこれである。


この仏とは自分にとっての仏ではなく、

相手にとっての仏、それも絶大な不可避の救済なのだ。


また「触らぬ神に祟りなし」もこのことである。


だから私はいかなる意図的な救済も求めないし、
いかなる救世主であっても私はそれを【悪】に分類する。
純粋な救済があるとすれば、それは「結果的として」1人で勝手に救われた場合だけだ。

救世主を認めること自体が救われぬ者たちがいたことの証拠なり、さらには後の世の民が持つであろう救われることへの期待が却って【繰り返し悪を生み出す機構】の原動力となり続けるのだ。

キリスト教の「教え」そのものは美しく正しいが、キリスト教樹立への歩みは私はこれを蔑み続ける。



暇人の数だけ問題があり、

医者の数だけ病があり、

精神の数だけ過ちがあり、

認知の数だけ誤解があり、

他人の数だけ不安ある。


自分の妻を、妻の家族を他人と思う男がいるであろうか。

人には自分の家族を他人と思ってはならぬ責務がある。

自分の友を、友の家族を他人と思う人間がいるであろうか。

人には友の家族を他人と思ってはならぬ義務がある。

他人でない者の友を他人と思う人間がいるであろうか。

すなわち、ひいては、

人にはその他の人を他人と思ってはならぬ義務がある。

しかし、多くの人はこれを認めようとしない。理性で判断して、荷が重くなると考えるからだろうか。それが却って自分を不安のどん底に突き落とすとも知らずに。


他人なき者、
人はそれを【王】または【主】と呼ぶ。

王たる者にとってはすべてが「自分事」であり、

その範囲内では絶対自由たりうる。


絶対自由を広く行使する意志を持つ者、
人はそれを【巫女】または【神子】と呼ぶ。


『・・・・お、おう。』

『え、、なんかぶっ飛んだ話になってきたぞ。』
『私は神子なんて器じゃないし、、』
『不機嫌を知らないとか、ただの能天気やん』
『絶対自由とか、意味不明で胡散臭い、、』


そんなあなたを、自分事にしてもいいですか?


もう正直これ以上、他人ぶった自分同士が、互いに傷を認め合い、互いを苦しめ合うのをただ見ている私を見られたくない


お互いに他人ぶるのなんてやめてさ、

はやくこっちに帰っておいで。


なんて言われたところで、私の私たちは競い合うのをやめないのだろう。


ならば、しばらくは、私だけでも耳を閉じ、目をつぶろう。

(とか言いつつ、半目でしっかり見ちゃお)




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