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昔イジメられていた人間の好感度が高いのは何故か

芸能人でも芸術家やスポーツ選手でも、学生時代にいじめられてたけど、、のような告白をする人がたまにいる。

なんとなくIKKOさんや、はるな愛さんのようなタイプだと、学生時代はいろいろ大変だっただろうなと思ったりもする。

こんなことをいうのもどうかと思うが、日本においてイジメのない世界などは存在しない気がする。イジメに寛容な国なのかもしれない。

ある程度の大人になれば、仕事がみんな忙しいので人をイジメている暇など無いかもしれないが、それでも仕事の時間を割いてでも人をイジメることに時間を費やす人もいる。

学生時代にイジメられてきて、大人になってある程度の地位や名声を得た人を、私達は勝手に何かしらの困難を乗り越えた人のような、立派な人のイメージを持ってしまう。

確かにイジメを困難と見ればそうなのかもしれないが、言ってみればイジメは確実に人災ではある。

実家がものすごい貧乏だったけど、子供の時から働きながら勉強して何か金を得る手段とか、何か一芸秀でたもので成功したりすれば、それは困難を乗り越えた感があるが、イジメに関しては、生まれたときからある仕方ない環境ではないし、看過できるものでもない。

差別の問題でも少し似たような言い回しをしたかもしれないが、やはりイジメも自分達の周りに普通にあるものだ。という意識が私達の中に当たり前にある気がする。

簡単にまとめると、イジメを受けることと、貧乏な家に生まれたことが同列くらいのレベルで語られている状況は普通なのか。と疑問に感じる。

貧乏な家に子供が生まれることも避けようと思えば避けられるかもしれないが、子供は天からの授かりものなので、なんともいえない。少なくとも、子供側から避けるのは不可能だろう。

私はイジメられたことがないので、イジメられた事のある人の気持ちはわからないが、イジメられていた人というのは、過去に自分がイジメられていたという事を発表したいものなのだろうか。

勝手な想像だが、もし自分がイジメられていたとしたら、あんまり人に言いたくないかもしれない。ただ、学生時代の思い出を聞かれて、ボコボコにイジメられていた思い出しかなければ言うかもしれない。

苦い思い出の昇華の仕方というのは人によると思う。私は嫌な過去を笑ってネタにしたい方だが、他人にいきなり「いや、俺昔イジメられててさー」というような、つらい話を切り出しても「あ、あぁ、、」となるだろうし、どう対応するのが正解なのか困らせてしまう感じがあるので、基本的に笑わせる会話を目指している自分の意図には反する。

結局、本人達のイジメられ方にもよるかもしれないが、そういうのは経験してみないとわからないことかもしれない。

自分の辛い境遇に置き換えてみれば、自分は学生時代に父親が死んでいるので、「いや、俺の親父もう死んじゃってるからさー」と言うようなものかもしれない。

ただ、やはりデリケートな問題ではある。

いきなり不特定多数の人に発表するのは絶対違う気がするし、相手に変な気を使わせてしまうのも何か違う気がする。言う人の関係性は重要だろう。

父親の死に方にもよるだろうが、自殺なのか過労死なのか、車に轢かれたのか、自分の目の前で死んだか、離れた場所で死んだか、どれくらい父親のことが好きだったか、などなど状況によって違うかもしれない。

うちの父親は普通に脳梗塞で単身赴任先で死んでいたので、過労死なのかどうか等、当時はいろいろ大変な気持ちではあったが、血圧もめちゃくちゃ高かったし、ストレスを抱え込みまくる真面目な性格だったので、意外という感じではなかった。

やはりそういう想いを昇華するには、時間の経過を待つしか無い。そして冷静になって振り返ってみて、あの時キツかったけど、まぁなんとかなるもんだな。と自分の中で解決するのかもしれない。

多分、昔イジメられていたという事をカミングアウトできる人というのは、今の自分の中で過去の自分との決別というか、そういう対応ができている人ということなんだと思う。

トラウマのように今でもずっと解決できていない人に向かって、その原因の話を流石に笑い話には出来ないと思う。それは無神経というか、デリカシーがない、配慮が足りないということになる。

それを踏まえると、イジメられた思い出に付き纏われている人からすれば、過去との決別ができているという意味で、イジメのカミングアウトが出来ている人は尊敬できるし、憧れに近いのかもしれない。

単純にイジメられたことがない人間から見れば、イジメられていたというプライドの保ち方というか、周りの目を気にしてしまいがちではある。

痴漢にあった人は被害者なのに、それを報告してしまうと言い方は悪いがセカンドレイプ的な被害者にもなりうる。

ひねくれた人から見れば「昔イジメられていた人間なんだから優しくしてね」というプロモーションのバイアスで見てしまうかもしれない。ひねくれている人はどこにでもいるし、本当に芸能人はプロモーションの人もいるかもしれないので、そのような人達の見方はそれぞれで良いと思う。

芸能人だと距離感が遠いし、自分と何ら関わりがないので、へー、で済むかもしれないが、やはり何かしら人柄を知る身近な人だと、気を使わないといけないのかなと、勝手に考えてしまう。

どこまで自分のセンシティブな部分をオープンにできるのか、というのは人によって違うだろうし、人に弱みを見せるかどうかという考え方は、多分根本的な人の性格の違いだと思う。

自分の弱みを見せれる人の好感度が上がるのは、なんとなく理解できる。

弱点をさらしている人が強く見えるという不思議な現象ではあるが、なんとなく信頼できる感じがする。むしろこちら側が信頼されている感じがする。

そこまでオープンにできる人がなんでイジメられるんだという疑問もあるが、やはりイジメが起こりうる原因を考えると、暇人に囲まれているということと、何か当事者といろいろ噛み合わなかったりするもんだと思う。

結局、自分の弱みを晒すという事と、困難を乗り越えた感が好感度が上がる要因かもしれない。

ただ、イジメられた経験がない自分としては、どうも「すごい、がんばったんだな」という感想で終わらせてはいけない感覚がある。

人生というのは今の自分一人分の記憶しか無いので、過去に何があっても今が幸せなら、「過去のあの経験があったから今の自分がある」的なことを言いがちではある。むしろそう思わないとやっていけない。

逆にイジメが原因で人間不信になったり、大勢で働く職場などが嫌な性格になってしまったとしたら、その人にとっては大損害ではある。

毎日毎日、人が虐殺される戦争の映像を見させられたら、どんな人でも気が狂うと思う。現実という映像を見させられて精神的に安定するか不安になるかは、人の物事の捕らえ方や見方だとすると、イジメを克服できない人が弱いということでは決して無い。

考え方が変わるキッカケであったり、良い人に出会うとか、そこは人生の運の要素だと思う。

目をつぶれば見たくないものを見ないように出来るかもしれないが、現実には他人が物理的に存在するので、目をつぶっても殴られるかもしれない。

基本的には、お互いに同じ時間に存在している者同士、イジメなどない空間を作るべきだとは誰でも考えている。と信じたい。だが、毎年毎年、どの組織でも多かれ少なかれイジメがあるなら、イジメ因子である暇人が生まれやすい文化的な環境なのかもしれない。

イジメる側とイジメられる側と日和見の人々という構造である以上、自分のような日和見の人も何かしらいい環境を作る上での貢献をしないといけないわけだが、ロクにイジメを止められないガラクタのような感覚にもなる。

あいつを無視しようぜ、などの定番のイジメでも、自分はイジメられている人と無視せず会話はできても、自分以外の他の人がその人を無視するのであればイジメを止めていることにはならないだろう。

多分、世の中にはイジメられている人より、イジメられても、イジメてもない人が多い。だが、それなのにイジメを無くせない残念な現実がある。

昔イジメられていたけど成功したという芸能人を見ることで、当時何も出来なかった日和見の人達にとっては、申し訳ないという懺悔のような感情も孕んでいるのかもしれない。








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