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転校生的付加価値にとらわれずに生きる

2時間の会議の議事録をとるうちに、腰痛や肩こりが気になるようになってきたベイビー・シャカイジンです。社会人2年目、見渡せば、マイルドな心身の不調が発生している事例が目につきます。
私もピラティスは続けつつ、根本的な肉体強化を図るべく、来週からジムをプラスして、ワークアウトに励む予定です。

さて、急ではありますが、今日は私が自分なりに考えた「私が苦痛を感じることと、なぜ苦痛を感じるようになったか」を書こうと思います。
最近、公私共に「自分の感じている生きづらさの正体はなんなんだろう」と考えさせられることが多くありました。自分自身に対する理解、解釈の問題ではありますが、現状の整理を兼ねて、現時点の考えをまとめようと思います。

変化がないことが怖い

一言でまとめると、今までの私は、「変化がない」という痛み・恐怖から逃れることによって生きてきたように思います。痛みから逃れる、とは、恒久的にその痛みを感じずに済むような努力をして自分を変化させる、ということではなく、目の前の辛いことから物理的に距離を置き、そこを支配していたルールや価値観の通用しない場所に行ってみる、ということです。したがって、逃れる先は、今いるところの裏側というか逆側というか、極端な場所が多いと思います。

なんで、こういう生き方になったのか、こういう考えに至ったのか、はまだ整理の途中ですがいくつか心当たりがあります。

心当たり:転勤・引越し

父の仕事上、転勤族だったため、小学校高学年までは、引越しや、転校が多かったと言えます。
そこで私が知ってしまったのは、転校生である、という付加価値の存在です。転校生というのは、別のところから来たことに価値があります。転校生ってだけで、ちょっと注目を集めやすかったり、感心してもらえることが多くなります。逆に、新しい場所に馴染むにつれ、その価値は自然と消滅していきます。そうすると、今度は、本来の自分のみで勝負しなければなりません。

私は、これがあまり好きではないようです。
自分がメインで生活する場所・環境さえ変えれば、相対的に自分の「レア度」が増すので、それを価値としてサバイバルしていきたいのに、それができなければ、自分の基本的なスキルや人間性を磨くための努力をしなければいけません。しかしながら、それはとても面倒くさい、うまくいくかわからない…、と尻込みしてしまって、自己研鑽のための行動が取れず、結果劣等感のみが募ります。そうすると、「そろそろ場所を変えてリセットしよう」という方向に意識が向きやすくなるのです。自分そのものに自信がないというのも災いしている感がありますが、この生き方は持続可能ではないと自覚しています。

最後に

自分が何者でもないかもしれない、という恐怖を、誰しも一度は感じたことがあるはずです。しかし、自分は自分であるだけで、価値があり、誇るべき存在だと思います。自分の恐怖、痛みの正体を明らかにした上で、どうしていくべきかは、また次の機会に。

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