二十三歳、春の死生観 〜自殺について〜
1,死生観とは何ぞや?
人生の経過とともに流動していく価値観のひとつに、「死生観」が挙げられる。言うに及ばず、各人が抱える生と死に関する価値観のことである。私はまだ大学を卒業して一年も経たないペーペーの若輩者であるが、ここで二十三歳なりに一旦、生と死について考えてきたことを開陳していこうと思い立った。いわば思想のアルバムとしてこの記事を書いていこうと思うのだ。
まずはざくっと死生観という概念について分析していこうと思う。ハイデガーを挙げるまでもなく、死は人間に思考、あるいは哲学をもたらす。哲学の「て」の字も知らない人々の中には、哲学とはどうやって生きるか、死とは何かについて延々と考えているという固定観念を持っている者も少なくないと思う(かくいう私がそうだった)。
実際は体系的な西洋哲学史において「死」の問題は、その深刻さとは裏腹に、陰に陽に影響を及ぼしながらもメインストリームとは言えそうにないトピックだった。片やどうやって生きるかという「生」の問題は、ソクラテス(プラトン)の時代から語られ続け、「規範倫理学」として現代まで体系として残っている。とんだ身分の差ではあるが、これには確たる理由がある。「生」と「死」は対称的な概念として対として語られがちであるが、その実、両者はあまりに非均衡的で不釣り合いな組合わせなのだ。
再び触れることになるだろうが、すこし話が逸れてしまったので「死生観」の分析に戻ろう。死生観の醸成には、個人によって隔たりがある。それは冒頭に書いてように年齢によっても変動するし、病気を患っているなど死に近い境遇にあるかによっても懸隔が生まれる。あるいは哲学を齧っているか、そうではないかも加味すべき指標となりうる。浅薄な死生観しか持たない老人がいれば、重厚で差し迫るような死生観を持つ子どもだっているだろう。無論、こんなことはすべてに言えることである。それに加えて、そもそもの問題として、各人が持つ死生観に浅いや厚いといった寸評的な評価語が安易に適用できるものなのか。
死生観というものは真剣な実存の次元において育まれる切実な価値観であり、いくらすかすかで反論の余地しかない稚拙な考えであっても無碍に切り捨てることはできない。そこに価値があるかどうかは、ただその思想にどれだけの真剣に取り組んだか如何にかかっていると私は考えている。それは様々な諸文化や諸宗教が持つ死生観においても同じことだ。
最後に一応指摘しておきたいのが、「死生観」と「哲学的な『死の探究』」は似て非なるものだということだ。まあ当たり前と言えば当たり前の話で、自然現象としての「死」の概念分析と、他ならぬ私の『死』を投機する実存的な(これは実存主義哲学的なという意味はまったく含まれていない)価値観の醸成は、やはりカテゴリーが異なっている。その意味で分析哲学的な「死の哲学」、死の害についてなどといった議論には、正直限界があると思っている(さりとて、実存主義的な大陸哲学の議論が優れているとはまったく思わないが)。
2,自殺に意味はあるのか?
本稿では私の死生観の一部として、自殺について考えてきたことを書いていきたい。私はもう哲学的な思考法に慣れ切ってしまって、自然、ここで語るのも哲学の議論領域にコミットしたものになる。上記した態度に添ったものにはならないかもしれないが許容していただきたい(いや、許容されるべきなのだ)。
最初に示しておきたいのが、この記事では「社会問題としての自殺」の是非については立ち入らないということだ。しかしまあ、自殺の善悪については後々に立ち入りたいと思う。この節で扱いたいのは自殺は有意味か、それとも無意味かという問題である。今年の夏頃までは私は自殺は無意味だという立場で考えていたはずだ。それが最近になって考えが変わった。おそらく不本意な仕事と窮乏した生活に追われているという実存的な環境も関わったのだろうが、とにかく自殺を無意味と有意味のニ極による螺旋運動として捉えるようになった。
自殺が無意味であるという信念の論拠について語ろう。自殺とは実存における脅威(それはある人には借金であり、いじめであり、または恋人に捨てられた、職を失ったというままならない現状であるだろう)からの逃避として行われる。自殺はマクロな視点から見れば、それ自体が生存戦略と見なすことができる。無論、この捉え方は矛盾している。幸福、あるいは快(科学的な言葉を使えば利得とでも言い換えられる)を求めるために、人はしばしば自らの手で命を絶つ。だが死の先に幸福を感じる主体は存在しない。つまり自殺はそこに意味を求めながら、死という究極の無意味に飛び込む自己同着の産物になってしまうわけだ。この見解は人生の意味(meaning in life)の哲学や反出生主義の領域においても接続可能な議論である。死の無意味性を説明するのは難しい。それはまさに『意味的な「無意味」』さえ呑み込む、語りえない究極の無意味(死の無意味性はこの表現の有意性さえも呑み込んでしまう)であるからだ。
以下、死の究極の無性を「絶対無」性と呼んでいこう。だから、自殺は表面的に見れば意味はなく、指を守るために腹を切らせるような行為でしかない。よく「死は救いである」などという世迷言が口にされるが、そんなはずがない。その言葉には死を救いであると思惟する主体(コギト)が暗に想定されているからだ。そんな風に考えていた。
だが自殺は皮相な見方では確かに無意味でありながら、ある程度の深みに立って眺めてみれば確かな意味を見つけられる。つまり自殺を生の延長線上の戦略と見るのではなく、死それ自体の「絶対無」性に意味を見出すのである。この次元において自殺という行為は、その究極の無意味性にこそ意味が生じるというパラドシカルな相を開示させる。私が先ほど「自殺を無意味と有意味のニ極による螺旋運動」と表現したのは、先に書いた自殺の多面性を表したものである。
この次元において新たに論じるべき問題が見出される。それは自殺の賭けとしての側面。つまり自殺の賭博性である。
3,自殺の賭博性を考える
前節の冒頭で私は「社会問題としての自殺」には立ち入らないと書いたが、「社会的な自殺の許されなさ」は興味を惹かれる問題ではある。だが自殺の客観的な善悪を議論するのは馬鹿馬鹿しいと思っているし(そもそも他人の自殺を許容するという言明自体が自己撞着の産物ではないか)、重要なのはただ「主体にとって自殺は善か悪か」でしかないと私は考えている。自殺の賭博性はその観点に立ってこそ始めて語られるべき問題である
ここで青山拓央先生が『心にとって時間とは何か』という本で有用な議論を提示しているので引用してみたい。この本の第四章では「自殺」がテーマになっているが、積極的に論じられているのは、「死ぬ権利は誰にあるのか?」という問題である。そこで青山先生は興味深い寓話を提示している。
架空の人物Xは、二十歳の時に自殺を試みるが不幸にも(幸福にも?)、失敗してしまう。その後、彼は歳を重ねるにつれて自殺願望も薄れていき、四十歳になった今では良い伴侶や仕事に出会って幸福な生活を送っている。そこにある日突然、二十歳のXが現れる。かつてXは自殺に失敗した直後、何らかの要因によってタイムスリップしていたのだ。若き日のXは歳を経た自分に対して、「おめおめと生きている」と怒りを向ける。「あなたは以前、はっきりと、未来の自分を殺す決意をした」のだから、自分に今殺されたって文句はないだろうと述べて、そのまま襲いかかるのだ。
以上が大まかなあらすじである。この話の瑕疵はタイムスリップが現代物理学で否定されていることであるが、それでも多様な解釈と発見を私たちに与えてくれる。それは青山先生が眼目としている「死ぬ権利」については言うまでもなく、人格の同一性についての議論にも接続できるし、なにより私がこの節で論じたい「自殺の賭博性」についても有用である。Xは自殺し損ねることによってさぞかし絶望したことだろうが、その後に生が存続したことによって人並みの幸福を手にすることができた。彼は自殺という賭けに降りたことによって(それが不本意なものであれ)、勝利をもぎ取ることができたのである。
反して自殺という賭けに降りたことによる敗北の事例を、三秋縋氏の『三日間の幸福』(原題は『寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。』)という小説に見ていこう。主人公である大学生のクスノキは、幼少期の輝かしい自分の姿と幼馴染の約束に足元を引かれ、暗澹とした満たされない日常を送っている。ある日彼の前に姿を現したのが、寿命を買い取ってくれるという怪しげな店だった。以下は残りの寿命を三十万円で売り払ったクスノキが、自分が送るはずだった壮絶な未来を聞かされる場面からの抜粋である。
「自身の容姿をよりどころの一つとしていたあなたは、いよいよ最後の手段に出ることを考えます。ですが、どうしてもあと一歩が踏み切れませんでした。最後に残った一滴の希望が、捨てきれなかったんです。『それでも、いつかいいことがあるかもしれない』という希望が。……確かにそれは、誰にも否定できない話なんですが、でも、それだけです。ある種の悪魔の証明に過ぎません。そんな頼りない希望を胸に、あなたは五十歳まで生き続けますが——結局、何一つ得られないまま、ぼろぼろになって、一人で死んでいきます。誰にも愛されず、誰にも記憶されず。最後まで『こんなはずじゃなかったんだ』と嘆きながら」
クスノキは本来の未来において、自殺という賭けに乗らなかったことで凄惨な余生を送ることになってしまう。死の「絶対無」性は、彼の場合において間違いなく救いとして働く。ほとんどの人間が、彼と同じような生と最期を送るぐらいなら能動的な死を選ぶと思う(そして彼はその選択を実際に下した)。もちろん、そうとは思わない人も一定数いるだろう。そういう人はたとえ完膚なき不幸であっても、「生」それ自体が絶対的な価値であり、また価値の産出の場であると考えているのだと思う。それもまた理解できる考えであるし、かなり興味深い観点である。
話を戻そう。自殺によって生を断念することが、幸福な選択であったか、不幸な選択であったかは賭けでしかない。しかもその賭けの勝敗を死んだ人間はどうやっても知りえないのである。現実にタイムスリップや未来予知といった反則技は用意されていない。自殺を選ばずに真剣に生き抜いたその先に、しばしば人は不本意で不幸な最後を迎えてしまうのである。自殺は確かにままならない生へのカウンターとして働く。しかし死の「絶対無」性は、その選択や希望自体も呑み込みながら、究極の無としてすべてを整地してしまう。
これは完全に私見であるが、それ自体さえ引っくるめた上で自殺は生への反撃となりうる、という相の元に自殺を捉える覚悟を持つ者だけが、初めて自殺という賭けに乗ることが許されるのである。
4,最後に
自殺が許される場合は、全てが許される。
何かが許されない場合には、自殺は許されない。
このことは倫理の本質に光を投じている。というのも自殺は基本的な罪だからである。
そして、人が自殺を研究するとすれば、それは、蒸気の本質をとらえるために水銀蒸気を研究するようなものであろう。
それとも自殺もまたそれ自身では善でも悪でもない、とでもいうのか!
上に挙げたのは、ウィトゲンシュタインの『草稿 1914-1916(藤本訳)』の最後に置かれた文章の抜粋である。大学時代、彼の哲学に触れたことで私の世界は一変した。この記事で彼の生涯について触れる気はない。だがこの記事を書くことで、若き日々を常に自殺の誘惑耐えながら、このように書いた彼の真意に軽くだが触れられたように感じた。
私は十代の中期から後半期まで自殺願望に取り憑かれていたが、(まれに周囲が抱くイメージに反して)哲学という営為を知った現在は自殺願望を持たなくなった。しかし自殺はしたいと思わないが、叶うなら消えてしまいたいとは常々思っている。この自殺願望と消失願望の懸隔は、青山先生が指摘している通り、自らを殺すのは思いの外大変だからなのだろう。人の能動的な死ににくさは、しばしば人を死から思い止まらせる。塵一つ残さず楽に死ぬことができる術があれば、人はもっと気楽にその選択を下すだろう。その願望の根底にあるのは、もしかしたら最期くらいは綺麗にいなくなりたい。そこにコギトたる主体はなくとも続く世界で綺麗に弔われたいという、ある種の祈りなのかもしれない。
今回は自殺について好き勝手に書き連ねたが、私の死生観をシリーズにして今すぐ続きを書こうという気はない。「死」とか「自殺」とかいう言葉を乱用した文書を書くのはやはりメンタルを削られる。ただでさえ仕事でメンタルがボロボロなのだ。しかも書いた後で読み返してみたら、大したこと書けてないではないか。辛い。
最後に。この記事がもし誰かの救いとなったのだとしたら、これ以上の幸福はない。
それでは。
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