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味わう読みと、噛み砕く読み 七緒栞菜

 久しぶりに本に線を引きながら読んだ。逆接の接続詞は三角形で、順接の接続詞は丸で囲う。用語にはまっすぐな線を引き、その説明には波線を引く。中学生の頃から決めているマイルールだ。本当は、国のことに関しては青色、人のことに関しては緑色を使うのだけれど、本に有色ボールペンを使うことにはためらいがあるから、シャープペンシルの細い線で読みの跡を残した。

 読みの跡を残すと、読みを辿れる。読みの跡が残っている文章を読み返すと、そのときの感覚が手に取るようにわかる。この時の私にはここが刺さったようだけれど、今の私には違うところが刺さっている、といった感じ方を面白がれる。

 文章の読み方は大きく分けて2種類あると思っている。
 味わう読みと、噛み砕く読み。

 ただ味わう読みは、文章に線を引く行為が必要ない。読んだ言葉がいつの間にか身体に溶けて、じんわり染み込んでいく。主に小説や詩はこの読み方をする。昔はこういう読みしか知らなかった。ただただ、楽しい読み。目に映り身体に染みわたっていく言葉たちをただただ感じる読み。

 後者は、より正確にいうならば、噛み砕いてから飲み込むといったところだろうか。

 大学でゼミが始まり、教授から手渡された論考を読み、レジュメを書いた数年前、私は、文章を読むってこういうことなのかと、初めてわかった気がした。噛み砕いてからどうにか飲み込むような読みの手ごたえを、初めて知った。

 そもそも咀嚼しなければ飲み込むことができないような論考や評論などの文章、立ち向かうといった表現が似合う文章に、この読みを使う。この読みには苦しみが伴う。でも、それでも読むのは、噛み砕いてやっと飲み込めた文章が血肉になることが感じられるからだ。読めたという充実感と、心地よい疲労感と、脳内の高揚感が混ざり合う、この読みでしか味わえない感覚を得られるからだ。

 読みの跡を頼りに自分の読みを辿るとき、読みを味わうのだと思う。必死に噛み砕いて飲み込んだ文章を、時間差でさらに味わう。私が記号によって作り出した二次的な文章が、やっと私に自然に入り込んでくる。
 
 立ち向かうことが必要な文章に食らいついていきたいと、久しぶりに思った。この充実感をちょっとばかり忘れていた。
 
 こういう読みが好きな人と、同じ文章を読んで頭を抱えながら話したい。
 
 正しく読むことは難しいけれど、正しく読もうとすることはできる。正しく読むことは難しいけれど、正しい読みであろうと思ったことを各々が持ち寄ってすり合わせることはできる。だから、読んで話すことは楽しいのだと思う。苦しいけれどやめられなくて、楽しいのだと思う。みんな、読もうよ。話そうよ。


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