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現代リベラリズム③ | 事実と価値

今回の内容とは全く関係ないが、記事トップの画像は数年前にインドを旅した際に撮ったもので、今回はコルカタの街角で撮影した一枚。カメラを構えていたら、通りがかりのおじさんが勝手に被写体となってくれた。

前回の画像はヴァラナシで撮影した一枚で、よく見ればoasisのmorning gloryみたいだ。あの迷路のような道を抜けた先にはガンジス川が待っている。いつかインドの旅の記事も書いてみたい。


1.事実と価値

2008年にNHKで放送された番組「爆笑問題のニッポンの教養 京大スペシャル」をyoutubeで見つけた。面白くて一気見してしまった。


討論のテーマである「独創性」について太田と京大の教授が侃々諤々の議論をする中で、今回のnoteと関係がありそうな話が出てきた。面白いので少しだけ引用してみる。

(1:00:00〜)
■太田:太陽がないと人間って生きていけないじゃないですか。だけど、太陽ほど毒はないじゃないですか。あんな危険な物体はない。

あれがやっぱり「善」なのか「悪」なのか、なんて決めらんないんですよね。あれどっちも必要なんだよ。だから「正解が2つ」っていうことに俺は何かすごく重要なポイントがあるのではないかと思う。


「正解がある領域」と「正解がない領域」

おそらく、この世界の全てのことについて「正解が2つある」わけではないであろう。誰にとっても1+1は2であるし、太陽は毎日東から昇る。ここで正解は1つだ。

太田の言うことを少し場合分けして別の言葉で表現すれば、この世界には「正解がある領域」と「正解がない領域(もしくは正解が複数ある領域)」がある。

大雑把に言えば理系と文系の領域にも概ね当てはまるかもしれない。

(社会科学をどちらに分類するかや、自然科学の中で考えが分かれる問題をどうするかといった細かなことはひとまず気にしない)



「サイエンスの解釈」と「アートの解釈」

番組の中盤では次のような議論があった。

(28:15〜)
■太田:だって今天動説だっていったって、それが違うって誰が言えるの。
□小山:それは明らかに違う。
■太田:いやいや分かんないじゃん。信じる奴も何人かいますよ。多分、今でも。
□山極:「信じるか、信じないか」だったら宗教と科学は一緒になっちゃう。
□小山:例えば、方程式を解いたら出ちゃうんですよ、誰が解いたって。(中略)太陽の周りを全ての惑星が回っていると考えれば、ごく簡単に説明できてしまう。
■太田:それをどうやって証明するの。それ仮説ですよ。金星がその意思を持ってて動いてる可能性だってあるでしょ。
□小山:そんなこと言ったら「神様は存在する」で全て済んじゃうでしょ。
■太田:済まないですよ。神様なんか信じないけど、金星が生きていることは信じる。そんな奴だっている。


太田の言葉を無碍にはできないだろう。けれども、目的論的自然観のような考え方を採用すれば自然科学が成り立たなくなってしまう。

前京大総長の山極壽一は毎日新聞のコラムで次のように言う。

サイエンスがすべての人に同じ解釈を要請するのに対し、
アートは多様な解釈を許容する。


例えば雷が鳴ったとしても、科学においては「神様が怒っている」「人間が悪いことをしたからだ」とは解釈しない。金星が生きていて、自分の意思で毎日動き回っているとも考えない。


自然科学においては、神や形而上学的な存在の「主観的な意思・意図」を考慮せず、客観的なデータに基づき解釈する必要がある。正解は1つだ。

他方で、アートの解釈は多様に開かれている。ピカソの絵に対する解釈に正解はない、もしくは正解はたくさんある。アートは多様な解釈を許容するのである。

ドストエフスキーの小説をどのように読んだっていいのだ。



事実と価値の峻別

2018年6月22日の日経夕刊で掲載された東浩紀の『事実と価値』というコラムも、この議論を考える上で有益だ(今回のnoteは引用多めです)。

批評の本質は新しい価値観の提示にある。価値観は事実の集積とは異なる。いつ誰のなにが出版され、何万部売れたといった名前や数字は、客観的な事実である。それはゆるがせにできないが、そこからそのまま価値が出てくるわけではない。

〜同じ現象に異なった評価が下されることはありうるし、むしろ文化にとっては複数の価値観が並列するのが好ましい。批評の機能は、まさにそのような「複数価値の併存状況」を作り、業界や読者の常識を揺るがすことにある。

〜人間は事実は共有できる。けれども価値は必ずしも共有できない。同じ事実から異なった価値が導かれることもあるし、その差異を認めなければ人々の共生はありえない。


太田の言う「太陽の存在は善か悪か」という問いは価値に関する問題だ。他方で「太陽が存在する」ということは事実に関する言明だ。


そして東浩紀の言うように、人間は「客観的な事実」についてはそれに同意し他者と共有することができる。しかし、その事実からどのような価値を導くかは人によって異なる。あくまでも主観的なものだ。

事実から価値を直接演繹することはできないのである。


至極当たり前のことを言っているようであるが、この認識を改めて持つことは、多数の人々が「共に生きる」上でとても大切なことだ。

例えば、原発について科学的なエビデンスに基づく一つのデータ(事実)が得られたとする。しかし、この事実に基づき人々が正しく議論したとしても皆が同じ結論に至るとは限らない。

原発が善いか悪いか、再開すべきか廃炉にすべきかは「価値や規範に関わる問題」であり「事実の問題」ではないからだ。東浩紀は言う。

人間は本当に、正しい事実に基づき正しく議論すれば、みな同じ結論に達するのだろうか。ぼくはそうは思わない。そうであれば宗教の争いなどあるはずがない。正義は常に複数なのだ。

日本人は「話せばわかる」の理想をどこかで信じている。けれど本当は「話してもわかりあえない」ことがあると諦めること、それが共生の道のはずだ。事実と価値を分ける批評は、その諦め=共生の道を伝えるための重要な手段だとぼくは考えている。

人間は複数であり、価値も複数であり、正義も複数なのだ。


民主主義の可謬性
価値が複数であったとしても、現実においては原発を「再開するのか」それとも「廃炉にするのか」について私たちは決定しなければならない。決定しなければならないが、その民主的に決定された結論が正しいとは限らない。

価値が複数であるという前提に立てば、つまり唯一絶対の正解がないという前提に立てば「民主的な意思決定も誤りうる」。

換言すれば、民主的な決定は無謬的ではなく可謬的なものである。「多数者の決定」が「多数者の暴政」になりうることも、歴史的にみれば明らかであろう。

民主的な意思決定が可謬的であること、それゆえその意思決定を「最終的な決定」ではなく「修正可能revisabilityなもの」とすること、議会を占拠するといった暴力的な手段ではなく民主的な是正の回路によって漸進的に改善していくこと、これらは民主主義が適切に機能するための重要な条件となる。


2.価値の一元性

話しがだいぶ脱線してしまった。ここからが本題のはずだったが、疲れてきたので簡単に引用を載せて終わらせます。

英国の哲学者アイザイア・バーリンは、『二つの自由の概念』の『一と多』という章の冒頭で次のように述べる。

〜歴史上の大きな理想の祭壇において、個人が殺戮されてきたことについては、他のなににもまして一つの信仰に責任がある。その信仰とは、つまり、過去においてせよ、未来にせよ、神の啓示においてせよ、一個の思想家の心中においてにせよ、〜とにかくどこかに、究極的・最終的な解決があるという信仰である。

この古くからの信仰は、ひとびとが信じてきたすべての積極的な価値は、最後には互いに矛盾することはないはずであり、おそらく相互に必要としあうものであろうという確信にもとづいている。
 ーアイザイア・バーリン『自由論(新装版)』みすず書房,2018年 p.382

事実について他者と共有できたとしても、価値については話しても分かり合えないことがある。分かり合えないことがあるにも関わらず、価値の領域に究極的・最終的な解決(正解)があると信じること、その信仰が歴史的に多くの悲劇をうんできた。

「ニッポンの教養」の早稲田編で太田は次のように言う。

(早稲田編 1:01:05〜)
■太田:正義と悪ではなくて、正義と正義がぶつかるから厄介。

ここらへんの議論はまた別のnoteで、アレントの『全体主義の起源』なども参照しながら書いてみたい。


3.価値の多元性の3つの要素

「価値の多元性」とは具体的に何を意味しているのだろうか。

バーリンの「価値の多元性」に関する言明においては次の3つの要素が述べられており、価値多元主義を主張する者の間でも概ね承認されている。

①価値の多様性
②価値の両立不可能性と対立
③価値の通約不可能性


以下に関連する記述をいくつか引用してみる。

われわれが日常的経験において遭遇する世界は、いずれもひとしく究極的であるような諸目的ーそしてそのあるものを実現すれば不可避的に他のものを犠牲にせざるをえないような諸目的ーの間での選択を迫られている世界である。
 ー『自由論(新装版)』p.383
人間の思い描くさまざまな目的のすべてが調和的に実現されうるような唯一の定式のごときものが、原理的に発見可能であるという信仰は、明らかに誤りであると思うのだ。

もしわたくしの信じているように、人間の目的が多数であり、そのすべてが原理的には、相互に矛盾のないものではありえないとするならば、衝突・葛藤の可能性ー悲劇の可能性ーが、個人的にも社会的にも、人間の生活から完全に除去されるということは決してありえない。

そうすれば、絶対的な諸要求の間での選択を余儀なくされるという事態は、人間の状態の不可避的な特徴であることとなる。
 ー『自由論(新装版)』 p.384-385


この世界は全ての人の諸目的(諸価値)を、全て等しく実現できるようにはできていない。宇多田ヒカルが歌うように「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ、みんなの願いは同時には叶わない」。

より真実であるというのは、それが、人間の目標は多数であり、そのすべてが同一単位で測りうるものでなく、相互にたえず競いあっていると事実を認めているからである。一切の価値が一つの尺度の上の目盛としてあらわされうる、したがってただ最高の価値を決定するための検査が問題なのだと想定することは、自由な行為者としての人間に関するわれわれの知識を誤謬に導き、道徳的な決断を、原理的には計算尺でできるような運算とかんがえることである。
 ー『自由論(新装版)』 p.388-389

各人が持つ諸価値はそれぞれが比較不能なものである。サラリーマンとしての生き方と芸術家としての生き方のどちらが正しいのか。善い生き方とは何か。

バーリンが言うには、それらは「同一単位で測りうるものではない」。価値は通約不可能=比較不可能なものなのだ。

・・長くなってしまったので、今回はここまでにいたします。次回は「善に対する正義の優位」について、考えをまとめてみたいと思います。


本日の一曲
tame impala / the less I know the better

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