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【小説】『マルチェロ・フォスカリーニのカーニヴァルの最悪な一週間』 8. 月曜の夜更け

 突然バンッと開け放たれた扉に、ボックス席にいたマルチェロとエドアルド、そしてソフィアはびくっと肩を震わせてそちらの方を振り返った。

「ちょ、ちょっとやあね、私よ私!」

 燭台を片手で持ちながら慌てて仮面を外す女はクリスティーナだった。
 エドアルドは「な、なんだクリスティーナか」とほっとした声を出した。

「まったく、ノックぐらいしろ。これだから礼儀のない庶民は……」

 マルチェロは眉をしかめてぶつぶつ呟くのを聞きながら、クリスティーナは「はいはい失礼しました」と言い、帽子とタバッロ、バウタを脱いだ。そしてボックス席の入ってすぐの台に火のついた燭台があることに気づくと、自分が持ってきた燭台の火をふうっと吹き消す。
 すでにボックス席にいた三人も、仮面の一式は外していたが、椅子には座らずいつでも逃げることができるように立って話していたようだ。
 身支度を整えたクリスティーナを見て、エドアルドが言った。

「クリスティーナ、彼女には俺たちの意思は伝えたよ……ソフィア、彼女が先ほどお話ししたクリスティーナです」

 エドアルドがそう言うのを聞いて、ソフィアは眉尻を下げてクリスティーナの方へ歩み寄った。

「クリスティーナ様、あなたが私の代わりを務めて逃してくださったのですね。なんとお礼を申し上げたら……」

 深々とお辞儀をしようとした彼女に、クリスティーナは「うわ、いいんですいいんです!」と慌てて止めに入ると、彼女の手を握った。

「私だけでやったことじゃありませんから。それに、私はただの時間稼ぎをしただけなんです、結局大使に“お前は誰だ”なんて言われちゃったし」

「それは想定内だよ」

 エドアルドがにこやかに言った。

「よくやってくれた、クリスティーナ。君がいなかったら俺たちの計画は成り立たなかった」

 エドアルドがにこやかにそう言うと、マルチェロは「私の立てた計画だ」と口を挟んだ。

「それにまだ解決したわけではあるまい。私の中の計画も完全に行き詰まってしまった……クリスティーナ、実はその……悔しいがお前の勘は当たっていた。父上もダンドロ様も結果的に当局と考えが同じだった」

 クリスティーナは一瞬目を丸くさせたが、残念そうに「そう」とだけ言った。

 もうこの国での大きな後ろ盾はない。彼女を助けるなど無理な話だーーもしかしたらエドアルドはほんとうに彼女と大陸に旅立ってしまうかもしれない。
 マルチェロは一瞬だけ苦しげな表情を浮かべたが、すぐに堂々としたいつもの顔になると、ソフィアの方を向いた。

「ソフィア嬢、勝手ながらあなたをここまで連れて来てしまったわけだが、私が言いたいことはあなたも察しているだろう。私はなぜ自分が牢獄に入れられたのか知らない。そしてあなたが当局に捕まり、大使に引き渡される理由も知らない。クリスティーナも来たことだ。話してはくれないだろうか、まずあなたが何者なのか」

 ソフィアは目を細めてこくりと頷いた。

「もちろんです。皆さん、私のためにここまでほんとうにありがとうございます。何もかもお話ししますわ……お役人の方々からはアンナ=ソフィアと呼ばれていましたが、私のほんとうの名前はアンヌ=ソフィー・フランソワーズ・ドゥ・レヴィエス。フランスのオランクール伯爵家の娘として生まれました。父の曽祖母が王家の庶子でした」

 マルチェロとクリスティーナが目を丸くさせた一方で、エドアルドは目を細めた。
 ソフィアは続けた。

「ご存知でしょうが、数年前から我が国では革命が起きています。初めの方はただの暴動かと思っていましたが、ある日突然父が血相を変えて屋敷を出て行ったきり戻ってこなくなってから、毎日が恐怖でいっぱいでした。数日経って、市街に探しにいってくれた使用人から街灯に父の首がぶら下がっているのを見たと報告があったときは、もうだめだと思いました」

「ひっ」

 クリスティーナが小さく悲鳴を上げた。マルチェロも自分が彼女の身に降りかかったことが自分にも起きたらとうっかり想像してしまい、ぐっと胃が縮む思いがした。向かいに立つエドアルドは口を引き結んだまま何も言わなかったが、彼も同じだろうとマルチェロは思った。
 ソフィアは続けた。

「でも……私には兄がいました、リュシアンと言います。優しく勇敢な二つ歳上の兄は、殺された父のことを知ると私に逃げようと言いました。私は泣いてばかりでしたが、リュシアンのおかげですぐに荷物をまとめて無事に国を発つことができたのです」

 マルチェロは顔をしかめた。このソフィアの兄という人物がよくわからなかった。結局誰なのか未だ実態を掴めていないのだ。

「前にカフェで会ったときに、あなたは兄君と一緒に“さるお方のお屋敷に住んでいる”と言っておられただろう。“さるお方”とはダンドロ様で間違いないはず。兄君は今、どうしておられるのだ。あなたは大使に連れていかれそうになっていたのだぞ、まさかダンドロ屋敷で隠れているわけでもないだろう」

 マルチェロの問いに、ソフィアは急に顔を曇らせた。今までわずかに笑みを浮かべていたのだが、それは完全に消え失せ、顔を一瞬顔を歪めるとそれを隠すように俯いた。

「兄は昨日…………死んだそうです」

 マルチェロの目が大きく見開かれた。

「なんだと」

「え、し、死んだ……? ほ、ほんとうに……!?」

 エドアルドの驚く声に、ソフィアは小さく頷いた。

「はい。お役人から聞いた話なのですが、確かだそうです。理由もわかっています……何もかも、私が悪いのです、私が余計なことをしなければ、こんな、ことに、は」

 俯いたままのソフィアは肩を震わせている。マルチェロは眉を寄せた。泣いているらしい。
 こういうとき、マルチェロはどうしたらいいのかわからなかった。一方でエドアルドはすぐに懐からハンカチを取り出して差し出した。ソフィアは「ごめんなさい、わ、私」と言ってハンカチを受けとる。そしてクリスティーナは彼女の横にくっついて背中を撫でて言った。

「大丈夫ですよ、つらかったんですから、無理もありません。息を吸って気を落ち着けて。そこに座ってください」

 クリスティーナの穏やかな声に従い、ソフィアは「ええ、ありがとう」と言って目の前の椅子に腰を下ろし、呼吸を整えていく。
 どうやらすぐに泣き止んだようで、マルチェロはほっとした。

「ごめんなさい……もう、もう大丈夫ですわ。泣いてばかりでは話が前に進めませんものね」

 そう言って顔を上げたソフィアは目を赤くさせていたが、きっとした表情になっていた。ソフィアは座ったまま話し始めた。

「この秋、リュシアンと私がこちらの国に来たのは、身内がいると聞いていたからです。私たちは遠い親戚にすがるしかないと思っていました。しかし見つけたのは、身内どころか、私たちの兄弟に当たる方でしたーーリュシアンの双子の弟がいたのです」

「双子の……弟?」

 エドアルドが呟くように反復した声が、劇場にやけに響いたように感じる。
 マルチェロは目を瞬かせた。わけがわからない。ソフィアに兄がもう一人いたということか? それもヴェネツィアに?

 ソフィアは言った。

「私も本人に聞くまで存在すら知りませんでした。リュシアンも同じようでした。兄たちが産まれたとき、迷信深い祖母が双子は不吉だと忌み嫌ったそうで、先に産まれたリュシアンはそのままフランスの伯爵家で育てられましたが、後から産まれた子の方はすぐにヴェネツィアにいた遠縁の者に預けられたそうです。信じられない話でしたが、ヴェネツィアにかつて遠縁がいたことは事実ですし、なにより彼はあまりにもリュシアンと瓜二つでした」

 マルチェロは顔を歪めた。王家の血縁に当たる貴族の家に産まれたのに、その家の子として育てられないとは、どのような心地だろうか。ましてや自分の生まれ故郷からは遠い地に追いやられるなどとは。

 ソフィアは続けた。

「彼は、母国から逃れてきた私たちを自分の家に住まわせてくれました。私たちの身を案じ、豪華な服装では正体がわかってしまうからと、替わりの服装を用意してくれました。彼は自分以外の縁戚は皆この町を去ったということ、自分は政府の役人のもとで働いており、私たちとは家族になりたいと思っていると話していました。しかしまた、生きていくには働かなければならないとも言いました。そこでリュシアンは彼とともに働くことになり、私は劇場で歌うことにしたのです。取り柄はそれしかありませんでしたので」

 なるほど、それで舞台にいたのか。しかし来たばかりでプリマドンナを任されるとは、彼女には少なからずそういった才能があったようだ。
 聞いていた三人は同じように考えて頷いた。

 ソフィアはさらに続けた。

「本格的な冬になったある夜、舞台公演の後に突然見知らぬ紳士が目の前に現れて、有無を言わさずあるお屋敷に連れていかれました。それがダンドロ屋敷でした。ですが、そこにはもうすでにリュシアンがいました。リュシアンはダンドロ様とは仕事でお知り合いになったとのことでしたがあまり詳しくは教えてくれませんでした。ヴェネツィア育ちのもう一人の兄がいなかったので、私が彼のことを尋ねると、ダンドロ様は彼のほんとうの目的を話してくれました」

「ほんとうの目的?」

 マルチェロが眉を寄せたのに、ソフィアが頷いた。

「ええ、彼は私たちと家族になりたいと言っていましたが、彼はほんとうはリュシアンと私を亡き者にして、リュシアンになりかわって生国に帰ることがほんとうの狙いでした。リュシアンの服を着て、彼になりすますことで、オランクール伯爵家の嫡男になることを望んでいたのです」

「なにをばかな……今あの国はそれどころではないというのに」

「彼は革命のことを知らないわけじゃないでしょう?」

 マルチェロの呟きと、クリスティーナの問いに、ソフィアは眉尻を下げて頷いた。

「おそらく彼には、自分は大丈夫だという思いが強くあるのだと思います……彼も貴族に苦しめられたというのは事実ですから。それに革命の恐怖以上に彼はかねてからの貴族の称号を望んでいたのでしょう」

 マルチェロは眉をしかめた。明らかに矛盾している。あの国の革命はそもそも国王や貴族などの身分制度に対してのものと聞いている。身分制度を否定する連中と同じ立場にありながら伯爵位を望むのか。よくわからない。

 ソフィアは続けた。

「ダンドロ様は、彼から私たち兄妹を守ってくださることを保証してくださいました。ですが私は舞台で大役を引き受けておりましたので、ダンドロ様の許可を得て先週まで舞台に立たせていただきました……ですがあのお方がこうして守ってくださるのは、あくまでヴェネツィアの人間がフランス人である私たちを殺めることを防ぐため。そのうちに本国に返されることは覚悟しておりました」

 エドアルドは「そんな」と顔を歪めた。

「せっかくこの国に逃げてきたというのに! 兄上だってそんなことは望んでいなかったはずです」

 エドアルドが悲痛そうな声でそう言うと、ソフィアは少しだけ目を見開いてから「その通りです」と悲しげに微笑んだ。

「リュシアンはダンドロ様に隠れて双子の弟と連絡を取り合おうとしているようでした。彼の望むものを与えることで、私とこの国に滞在しようと必死に行動してくれていたんですわ……それが心苦しくて、私はリュシアンにエドアルド様のことを話しました」

 突然自分の名前が出てきたことにエドアルドは「えっ」と声を漏らした。

「ああ、あの木曜のことか」

 マルチェロが確認するように言った。エドアルドと劇場に行き、その後カフェでソフィアを呼びつけて話をした夜のことだ。

 ソフィアは頷いた。

「ええ。あのときエドアルド様は、私のファンだと言ってくださいましたわね。困ったことがあればなんでも言ってくれとおっしゃってくださったでしょう。住む場所も食べ物も……私はそれがとても嬉しかったのです。ですが、そんな風に言ってくれる方がいるとリュシアンに伝えたら……彼は急に怒り出しました。私のことを心配してくれたのでしょうけど、ファンなどろくなものじゃない、どうせ下心しかないのだと言って、エドアルド様とは今後縁を切るようにと言われました」

 ほう、きちんとした兄君ではないか。貴族としての教育が行き届いてたのだな。感心したマルチェロは何気なく視界に入った友人が明らかにがっくりと肩を落としている様子にふっと笑みを浮かべた。

 ソフィアはさらに続けた。

「リュシアンに言われたということもありますが、私は亡命してきた身ですから、善意に溢れたこの国の方とは関わってしまってはいけないと思っていました。それできちんとそのことをお伝えしようと、金曜の夜エドアルド様に教えていただいた住所のお屋敷に向かったのですわ」

「それが私の屋敷だったわけか」

 マルチェロがちらりと友人をちらりと見ると、エドアルドは亀のように首を引っ込めた。

「ソフィア嬢。あなたは確かあのとき、舞台の方の仕事は非番で、無断で屋敷を出たと言っていたな」

 ソフィアは「はい」と決まり悪そうに頷いた。

「リュシアンからはもう二度と関わるなと言われていたので、会いに行くと言っても許してくれないと思ったのです。でも私はどうしてもエドアルド様にきちんとお話をしたかったので、無断で外出して……結局それが原因でした。リュシアンやダンドロ様には気づかれずに屋敷を出る事ができましたが、外ではあのヴェネツィア育ちの兄が見張っていたようでした。それに気づかず私がマルチェロ様のお屋敷に行ったものですから、あんなことになってしまいました。私のせいでマルチェロ様が牢獄になど……ほんとうに、お詫びのしようも……」

 俯いて申し訳なさそうにしているソフィアに、マルチェロは「もうよいのだ」と片手を挙げた。

「先ほど十分に詫びてもらった。それにもとはといえばソフィア嬢ではなく、責任があるのは自分の住所を書かなかったエドの方だ」

 エドアルドの「いや、ほんと悪かったって……」と蚊の鳴くような声が聞こえると、マルチェロは鼻を鳴らした。

「まあ、エドに度胸がないのは最初からわかっていたことだからな。それに……私がピオンボに入れられたのは、他にも何か理由があるようだった。父上は教えてくれなかったのだが、あなたは何かご存知ないか?」

 ソフィアは俯いていた顔を上げた。苦しげな表情を浮かべている。

「すべては存じ上げませんが、おそらく……リュシアンの死と関係しているのかと思います」

 その言葉に、話を聞いていた三人は目をぱちくりさせた。クリスティーナが「それってまさか」と口を開く。

「マルチェロが脱獄したからあなたのお兄さんが亡くなった、ってことはないですよね? もしそうなら……」

「いいえ」

ソフィアが首を振った。

「そうではありません。確かに、結果的に見ればそう言えるかもしれませんが、すべては兄自身のせいであり、身内の問題であり、そして私に責任があります。マルチェロ様はほんとうに、何も咎めもありませんわ」

 それを聞いて、クリスティーナがいくらかほっとした表情を浮かべた。マルチェロはそれを横目で見ていたが、ソフィアの方に視線を移した。

「身内の問題ということは、リュシアン殿は双子の弟に殺められたということだろうか。だが、ダンドロ様のお屋敷で守られていたのだろう? そこがわからない」

 ソフィアは目を伏せて頷いた。

「おっしゃる通り、リュシアンを殺めたのはもう一人の兄でした……と言っても、私も間近で見ていたわけではなく、金曜日の夜にお役人に連れて行かれた修道院の独房で人伝に聞きましたーー私が無断で屋敷を出たこと、そして役人に囚われたと聞いて、リュシアンは相当怒りを募らせたようでした。ダンドロ屋敷を飛び出して、この国に仕えている双子の弟と協力関係になりました。私が向かった先がマルチェロ様のお屋敷だったことから、リュシアンはマルチェロ様こそが私の話したエドアルド様だと勘違いしたようで、怒りのままに牢獄にいるマルチェロ様を、他の役人に隠れて処刑しようとしていたそうです」

 マルチェロはぎょっとした表情を浮かべた。勘違いだと? 私はエドアルドの度胸がないせいで間違って殺されようとしていたのか。とばっちりにもほどがある。

「そうか、それだったんだわ!」

 クリスティーナが声を上げた。

「あの看守の男が陰から聞いていた物騒な命令。あれはソフィア様のお兄さんたちの話し声だったのね」

“日曜の朝までに彼女と接触した例の人物を他に捕らえることができなければ、C318の男を誘拐の犯人として早々に処刑してしまえ”

 おそらく後からエドアルドという人物が牢にいる男とは別人であると知ったのだろう。そして妹が話した本物のエドアルドを捕らえることができなければ、マルチェロを見せしめに処刑するつもりだったのだ。
 だが、とマルチェロは思った。フランスからの亡命者である男がそんな権限を持っているはずがない。

 マルチェロの疑問を、クリスティーナが代弁するように言ってくれた。

「もしほんとうにマルチェロが処刑されたら、フランス貴族によるヴェネツィア貴族の殺害ということにならないかしら。ピオンボはあくまで当局の傘下でしょう、お兄さんの方も危ないんじゃ……」

 ソフィアは「その通りです」と頷いた。

「この国でリュシアンが刑を執行する権利はありません。もし執行していたら、彼自身が罪を問われて深刻な問題になっていたに違いありませんわ」

 マルチェロは首を傾げた。話を聞く限り、ソフィアの兄リュシアンはそれがわからぬようなばかではなさそうなのに。

「……何かリュシアン殿を動かすようなてこのようなものがあったということか」

 マルチェロの呟きに、ソフィアは苦い表情で頷いた。

「お役人の方は何も言っていませんでしたが、おそらく双子の弟がけしかけたのだと思います。リュシアンが罪に問われ罪人として捕らえられることを誰より望んでいたのは彼ですから。憶測にはなりますが」

「いや、おそらくそうなのであろう……その双子のもう一人の兄はヴェネツィアの役人のもとで勤めていると言っていたな。どんな部署にいる奴かはわからんが、少なくともピオンボの看守かあるいは十人委員会と繋がりがある男には違いないな」

 マルチェロはふむと考え込んだ。私を捕らえた兄上は、この双子の弟のことをご存知だったのだろうか。もしそうだとしたら、兄上は私が処刑されるのを黙っておられるおつもりだったのだろうか。
 複雑な思いを抱えているマルチェロの横から、クリスティーナが「でも」と言った。

「マルチェロが勝手に牢を出てしまって、リュシアンさんも双子の弟さんも怒ったでしょうね。脱獄したと知って、二人はどうしたのかしら」

 ソフィアが言った。

「お役人の方から聞いた話では、マルチェロ様が逃げた後、リュシアンは広場を歩いているマルチェロ様らしい方を見つけて、殺めようとしていたと聞いています。そしてその場に居合わせていた双子の彼が……リュシアンの暴走を止めるために仕方なく刺したとのことでした。でも今思えば、彼はむしろその機会を狙っていたのかもしれませんね。リュシアンを激昂させることで、兄の殺害を正当化したのかもしれません」

「そんなの、言い訳にもなりませんよ!」

 エドアルドが腹を立てたように声を上げた。

「兄君に殺意があったなんて、証拠はあったのですか? どうせこじつけでしょう。それにマルチェロは外ではずっと仮面をつけていたんだ、兄君たちが見つけたのがほんとうにマルチェロだったかどうかなんてわからない」

 エドアルドの言葉はいちいちもっともだとマルチェロは思った。第一に自分はその双子たちを知らないし、そんな騒ぎがあったなら気づくはず……と考えてからマルチェロははたと昨日の出来事を思い出した。

 そういえば昨日の朝、広場でなにやら騒ぎがあったのではなかったか。

 ソフィアは悲しげな笑みをエドアルドに向けた。

「私もエドアルド様と同じことをお役人に言いました。ですが、調べによるとリュシアン自身も懐に短剣を忍ばせていたそうです。そのゆりの紋章が刻まれた短剣は、先代のオランクール伯爵がフランス王家から譲り受けたもので、間違いなく父から長男のリュシアンに受け継がれたものでした。それに、双子の彼は……」

「バレッティかっ!」

 突然マルチェロが大きな声を上げて、ソフィアの言葉を遮るようにして言った。

「リュシアン殿の双子の弟の名はバレッティであろう、ソフィア嬢! これで合点がいく」

 マルチェロの確信づいた言い方に、ソフィアは驚いた表情をしていたが、「え、ええ、そうです」と頷いた。

「バレッティだって?」

 エドアルドが眉を寄せた。

「バレッティって、例の密偵だろ? ダンドロ屋敷で部屋を覗いていて、フォスカリーニ様と接触して、お前んとこの邸を訪ねて、それから昨日の朝俺たちが広場で見たあの……あっ……え、も、もしかして!」

「そうだ、エド」

 マルチェロは確信したように頷いた。

「我々が今まで追いかけ、そして追われていた赤胴色のタバッロの男は、ソフィアの双子の兄君たちだったのだ。私が見たバレッティの様子と、姉上が言っていた高貴なふるまいにも納得がいく。二人はタバッロや衣装を共有していたに違いない。はっきりとした区別はつかなかったが、確かなのはあの広場で刺されたのがバレッティではなくリュシアン殿の方だったということだ」

「そういうこと!」

 クリスティーナも納得したように頷いた。

「バレッティはこの国の密偵、ダンドロ様の屋敷にある覗き穴まで知っているんだもの。きっとマルチェロがうちの娼館に逃げたことも、秘密警察としての情報を駆使して聞きつけたんだわ、その後もずっとつけられていたのかも。それで二人のすぐそばであんな事件が起こったのよ」

 マルチェロは昨晩ゴンドラに乗ったときのことを思い出した。そうだ、船頭に言われて気づいたが、あのときも私は誰かにつけられていたのだ。あれがバレッティだったのかもしれない。

「あ、あの、エドアルド様」

 ソフィアは恐る恐るというように声を震わせて問いかけた。

「もしや昨日の朝、エドアルド様は……リュシアンの最期を見たのですか?」

 エドアルドは、あっという顔をしてから少し眉尻を下げて小さく頷いた。

「……見ました。突然広場で悲鳴が上がったので、何事かと思ってみたら一人の男性が血を流して倒れていました。すぐ近くにいた人たちが駆け寄って抱き起こしていましたが、その、すでに意識はなく……すぐ近くに教会もあったし、誰かが医者や司祭を呼んでくれていたので、大勢に囲まれて身罷られたと思います。俺たちはすぐにその場を離れてしまった……申し訳ありません」

「そんな、とんでもありません!」

 ソフィアが首を振った。

「民衆にむごいやり方で殺されることも、たった一人で孤独に死ぬのでもなくてよかったんですわ……まさか司祭様まで呼んでくださるなんて……この町の温かい人たちに見守られた最期だったのですね。ほんとうに、よ、かった」

 最後は声を詰まらせたが、ソフィアは涙を浮かべながら嬉しそうな表情を浮かべていた。
 その様子がなんとも哀れで、マルチェロは自分を殺そうとしていた人物であったにも関わらず、その亡くなったフランス貴族にそっと哀悼の意を込めた。


 ソフィアはしばらくエドアルドからもらったハンカチで涙を拭っていたが、やがて大きく息を吸った。

「皆さん、私のためにほんとうにありがとうございました。もうこれ以上ご迷惑はかけられません。一緒に来た兄ももう亡くなりました。私にはもうどうすることもできません。お役人の方からは、明日の正午にフランス大使と一緒に船でこの国を出るようにと言われました。ここまでしていただいて大変言いづらいのですが……私は大陸へ帰ろうと思います」

 三人の若者は目を丸くさせた。

「そんな!」

「だめよ!」

 エドアルドとクリスティーナは叫んだが、ソフィアは俯いたまま何も言わない。

「ソフィア嬢」

 マルチェロは落ち着いた声で呼びかけた。呼ばれた令嬢が顔をあげると、マルチェロはまっすぐに彼女を見つめて言った。

「私は祖国に誇りを持っている。何が起ころうとこの国に骨を埋める覚悟だ。だが、あなたはそうではないだろう。ご自分がなぜ今生きておられるのか存じているはず。革命の最中では父君が、共和国に来てからは兄君が身を挺して守ってくださったのだ。それこそがあなたの持つべき誇りだ。ここまで来たのだ、簡単に捨てるべきではないお命だぞ」

 ソフィアはそう言われて苦しそうに顔を歪める。その隣でクリスティーナは「マルチェロにしてはまともなことを言うじゃない」とぼそりと言ったので、マルチェロはだまれと言わんばかりにギロッと睨んだ。
 エドアルドが「それに」とソフィアの方を向いて真剣にな目で言った。

「俺たちに迷惑だなんて思わないでください。これは、俺たちがやりたくてやったことなんです。ソフィアの望みを聞きたい。どうするべきかではなく、どうしたいかだ。そのためなら俺はなんでもしたいんです……どうかそうさせてください」

 その力強い言葉に、ソフィアは眉尻を下げて目を潤ませた。

「で、でも……もうどうしたらいいかわからないの。マルチェロ様のように、私のせいで誰かが危険な目に合うのが一番嫌なんです。大使はきっと今私を探しているでしょう……見つけない限り帰らないかもしれないわ。政府はもう私の存在を知っています。リュシアンを殺めたもう一人の兄から逃れる術は本国に帰る以外にはないのです」

 マルチェロは口を引き結んだ。実際のところ、このまま彼女がこの国に残ることは難しいだろう。彼女の言う通り、フランス大使をはじめ役人たちが血眼になって街中を探しているのに違いない。騒ぎに紛れて逃げるのが簡単なのは祭りの期間である今だけだ。小さい国であるため、見つかるのは時間の問題だった。

「おおお、お、俺が」

 エドアルドが少し顔を赤くして言った。

「俺があなたを連れて、ど、どこか遠いところにいきます。フランスでもこの国にでもない場所に、い、一緒に行きませんか」

 震える声で懸命に言葉を紡いで最後まで言い切った友人に、マルチェロは心の中で“よく言ったな”と激励した。
 ソフィアは驚いた表情を浮かべていたが、やがて微笑んで首を振った。

「ありがとうございます、エドアルド様。でも私は、あなたをこの国から引き離すつもりはありませんの。あなたはこの国の大事な貴族ですわ、お役目を忘れてはいけません……あなたのお気持ちは嬉しいのですけど」

 ほう、兄妹揃ってまともなことを言うではないか。オランクール伯爵家は名門だったのだなとマルチェロは舌を巻いた。
 感心していたマルチェロとは打って変わり、エドアルドはソフィアの返事に「そ、そうです、か」と暗い顔で肩を落として俯く。
 今度酒に付き合ってやるか。マルチェロは友人の肩をさりげなくぽんぽんと叩いた。


「ソフィア様」

 ふいにクリスティーナが口を開いた。

「あの、変なことを聞きますけど……私は今娼婦をやっていますが、どうしてだと思います?」

「え……」

 突然の突拍子もない質問に、ソフィアとエドアルドは目を瞬かせ、マルチェロは思いきり眉をしかめた。

「おい、くだらんことを……」

 話すなとマルチェロが言う前に、クリスティーナは話の続きを始めた。

「私は少し前まではお針子とか洗濯なんかをして暮らしていました。でも父が死んでからはそれだけの稼ぎじゃ足りなくなって、どうしようかなあって考えたんです。まず何を考えるかと言うと、生きるか死ぬかです。私は死ぬのはいやだなあと思いました。何の取り柄もありませんが、生きるために自分ができることはなんだろうと考えて、今の仕事に就きました。食事も寝床もあるし、姐さんたちは頭が良いから文字も教えてくれるし、結構快適です」

「クリスティーナ、お前まさか彼女を娼館に……」

「うるっさいわね、マルチェロ! いいから黙って聞いてなさい! ……まずソフィア様、生きるか死ぬかを決めるべきかと思います。死ぬのを選ぶのなら確かに本国に戻るべきですが、生きるのを選ぶのなら話は違います。ソフィア様だってまだ死にたくないはず。だってやり残したことも、まだやりたいこともあるでしょう?」

「私の、や、やりたいことなど……」

 ソフィアは俯いたまま黙りこくってしまった。クリスティーナが代わりに言った。

「あるわ、歌が」

 ソフィアははっと顔を上げて、潤んだ瞳でクリスティーナを見た。言いたくても言えなかったような表情をしている。
 クリスティーナはにっを浮かべた。

「この国に来てから働けと言われたときにまっすぐに劇場に向かったのでしょう? ソフィア様には歌があります。この町の人々はみんなあなたの歌の虜になりました。エドアルドもそうです。あなたはこの国で歌を歌うべきではありませんか」

「で、でも、う、歌うなんて……私はもう」

「ソフィア様、まずはどうしたいかと言うお話ですわ。方法や手段はさておき、お心を決めるのが先決です。たとえ夢だとしても、そのために生きればいいのです。ソフィア様の願いはなんですか?」

 まっすぐに令嬢を見つめるクリスティーナの、柔らかく、そしてはっきりとした声が静かなホールに響いた。
 マルチェロは、手段を考えるよりも心を決めるのが先とは、いかにも庶民的な言葉だなと思った。しかしいつもであればただ鼻で笑うだけだったが、心の片隅でそうした考えを羨ましく思う自分がいることに驚いていた。

 ソフィアは少し俯いて考えていたが、やがて言った。

「私は……歌いたい。貴族であることにも祖国にも未練はないけれど、歌は私の夢ですの」

 それを聞いて、クリスティーナはふふっと笑い声を上げた。

「じゃあ決まり! よかったあ、ソフィア様の歌はエドアルドが言うように、ほんとうに素晴らしいんですもの」

 クリスティーナの微笑みに、ソフィアも小さく笑みを浮かべた。
 その明るい雰囲気に、マルチェロは顔を目を細めた。

「……なにが“じゃあ決まり”だ。それだけ決めたところでどうしようもないだろう。この後どうすればいいのかまた作戦を考えねばならん」

「あーらマルチェロ、作戦を考えるのはあんたのお得意でしょ。それに、ソフィア様が歌を歌いたいと仰っているんだから、その通りに事が運ぶようにすればいいだけじゃない」

 マルチェロはギリと歯を噛み締めた。簡単に言ってくれる。だが、ここで反論すれば能無しと言われるかもしれない。マルチェロはそれが嫌だった。
 マルチェロは片手で栗色の髪をがしがしと掻き上げると、咳払いをした。

「まず我々がどうにかしなければならないのはフランス大使だ。彼がソフィア嬢を要求しているから、ヴェネツィア政府も従わざるを得ない。フランスとの関係は良好のままにしたいからな。ソフィア嬢、大使の人となりをご存知か」

 マルチェロの問いに、ソフィアは首を振った。

「申し訳ありません、革命が起きてからの状況は、私にもあまり……」

「ならば仕方あるまい。クリスティーナ、お前は大使と少しは話したのであろう、どんな様子だったかわかるか」

 クリスティーナは肩をすくめた。

「話したって言っても、罵倒し合っただけよ。踊っている間はずっとフランス語で話しかけられていたけど、私には一言もわからなかったし、仮面をつけているから雰囲気もわからない。まあ……気難しい感じはしたわね、でもわりと若いと思ったかも。あと、私の仮面を剥がして驚いていたから、ソフィア様の顔はご存知みたい。どちらにせよ彼は無理矢理にでも連れて帰るつもりだったみたいだから、話せばわかってくれるタイプじゃないわね」

「ふん、フランス語の一言もわからぬとは、お前は全く…………だがそうなると、やはり彼を欺くしか方法はなさそうだな」

「さっきみたいに、私がソフィア様の代わりを務めるってのはどう? あーソフィア様、何も言わないで。“私のために危ない目に合わせるわけには”の言葉はもう聞き飽きたわ。大丈夫、ヴェネツィアを出てフランスに着く前に大陸のどこかで逃げ出せばいいのよ。そうすれば今度こそ大使も探すのを諦めるんじゃない?」

「しかし、大使はすでにクリスティーナとソフィア嬢を間違えたとわかっているから、本人かどうかという点では強い警戒心を持っているはずだ。今夜のように容易にはいくまい。きっと仮面を剥がされて顔を確認されるに決まっている」

 マルチェロとクリスティーナが話している中で、ずっと黙っていたエドアルドが突然「あのさ」と口を挟んだ。

「俺、劇場の楽屋で見た俳優たちのことを思い出したんだけど……化粧でクリスティーナをソフィアに似せることもできるんじゃないかな。そうすれば仮面を剥がされてもソフィアだと思わせることができると思う」

 マルチェロはああと頷いた。なるほど、それはいい考えだ。濃い化粧はほんとうに人の顔を変える。

「難しいこと言うわねえ」

 クリスティーナは眉を寄せて、ソフィアの顔をまじまじと見た。

「まあ、できないこともないか。顔の形の違いはバウタでどうにかなるわね……姐さんたちに化粧のやり方を教わっといてよかった」

 マルチェロは「だが」と言った。

「言語はどうする。お前は一言もフランス語がわからないのだろう。会話ができなけば、すぐにわかってしまうではないか」

「そこは大丈夫よ、何か言われたら泣き崩れてしまえばいいんだから。わんわん泣いてたらまともに会話できなくても不思議じゃないでしょ。演技の方は任せておいて」

 胸を張るクリスティーナに、マルチェロは少しでも学ぼうとは思わないのかという言葉を飲み込んで、別の事を言った。

「服は全部取り替えるとして、仕草とふるまいも最低限身につけないとごまかせないぞ。歩き方、座り方、お辞儀の仕方、今のお前では全部不合格だ」

 クリスティーナは目を細めた。

「ほんと、マルチェロって口うるさい姑のようね……いいわ、やってやろうじゃないの。ソフィア様、しばらくの間私の汚いドレスで我慢してくださいね」

「汚いだなんて、クリスティーナ様!」

 ソフィアは眉尻を下げて心から感謝を述べた。

「ありがとうございます……私からは何もお礼を差し上げることができないというのに」

 クリスティーナはへらっと笑った。

「いいんですよ……あ、でももし今度のことがうまくいったら、帽子に付いてるその大きな真珠もらえます?」

「おい、クリスティーナ」

 マルチェロが口を挟もうとするが、クリスティーナは続けた。

「ヴェネツィアだと規制がかかってて、大きな真珠は手に入らないんです。お礼の方はできればあれでお願いしたいですわ」

「やめろクリスティーナ。みっともないぞ」

 マルチェロがクリスティーナの肩を掴んだ。

「あらいいじゃない、お礼がしたいって言ってるんだから」

「たとえそう言われても断るのが筋だろう。そんな礼儀もわからないのか」

 マルチェロがわめいたのに、クリスティーナは「はいはい、わかったわよ姑さん」と肩をすくめた。

「誰が姑だ、私はそんな歳ではない!」

「歳で言ってるんじゃないの、その性格。気になるんだったら一度見直してみなさいよ」

「な、何を……無礼な!」

 小競り合いを始めた二人に、ソフィアはきょとんとしていたが、二人の不毛なやり取りにくすりと笑い声を上げた。
 向かいで見ていたエドアルドはそれに目元を和ませた。よかった、ちゃんと笑えるようだ。そう思って、エドアルドは彼女の隣に移動した。

「すいません、いつもこうなるんですよ」

「仲がよろしいのね」

「二人とも似たような性格をしてますから……おい、マルチェロ、クリスティーナ! ソフィアの前だぞ、いい加減にしろ!」

 エドアルドが間に入って、ようやくホールは静けさを取り戻した。
 ガランガランと鐘のなる音が聞こえる。おそらく終祷の祈りの知らせだろう。ずいぶんと時間が経ってしまったようだ。
 クリスティーナとマルチェロはそっぽを向いたままだったが、エドアルドは咳払いをして言った。

「整理しよう、まずクリスティーナがソフィアの代わりを務めることは決まった。それで、どうする? 今はまだ役人も大使も町を駆けずり回ってるぞ」

「……ダンドロ様に手紙を書く」

 背中を見せたままのマルチェロが、ホールを見下ろしながら言った。

「ソフィア嬢が大使と共に本国に帰還することを決意したと書けば、ダンドロ様ならすぐにヴェネツィア当局に伝えてくださるだろう。ソフィア嬢、大使が船でこの国を出るのは明日の正午と言ったか?」

 ソフィアはこくりと頷いた。

「ええ、でも見送りも船も仰々しいものではないはず。カーニヴァル最後の日ですから、公式でない形で出発するようです」

「大使にとっても最後のチャンスというわけだ……場所はどこなのかご存知か」

 マルチェロの問いに、ソフィアは眉を寄せて思い出すように「ええと確か、なんとか……ヌオヴェと」と言った。
 エドアルドが「フォンダメンタ・ヌオヴェですね」と頷いた。

「確かにあそこならサン・マルコとは真逆の位置だから騒がしくはないですからね。お忍びで来たんならあの辺りの岸はうってつけだ……けどマルチェロ、手紙なんかどうやって書くんだよ。紙とペン、今手元に持ってるわけでもないだろ」

 エドアルドがそう尋ねたのに、マルチェロは「持ってはいない、持ってはいないが」と言ってから振り返った。言いたくないような表情をしている。

「……この劇場のものを拝借する。事務所が一階にあるはずだ」

 マルチェロの意外な提案に、エドアルドとクリスティーナは目を見張った。

「まさか……お前の口からそんなことを聞くなんてな」

「あんたでも泥棒まがいのことをするのね」

 マルチェロは少し顔を赤くして「くっ、うるさいっ! 今の状況では仕方なかろう!」とわめいた。そしてまじまじとこちらの顔を見てくる二人の視線を振り切るようにマルチェロは彼らに背を向けると、ボックス席の扉付近の燭台を手に取った。
 火のついた蝋燭は短くなっている。ずいぶん話し込んだからだ。マルチェロはクリスティーナの持ってきた長いほうの蝋燭に火をつけると、そちらを持って扉の取手に手をかけた。

「とにかく一階の事務所に行くぞ、ついてこい!」


 サン・ルカ劇場の事務所は、ボックス席よりは大きかったが、広くはなかった。
 燭台の灯りにぼんやりと照らされた部屋には棚が並び、中にはたくさんのパンフレットや喜劇の台本、他に何やらごちゃごちゃと書かれた書類があちこちに積まれていた。
 部屋の中央には古い木の机が置いてあり、周りにはインクやらペンやらが無造作に置かれている。
 マルチェロは予想外の汚い部屋に眉をひそめた。質の悪そうな道具ばかりだ。それに紙がない。引き出しに入っていないかと開けてみると、開けた中にリンゴの食べかけの芯がちらりと見えたので慌ててバンッと閉めた。

「ふ、不潔だ」

 この机に置いてあるペンだって、リンゴを食べながら使ったかもしれない。それにああいうごみは暗くて見えにくいだけでそこかしこにあってもおかしくない。マルチェロは身体がぞわぞわするのを感じた。

「ここでは文字は書けない、行こう」

 そう言って事務所を去ろうするマルチェロの腕をエドアルドが「まてまてまて」と掴んだ。

「お前の潔癖具合は知ってる。だが今はここ以外ですぐに書ける場所はないだろ。いいから書け」

「断る。言い出した自分で言うのもなんだが、手紙ではない方法をまた考えてもいい。第一に机にはインクとペンがあるが、紙がないのだ」

「紙ならあったわよ」

 クリスティーナの声に、マルチェロは舌打ちしながらそちらを振り向いた。
 彼女が差し出したのは、確かに何も書かれていない便箋になり得る紙だったが、その半分がワインの染みで覆われていた。

「ば、ばかを言うな! そんな汚いものでダンドロ様宛に手紙が書けるものか!」

「仕方ないじゃない、今のところこれしかないんだから。とにかくほら、ペンを持つのよ。さあ、さあ!」

 クリスティーナに椅子に座るように促され、ペンを無理やり握らされる。
 マルチェロは「くそっ……やむを得ん」と悪態をつきながら仕方なくインクにペンを浸した。

 マルチェロが手紙を書き進めている間、クリスティーナとソフィアは奥の楽屋で服の交換を行うことにした。クリスティーナの方がやや背が高かったが、それ以外は二人とも似通った体型であったので、不便はなかった。

「はい、これもどうぞ」

 シュミーズ姿のクリスティーナが小さな十字架のペンダントをソフィアに渡す。

「これもですか? でも……これはお守りでしょう。クリスティーナ様がつけていたほうがよろしいのでは?」

「だめですよ、ソフィア様が着ていたドレスはデコルテがきっちり開いてますよね。この十字架の鎖は短いから丸見えになってしまうんです。バウタは付けますが、念のためソフィア様が預かっておいてください」

 確かに、役人に用意されてソフィアが着ていたドレスは型の古いもので、レースのバウタをつけるとはいえ胸元が広く明かされていた。
 それとは違い、クリスティーナが着ていたドレスはデコルテを覆うように、シフォンのフィシューがつけられている。これで胸元のアクセサリーは隠れるようになっているのだ。

「わかりました……ではクリスティーナ様には代わりにこれを」

 ソフィアが首から外したのは、手の平ほどの大きさの細密画の首飾りだった。
 クリスティーナはそれを受け取ろうと手を差し出した。

「ありがとございま……って、重っ! えっ、な、なんですかこれ、見た目よりも重いんですね」

 クリスティーナは手に取った細密画を確認するように見た。
 描いてあるのは美しい聖母の姿だった。後ろの眩い後光や微笑みを浮かべる表情の細かい描き方に、余程名うての画家が描いたのだろうと思われるが、いかんせんその絵がはめこまれた枠や鎖が重かった。絶対に鉄でできている。
 どこの世界に首からぶら下げる首飾り用の細密画の台に鉄を使うばかがいるのよ、細密画といえば軽い象牙でしょうが。
 クリスティーナがそんな風に思っているとはつゆ知らず、ソフィアはその絵の聖母に似た笑みを浮かべた。

「私のお守りなのです。それだけは祖国にいたときからずっとつけていました。十字架をお借りするのですから、クリスティーナ様にはそれを身につけていただきたいのです」

 そう言われては無下に返すこともできない。クリスティーナは「へ、へえ」と愛想笑いを浮かべると、細密画の首飾りを首から下げた。ずしりと首に負担がかかる。まるで奴隷になった気分だわ。
 しかし鎖は長く、細密画はちょうど胸の下に位置していたので、デコルテの開いたドレスから見えることはなかった。
 ソフィア様はこんなのを首からぶら下げてワルツを踊っていたの? 重すぎて首に鎖が食い込んだらどうしよう。

「その……よく肩が凝りませんでしたね」

 クリスティーナの言葉に、ソフィアはきょとんとしてからくすりと笑った。

「昔からつけているものですから。祖父が先代の国王から授かったものらしいんですけど、小さいときはこれを振り回して遊んでいたんですのよ」

「先代のこ、国王から授かったものを? 振り回して遊んでた? そんな素晴らしいものになんて罰当たりなことを……!」

 クリスティーナは先ほど自分が心の中で文句を並べていたことを棚に上げて、驚いた声を出した。

「ええ、父もよくそう言って私を怒りましたの。でもそんなものを幼い子に渡すほうが間違っていると思いません? ほんとうに、子どもの扱いが下手な父でした……」

 ソフィアは初めは笑っていたが、最後は尻すぼみになって黙ってしまった。父親のことを思い出して悲しくなってしまったのだろう。
 その変化にクリスティーナは目を細めると、黙ったままソフィアの後ろに回って背中の紐を結び始めた。
 クリスティーナのドレスは比較的簡単な作りだったが、それでも背中の紐は慣れない者には結びづらいのである。
 少ししてから、クリスティーナは手を動かしながら「私もね」と口を開いた。

「私も父にはよく怒られました。いつもいろんなものを欲しがってばかりだったんです。でも絶対に買ってくれなくて、一度飛びかかって髪と髭を引っ張ったこともあったんですよ」

「まあ!」

 ソフィアは思わずクリスティーナの方を振り向いた。クリスティーナはにっと笑みを向けて続けた。

「結構本気で引っ張ったので、痛がった父は観念して私にようやく砂糖菓子を一つだけ買ってくれました。買ってくれたのはそれが最初で最後ですけどね」

 紐を結び終えると、クリスティーナは「ねえソフィア様」と呼びかけて彼女の正面に回った。

「ソフィア様が思い出す限り、お父さんは心の中で生き続けますよ。どうせ思い出すなら、死んだ直前のことなんかより長く一緒に過ごした楽しい日々の方にしませんか、少なくとも当面は。その方がお父さんも嬉しいに決まってますよ」

 クリスティーナのまっすぐな目に、ソフィアは瞳を揺らして目を潤ませた。

「そう、ですわよね。最後の日々より楽しかった日々の思い出の方がずっと多いのですから……でも、それは……あんな風に過ごせるということは、ほんとうに幸せなことだったのですね。私、決して忘れませんわ」

 ソフィアは噛み締めるように言った。クリスティーナは頷いて彼女の背中を優しく撫でた。

「さあソフィア様、今度は私の方の紐をお願いします。そしてこれが終わったらご令嬢の座り方、歩き方も教えてください。できれば笑い方、怒り方も教わりたいです。あ、それから踊り方も! さっき大使と踊ったとき、それはそれは酷かったんですよ」

 クリスティーナの言葉にソフィアはくすくすと笑った。

「いいですわ。徹底的に仕込みますから、お覚悟なさいませ」

 ご令嬢たちの笑い声を扉越しに聞いて、エドアルドはほっと胸を撫で下ろしていた。
 ソフィアはまた元気を取り戻したようだ。クリスティーナは人の心に寄り添うことができる人間だ。おろおろするだけの自分には到底真似できない。
 エドアルドは心中でクリスティーナにそっと感謝の念を込めると、マルチェロのいる事務所に戻った。


「覗きとは趣味が悪いぞ」

 マルチェロは椅子に座り、文字を書いている手元に目を落としながら言った。

「そんなことするわけないだろ、ちょっと心配だったから様子を伺いにいったんだ……ソフィアはもう大丈夫みたいでよかったよ。クリスティーナのおかげだ」

「……お前は大丈夫か」

 マルチェロは顔を上げて友人を見上げた。いつになく気遣うような表情をしている。
 エドアルドは目を瞬かせてからへらっと笑った。

「まあな。断られたとき、もっとショックを受けると思ってた。でも彼女が歌いたいと言ったのを聞いて、心底ほっとした自分がいたんだ。俺は彼女と一緒に暮らしたいわけじゃない、彼女が自分の望み通りに生きることこそが、俺の願いなんだって気づいたのさ……」

 そう呟くエドアルドに、マルチェロは薄い笑みを浮かべた。

「やけ酒は必要なさそうだな」

「いらないいらない。それに、俺には親友のお前がいるからな。それだけで十分だ……マルチェロ。今回のこと、ほんとうにありがとう」

 エドアルドが頭を下げたのに、マルチェロは鼻で笑った。

「まだ終わったわけじゃない、大勝負は明日だ」

 そう言ってからマルチェロはペンを置き、書いていた紙をきっちりと折り畳む。手紙の完成だ。
 マルチェロはそのまま手紙を見つめながら「それにな、エド」と続けた。

「私もお前のような男が友人でよかったと思っていたところだ。自分でも正気を疑いたくなるがーー今はなぜかそう思っている。光栄に思え」

 エドアルドは笑い声を上げた。

「全く、素直に俺が好きだって言えばいいのに」


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