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性愛(対人)関係は、コスパ的〈交換〉関係なんかじゃなくって、〈贈与〉なんじゃないかと思った話ーリモート授業と、交錯しない視線と、ある人類学的備忘録

【失われた2年】

「だって、コスパ悪いじゃないすか〜」

耳を疑った。ともに書店で働くアルバイトの学生さんと話す機会が増えた。帰途にふと、互いの恋愛事情を話す機会があった。語ったのは、大学2年生。今年30を迎えたわたしとは、10(!)もの年の差がある……。

聞けば、コロナ禍で入学し、キャンパスへ足を運んだのも片手で数えられるくらいだという。彼らが高校時代に想像していた学生生活を思えば、「失われた2年」のようなものかもしれない。

失われたのは、いわゆる対面授業の機会だけではない。サークル活動や、同じクラスで試験対策をともに講じる授業後の時間。日頃のあれこれを吐露し合い、「これからバイトか〜。だるいわ〜」などと交わす、何気ない会話。試験前にだべりながら、学食でともに追い込む前夜。そんな名付けようもないささやかな一時が、彼らにはない。

そう思っていた。でも、よくよく聞いてみると、失われたばかりではないことがわかってきた。オンライン授業がデフォルトと化した日々は、案外気楽で、便利だとも言う。わざわざ大学まで行く通学時間とか、煩わしい人間関係とか、その他諸々の面倒事から離れられてちょうどいいくらいでもある、と。個人差はあれど、二項対立的な是非論ではどうも一括にはできそうもなく、そもそも(失われたのかもしれない)と考える余地すらない世界が、そこにはあるのかもしれない。

10年前のわたしには、そんな、面倒くさい諸々の記憶が、ある。だからこそ、当時の級友とは、たとえ対面でなくとも、たしかにつながっているという実感を、いまでももてる。例え、それが、コスパがいいとされる、単なる音声やテキストに依拠したLINEでのやり取りだったとしても。どことなく、血が通い合っている気がするのだ。逆説的かもしれないけれど、これまで実にコスパ悪く構築されてきた関係性があるからこそ成り立つ、コスパのよい関係性だって、この期に及んでは存在しうると思うのだ。共有する過去の記憶、という大前提のもとに成り立つような、そんな関係性だ。

【オンライン/オフラインのはざま】

入学当初から、オンライン授業のオンパレード。今春。コロナだというのに、会社員を辞め、29歳にして大学院生になったわたしも、彼らと同じような境遇にいた。数年ぶりに身を置く大学という環境は、すっかり様変わりしてしまっていた。

連日のオンライン授業から離れ、唯一オフラインで、リアルの場でつながるのが、合間に働く書店だ。全国随一の規模を誇る大型書店。緊急事態宣言下とはいえ、連日連夜、老弱男女で賑わう。

当初、出版社での勤務経験を買われ「人文の棚担当を」と採用されたのに、絶妙な接客センスを発揮してしまったのか、ほとんどの時間、レジに駆り出される時間が増えた。なんたる境遇……。まさか、自分が書店のレジに立っているだなんて、去年の今頃は想像すらしていなかった。たまたま出張中だった出版社時代の先輩編集者が、わたしのレジで本を買ってくれるというミラクルも起きたりして、ちょっとしたドッキリみたいな瞬間にあふれる日々が、これまた面白くもある。

でも、楽しいことばかりでもない。あるときには、どこか苛立ったような、どこにぶつけたらいいのかわからないような感情を持て余して来店する人々のクレーム対応に追われることも、ある。ここにいる、みんな、どこか、うっすら荒んでいるような、そんな感じだ。お客さんだけではない。日々書店で勤務するアルバイトの学生も、むろん、わたしも、例外ではない。「サボテンからトゲが生えている」というよりも、「無数のトゲがサボテンに刺さっている」ような、そんな感じだ。

【目が、合わない】

「なんか、目合わせるの、ちょっと恐いんですよね。慣れないっていうか」

また別の日。ある学生アルバイトさんが、帰途に、こぼした。「研修生」の札をつけてレジ対応をしていたところ、どうやら60代ほどの常連のお客さんからクレームが入ったらしい。

「おたくの研修生は目を合わせようともしない。ぶっきらぼうだ」

その後、彼は、社員さんから厳しく指導されたらしい。マスクをしたまま、長時間立ちっぱなしで、声を出し続ける日々。ひとり分のお会計を済ませたら、とぐろを巻くような人混みを整備しつつ、休むまもなく、また次のひとりを呼ぶ、連続作業。混雑時には、水分補給もトイレ休憩すらままならず、数時間立ちっぱなしの日もある。

脱水症状や酸欠気味になって、倒れそうになる学生や、あまりの過酷さに数日たらずで書店を去る者も珍しくない。最もわかりやすい視線の掛け合いができないことで、世代によってはこうも不愉快極まりない想いをされる方もいるのだと、どうしても疲れてくると節目がちになっていた自分もハッとさせられたのは、確かだ。

わたしも、お客さんと、ほとんど目が合わない。大学生と思しき20代とは、とくにだ。ワイヤレスイヤホンをしたままお会計をするひとも多く、終始無言の場合も少なくない。こちらの問いかけには首を縦に振ったり、横に降ったりの、首振り応答のみ。オフラインで共に居合わせているのに、どこか言葉を渡し合えていないような、対話ができていないような虚しさを覚える。(お客さんは、ここには、いない)はたして、何が、そうさせるのだろう。

さきの学生さんも、入学以来、オンライン授業を受けてきた。2年間、ずっと。ある程度付き合いが長いわたしが目を合わせようとしても、一向にあわないことも、しょっちゅうだ。でも、だからといって、そのお客さんのように、けしからんと指摘したり、社員のように、偉そうに彼を責めることは到底できそうもない。

高校を卒業してまもなく、無機質なPCモニターにずらっと一様に並ぶ顔を前に、自宅で講義を受ける日々。なかには、ネット回線安定のために、先生の顔と講義スライドのみが投影され、挙手時以外には、学生一人ひとりのカメラや音声はオフにするよう指示されるような授業もある。ある先生は、わたしたちの顔や表情のニュアンスが捉えにくく、反応や間合いに困ったという。加えて、対面での接触や接近も許されず、除菌志向も強まる日々。

こんな状況下に2年も置かれていたら、視線を持て余してしまうことなど、容易に想像できる。どこに定めたらいいのか。視線の持って行き場が、身の定め方が、わからないのだ。だって、わたしたちの〈身体〉は、この2年によって、さらに居所悪くさせられてる気さえするのだ。

【対面でできること】

目が、合う。ただ、それだけでここにいていんだって言われているような気がすることはないだろうか。受け止められているような。先日、緊急事態宣言が解除され、大学でも徐々に対面授業が再会されつつある。後期、初回授業。皆、緊張の面持ちで教室で待つ。会話はほとんど、ない。なにせ、ほぼ初対面のメンバーばかりだ。初対面の先生が、がらっと勢いよくドアをあける。

「サワッディーカー!」

タイ出身の陽気な先生が、開口一番、笑顔で一人ひとりに目をあわせるようにして、挨拶をした。みんな、よく元気でここまで、きたねと。台風も接近していたその日。それは、台風のなか、はるばるよく大学まできたね、の意だけではない。きっと、これまでの数年に対する、心からの労いだった。何人かの目元がうっすらと潤むのが見える。気づけば、わたしのマスクは湿っていた。わたしたちには、こんな時間が、必要だったのかもしれない。おおげさかもしれない。でも、たしかに、みんなでここに生きているという実感がもてるような。

ようやく、やっと、一人ひとりと、目が、合う。どことなく、ぎこちない。ためらいながら、恥ずかしさを覚えながらも、わたしたちは、たしかに、視線を、交わしている。一人ひとりの、自己紹介が、はじまった。

【「コスパなんか」】

オンライン授業は、たしかにコスパがいい。基本的に、ネット環境があれば、どこでだってつながれる。回線の混雑防止のため、カメラをオフにすることが義務づけられ、教員の顔しかモニター画面に映らないような授業だってある。まるで、東進ハイスクールの配信授業を自宅で受けているような。一見双方向的に見えて、一方通行で、受動的。楽なのかもしれない。けれど、これがいわゆる「コスパ」なのだとしたら、わたしはそんなもの、くそくらえだとも思う。一時的な臨時措置だったオンライン環境が常態化し、デフォルトになりつつある現在、どこか勘違いさせられそうになるのが、これまた悔しい。もちろん、各人の状況や事情に応じたハイブリッド方式での開催など、柔軟な対応でがきればそれに越したことはないし、コスパ思考に乗っ取られすぎないよう、探り探りやっていければいいのだろうなとも思う。

〈コスパ〉が、したたかに、じわじわと、わたしたちの日々を侵食しているような気配を、一層感じる。それは、家庭や職場、大学などでの人間関係しかり、パートナーをはじめとする性愛関係においても、そう。

〈コスパ〉は、損得勘定ばかりで、自らを差し出そうとも、させない。メロスにとってのセリヌンティウスのような、この人のためならと、身を投げ打てるような相手が何人いるのだろう。とっさに走り出せるような相手は、どれほどいるだろうか。

【コスパの向こう側】

「あのひとは、わたしにこうしたメリットを授けてくれたから、わたしも同等のお返しを」ではない。人類学的に言えば、物々交換に代表されるような等価交換的関係ではなく、むしろ、マルセル・モースが言うところの、〈贈与〉に近い。見返りを求めすぎず、差し出すような、そんな関係性。そう思える相手がいるひとには、やっぱり敵わないと思うのだ。

わたしが尊敬する社会学者の宮台真司先生は、こう言っていた。

「クソみたいな社会に適応しようとするな。適応しているフリでいい」

この言葉に、日々の激務から「適応障害」と診断された当時会社員のわたしは、盛大に肩透かしを食らったものだ。適応しようとするとろくなことなんてないのだから。だったら、それっぽいフリをして、そうじゃない場所で仲間と思いっきり遊べばいい。そうじゃない場所、がわたしたちには、あるのだろうか。そんな場所が、性愛や、友愛にあるのではないかと、わたしは思う。社会では代替可能なわたしも、代替不可能になりうる場所が、そのあたりにあるんではないかと、わずかながらでも信じていたい気もするのだ。

冒頭の学生の発言に対するわたしの応答は、だいたいこんな感じだ。なんだか偉そうな、おせっかいさんになってしまった……。でも、彼が、性愛関係、ひいては人間関係において「コスパなんてくそくらえ」だと思えるようなひとたちと出会えるよう。コロナによって、がんじがらめにされ、緊縛してしまった心身を飼い馴らすようなつもりで、緊張もほどいていけたらいい。

ゆっくりでも、コロナなんかに、こんな環境に屈せず、ともにしたたかに、しなやかに、ゆるやかに泳いでいけるよう。〈コスパ〉に侵食されず、むしろ〈コスパ〉の輪郭の外側へ連れ出してくれるような、そんなひとたちと、出逢えるように。わたしも、きっと、誰かにとっての、そんなひとであるといい。(そんなひとで、ありたい)

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