いじめはたぶん無くならないけれど
こんにちは、hibikiです。
今日はかなりセンシティブな内容になりますが、いじめについての自分の意見を書きたいと思います。
世の中、何故こんなにもいじめが起こるのか。
いじめを無くそう、いじめはダメだと声をあげる人達で溢れる中。
それでもいじめは無くならない。
さかなクンさんは朝日新聞の記事でいじめについてこんなことを言っています。
いじめはさかなの世界と似ていて、魚も狭い水槽に閉じ込めると一匹をイジメ出す。いじめられている子を助けても次のいじめられる一匹が現れる。いじめている魚を水槽から出しても、また次のいじめっ子が現れる。
いじめにあったら、広い空の下、広い海を求めて出てみよう、と。
イジメに合ったことがありますか…?
さて、この問いかけ。
どこからどこまでをイジメとするかという話もあるけれど。
Yesな人も結構いるんじゃないかと思う。
私自身も何度かいじめのようなことに合ったことがある。
しかしそのことで引きこもったり、それによって何も出来なくなることはあまりなかった。
いつも自分の中で、『これが楽しい』『コレをやっていきたい』『こういう人が好き』がハッキリしていて、嫌な気持ちの中や押しつぶされそうな中でもなんとか踏ん張りコツコツそういう自分の意思を持ってコレだというものを進めることにも、時間を費やすことをしてきたからかもしれない。
時には嫌な奴らだな、で済ませ、さっと去ったり。
さかなクンさんが言っているようにその場所を出て自分がのびのび出来る場所を求めたり。
どうにかジワジワと出来る限り和解策に努めてきたからかもしれないし、
その程度で済んだからと言えばそうなのかもしれない。
まあなにはともあれ、おおっぴらにコレはいじめだ!とは言ってこなかった。
一番はその都度、助けてくれる人がいたり、その場に助けてくれる人がいなくとも、その外の世界に自分の居場所というのは他にもあったからかもしれない。
なので本当の本当に一人であった時、どうなってしまうかは自分でも分からない。
世の中には本当にこんなことまでするのか…という出来事も起こっているので、自分にとってはそこまでではなかったということかもしれないが。
けれど、振り返るとその何度かのイジメだったよなぁ…と思う出来事は。
何度も意識をどん底まで落とし、時には死をちらつかせ、歩けなくなりそうになるような威力を、十分に持っていた。
私が「これはイジメです。」と声をあげれば確かに内容的には立派なイジメであったと思う。
イジメと、生きるということ。
さて、そんなことを経験しながら、自分なりに考えてきたことがある。
前提として
●イジメはよくない
●世の中からイジメを無くせるものなら無くなって欲しい
●イジメられる側もよくないという主張は認めない派である
これが自分の意思であることをまず書いておきます。
そのうえで。
例えば、私をイジメたことがある人には、今でも私が強く生きていることに心から感謝してほしい。
私だったら自分の言葉で誰かが辛い思いをして引きこもってしまったり、死んでしまったら恐らく二度と立ち直れないだろう。
そんな風な考えから、思うことなのだが。
しかしそもそもダレモガそう感じるかというと。それがそもそも間違いで。
世の中恐ろしいもので、イジメを苦に誰かが苦しい思いをしているというのにそれでもイジメられる側にも非がある、なぞと言う人達がいる。
そして周囲で亡くなった人がいても人は強く生きていかなければいけないし、割とイジメていた人間ですらだんだんと忘れて楽しく生きていくものだ。
本当にハラワタ煮えくりかえる話だし、胸糞悪い。
たぶん私がいじめにあい、そこで死んだとしても恐らくいじめていたやつらはそうである可能性がかなり高い。
誰がそう、という話ではなく。
割とみんなそんなものだということ。
そしてむしろ、よくしてくれていた人を絶望の底に落とし悲しませてしまうことになるだろう。
意外とひとりじゃない。
今ひとりだと思う人は、意外とひとりじゃないかもしれない、くらいのニュアンスでもいいから思えたらいいなと思う。
悲しむ人が一人居るなら。一人でなくても一匹でもいい。ペットとかね。
外で会うなついている野良猫とかね。
居なくなって、あれ・・・?と思う人や犬や猫や動物がひとりでもいるなら、絶対に生きる価値があるのよ。
なんなら生物でなくてもいい。
生きているうちに世界中のケーキを食べつくす、だとか。
このアニメを全部見る、だとか。
繋がりでなくてもひとつ目的みたいなのがあるといいのかもしれない。
そもそも生きる価値があるないの話で言うと、そもそも生きることに本当のところは意味も価値もないと思っているタイプの人間なので、
価値も意味もなくても生きるだけなのだけれど。
だからこそ、人間も他の動物もみんな、生まれたから生きる。
同じように生きる権利がある。そんな風に思っていて。
だけど意味なんかないけど生きますって思えない、それが出来ない時に、何か生きるに繋がる何かが欲しくなる気持ちは痛いほど分かる。
そしてたぶん、誰だってひとつは本当はあるはずなのよ。
だけど、それを見えなくする威力が。イジメにはあるんだねぇ…。
人間関係って難しいよね…
さて、ここからは人間関係についての考えを書きたいと思います。
先ほどのさかなクンさんの話にも少し繋がるけれど。
『サピエンス全史』という本によると、ホモサピエンス(人間)の歴史の中で、自分達にものすごーく似ていて、しかし異なる性質をもつものを排除してきた歴史がある。
他のネアンデルタールなど他の類人猿がある時までは確かに存在していたのだが、それをこのホモサピエンスが絶滅させてきた。らしい。
人間はもしやそうした遺伝子を引きついでいるのかね…?
そう考えるとなんだか納得。
ちょっと違うものに対する嫌悪感。
自分達の種を残すための本能的なものだったりもあるのだろうけれど、
それと狭い世界で生きるストレスだったり、
今でいうと多数決の仕組みなんかが相まって、いじめというのは起こるのかもしれない。
『狭い世界で生きるストレス』というのは、やはり同じ人間と言えどみんな考えも行動も、したいことも、好きなことも嫌いなことも何もかもがそれぞれ違う人達が集まっている訳で。
みんなそれぞれ妥協点を見つけて協力できる部分を見つけて一緒に過ごしているのだけど、やはりそれぞれの我慢している部分だったりがストレスになってくるのだろうね。
それで言うとやはり、そういう意味でも会社というのは『同じ目標に向かえるか』とか、『多少同じようなノリで生きていけるタイプか』とか、そういった仕事内容と同じくらい、様々な価値観のすり合わせが出来るかどうかというのが、みんなが過ごしやすい環境を作っていく肝になってくるのだろう。
会社はそうして選べるからまだいい。
(新卒の頃は自分は苦労した方なのでどこでも入れるとか言いたい訳ではないです。だけどまあ居場所は自分次第で選択肢があるということ。)
学校はそもそもだいたいの人が選べない。
学校って勉強以上に人間関係の築き方、自分なりの主張の仕方だったりみんなとうまくやっていく方法だったり、人に対して自分はどういう働きかけが出来るかだったり、そういったことが出来る場所でもある。
そうしたことを学べるという意味ではやはり行った方がいい。
だけど、最悪勉強だけなら家でも出来る。
本気になれば通信でも出来る。
塾だけ行くというのもひとつの手だと思う。
だけど学校でうまくいかない。しかもやりたいこと、自分で家でしたいことも見つからない、だと本当に悲惨だ。
しかも、学校や社会でうまく行ってる方が恐らく『社会に対して自分がやっていきたいこと』も見つかりやすいのでは…という気もしている。
例えば、何かうまくいった成功体験からそれを伸ばしてこういった職業になろうとか。
助けてもらった経験から、自分も助ける仕事に就きたいとか。
そうした繋がりによる経験やキッカケから、これをしたい、が生まれることは多いと思うから。
そしてイジメなどにあって学校に行けなくなってから、それを新たに見つけるというのは、なかなかそもそも世の中に希望が持てなくなっている状態でしんどい話である。
そういう時ってやはり、周りの大人たちが、焦らずにどれだけのことをしてあげられるかなんだろうなぁ…。
とにもかくにも、イジメる人達に真っ向から向かわなくてもいい。生きていれば、いつかまた楽しめる日がくると信じてほしいと願うことしか出来ないけれど、そんな風に思う。
まとまりのない文章になってしまいすみません。
人間関係について書こうと思っていたのでした。
例えば、『何でイジメられた人間が出ていかなくてはいけないのか?』という疑問だったり『イジメる人が出ていけばいい』という話(誰の話というものではありません、結構聞く話です)。
分かると言えば分かる。
だけどこれはすごく危ない話のようにも感じる。
その考えが行き過ぎると、イジメが逆転しただけに過ぎない状況になりかねない。
みんなそれぞれ、自分の主張と正義の元、主張し合い意見し合い、
お互いの意見のすり合わせをしていくものだと思う。
自分にとっては『悪』といすることが、相手にとっては正義だったりして。
そしてそれは間違いではなく、ただ本当にそうだ、ということなのだから。
(※本当に一方的に非道なことをしている人にこの話は適用されませんが。もう刑事罰にした方がいいのでは?という話を目にすることもあるので。この境界も難しいところで…。すべてには当てはまりませんが。。)
私が、自分は被害者だ!いじめられた!と声をあげることをしないのには理由がある。
ひとつは自分も、そうして誰かを傷つけて生きている可能性は十分にあること。といってもあくまで個人での話であって、集団でなにかしてやろうと思ったことはないけれど。
だけど自分にとってはそういう必要な取り組みだったと思っていたことでさえ、人によっては本当に嫌な思いをさせていたことだってあり得なくはないのだ。
そんな中で。
自分ばかりが被害者意識で強く主張しすぎると、逆にお互い『対等』に物を言うことが出来なくなってしまうこと。
対等に、平和に過ごしたいなら、それに繋がる行動が必要であること。
みんなはみんなで、快適に過ごしたい、そんな気持ちを追求した結果だったかもしれない。
もしかしたら自分が早めに強く出ていたら終わっていた話だったかもしれない。(これはHSP気質な人は特に、強く言うということだったり揉めるのが苦手なので、なるべく平穏に過ごそうと我慢しがちなような気がするし、そういった人はやはりターゲットにされやすい傾向はあると思う。)
自分にも悪かったところはあったかもしれない、特にどこに行ってもよくないと思われる点は実際自分のよくないところなのだろうと認めること。
考え方、感じ方は人それぞれなので、こういうことが嫌で傷ついたということが、何で分からないのだろう?と思ったところで、分からない人には分からないのは、当然のこと。
察してほしいが、強く流れた時代があったがもうそれは時代遅れに感じる。
察する努力を自分はするが、でも根本的には違う人間であることを忘れず。
自分の感じたこと、考え、主張をしっかりしていくこと。
言わないと分からないことって意外とある。
そして、意外と嫌なやつだなと思っていた人でも、分からないことによってそういった態度をとっていたこともあり、話すうちに、なんだそうだったのか、自分とは違うけどお互いこうしていこう、となる場合もある。
もちろん頑なに自分の主張ばかりする人もいますが。
そうした努力を常々怠らないこと。
みんなそれぞれ、それぞれの主張のもと、みんなはみんなでいろんな悩みを持って生きていたりする。
大変なのは自分だけと思いだしたらそれが始まりカモしれない。
どうやっても分かり合えない人というのも居るし、自分がある程度合う人がいる場所を求めることも大事に。
何にせよ自分から働きかけることが重要だ。
自分の場合は本当に気の合う人というのが本当に本当に稀なので、余計にその努力が必要だと思っている。
この人なんなん・・・?
で終わらせない努力。
何で理解してくれないの?何で自分だけこんな目に合うの、とやってるうちは、恐らく理解し合える日はこない。
いや、必ずしも理解し合う必要はない。
だいたいの人とうまくやれなくたっていい。
そこまでうまくやらなくても、まあこういう人もいるよね、くらいに居ればいい。少しくらい何か言われるくらいなら、しょうがないと割り切るのもある程度は必要に思う。
ただ、なんらかの接点を持って過ごす関係にある以上は、自分も自分を見せる努力、そして他の人を理解する姿勢、お互いなるべくストレスないように過ごせる接点を見つける努力を続けていくことは必要だと思っている。
難しいけれど、『イジメる人達=悪』で済ませてしまうとそれはそれで、結局次のイジメに繋がるだけなような気もするのです。
環境によって、状況によって、誰でもイジメる側にも成り得るというのを、たぶん自分は絶対にない!という人もいるだろうけれど。
私もなるべくそうならないよう、そうならない環境に身を置き、そうしない行動を心がけてはいるけれど。
何かに熱中するあまり、だったり。気が付かないうちに、ひどく傷つけていたなんてことはたぶんある、という前提を誰もが持っていた方がいいようには思う。
つまり、『お互い様精神』を持ちつつ、だけどそのお互い様精神に甘えてズカズカとやりすぎない。
もし傷つけた時は、その人が『傷ついたことが事実』というのを、ひっくり返さない。
自分のことも、『傷ついた事実』を押し殺さない。
傷ついたなら傷ついたって言っていい。
私が書いたのは、自分はそういった精神で生きている、というだけで、今まさにイジメられているその人に言いたい言葉ではない。
イジメられて辛い、苦しい、それは事実で、相手が悪いのは言うまでもない。
でもそこから立ち直った時、また同じ目に合わないように。
どうやって生きていくのがいいか?
そういうことは考えてもいいのかもしれない。そんな話です。
それから、たぶんイジメ自体はなくならないだろうけれど、
それでもやめよう、無くそうという声を上げることをやめないことも大事だと思う。
イジメはどんな世の中だろうがどんな環境だろうが、よくない。
でもそれって環境によっては起こるからしょうがないとか、人ってそういうものだから…って。
ヨシとしてしまったら、本当に救われないからね…。
時には戦うことも必要だけれど。
そこまで行かないよう、その手前でやれる最大限の手立てを尽くそうということを書きたかったのです。
集団になるのって、ひとつはやはり人って、『勝つ』快感みたいなものがやめられない、というのがあると思うのだけれど。
ひとりひとり考えてみたら、本当にそのイジメ側の意見に賛同しているのかというと怪しいよね。
乗っている、乗せられている、傍観している人が大半だと思う。
本当にそれって、自分自身の主張なの・・・???
よく考えてみて欲しい。
狭い環境で、ストレスを発散させる何かを、無意識に待っているなんてこともあるかもしれない。
誰かがミスをしたり、ちょっと、え?って思う行動をしてしまった時、つついてやりたくなるかもしれない。
全員がストレスフルな中、それは一番のストレス解消法になるかもしれない。
しかしそれで掴んだ成功って何の価値があるのか?
みんなが一旦休んだ方がいいのかもしれないけれど、問題はそうできない状況だったり環境だったりにあるのかもしれないね…。
話し合うべきはどこなのか。
例えばそれでいじめが起こった時に。つついた人、イジメに回った人だけを、処罰したり、悪者にしたらそれで終わりなのか?
それって何の解決にもならない気がする。
最低限そういう環境ではそういうことが起こりやすいという意識をひとりひとり持つことは必要だろう。
人ってそういう性質があって、環境によっては起こるものだというのを前提に、それでもその上で考える必要はあるだろう。
一体感を持たせるのに、『反感』を利用するのがひとつの手だと聞いたことがある。確かに悪口陰口は一体感をもたらす効果抜群だ。
だけどそれで得た一体感に本当に意味があるのか・・・?
ちょっと立ち止まって考えたい。
SNSの正論タタキについて
それからSNSの正論タタキ。
確かに誰かがミスをしたかもしれない。
でもそれって、誰かひとり、ひとりでなくとも何人かから正論たたかれただけで、もう分かっていると思う。
そこから輪をかけて次から次へと正論を自分も自分もとたたみかけるように追い打ちをかける人達。
もはやこれはその人に言ってやりたい、を超えて、ただの憂さ晴らしと快感を得るための行為に他ならない。
誰かを言い負かすことは気持ちがいいかもしれない。
でもちょっとまってくれ。
もうとっくに潰れてるから、その人。。。
という光景をもう何度も見てきた。
ネットの向こうに居るのもリアルな『人』であるという感覚が、何故こんだけ言われてきてもまだ分からない人であふれているのか。
溢れていると言っても、本当にごくごくわずかなのだろうけど、なんとも言えない悲しい気持ちになるね。
『勝つ快感』に負けず、なるべく人の気持ちを推し量れる人でいたいと思う。
長々と、まとまりのない文章ですみませんm(__)m
不快な気持ちになった方がいたらそれもすみませんm(__)m
最後までよんで頂きありがとうございました。
少しでもみんなが平和に暮らせることを願い、終わりにします。