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マルクスとフェミニズムー性から読む「近代世界史」⑬

・ヘーゲル左派、マルクス、唯物論

 ナポレオン帝国という敵を得て、ドイツにいた人々は一つの民族として一体であるという信念を育てた。その潮流は政治や軍事だけでなく、音楽家シューベルトの歌曲やグリム兄弟の童話といった芸術、文学にまで及び(ロマン主義)、ドイツ人としての文化と歴史とが遡及的に形作られていった。そのような思潮の下に生きたフィヒテやヘーゲルの哲学も、政府の支持を受けてナショナリズムの形成に貢献するものとなった。
 ナポレオンが失脚すると、フランス革命の啓蒙主義はドイツの民族意識とぶつかり合い、そして乗り越えられたのだという考えが生じた。ヘーゲルに従うなら、対立する二者が鎬を削りながらより大きな自由へと進んでゆくのが「歴史」である。フランスの啓蒙と共和制よりも、ドイツの民族意識やプロイセンの立憲君主制がより歴史の先を進んでいるのだと、プロイセンの支配者たちはヘーゲル哲学をそのように解釈したのである。一方で現実の体制は、貴族や地主など少数の権力者が支配する自由とは程遠いものだった。
 1815年、一部の学生たちが自由主義的な改革を求めて組合を結成する。ブルシェンシャフトと呼ばれたこの運動は1817年まで膨らみ続けたものの、その後はドイツ政府によって弾圧され、思想の統制が強められた。フランスの啓蒙主義とドイツのロマン主義を経て、人々は自由と平等を獲得したはずではなったのか。ヘーゲルを学び、彼の思想に一度は心を震わせた学生たちは、やがてこの師に鋭い懐疑の目を向け、より突き詰めた哲学を編み出していくようになった。ヘーゲル左派と呼ばれたこのグループの内の一人が、カール・マルクスKarl Marxであった。

 1818年、マルクスはプロイセンのユダヤ人の家に生まれた。彼は18歳の時にベルリン大学に入り、そこで議論を闘わせていたヘーゲル左派の青年たちに加わった。その後、体制批判の様相を帯びたこのグループが当局から検閲されるようになると、マルクスはジャーナリストとなって現実の社会問題と向き合う機会を得た。彼は新聞でも政府に批判的な記事を書き続けたが、強まる言論弾圧によって辞任に追いやられてしまう。1843年に妻イェニーとともにフランスに移ると、そこでヘーゲル左派の友人たちと連絡を取りつつ、自身の思想を深める研究に励んだ。
 当時のヘーゲル左派たちがまず批判の俎上に載せたのが、国家と結びつく保守的な宗教の在り方であった。例えば、論者の一人であるフォイエルバッハは1841年の『キリスト教の本質』などの著作において、宗教とは現実の人間の苦しみから生まれるものだと主張した。彼は言う、真に考えるべきなのは抽象的な理念でなく、具体的な人間そのものではないのか。宗教のみならず、デカルトからヘーゲルに至るまでの哲学は、食べる、呼吸するといった生の人間の姿をなおざりにしてきた。フォイエルバッハはこれまでの思想を再考して人間の本質に立ち返るべく、理性や意識だけでなく感情や欲望をも重視するものとしての「唯物論materialism」を提唱する。

 マルクスはこのフォイエルバッハの思想におおむね賛同したが、現実に生きる人々の窮状を改めるためには、より根本的に考える必要があると感じていた。彼はかつてブルシェンシャフト運動に加わっていたルーゲとともに『独仏年誌』を創刊すると、そこに『ヘーゲル法哲学批判』という題の論文を掲載した。ヘーゲルの『法の哲学』においては、人々の苦しみや貧困は、伝統的な共同体から切り離された個人たちの利害をぶつけ合う競争により生じることが指摘されている。そしてヘーゲルは、そのような対立はやがて理想的な国家によって克服されると論じるのだが、マルクスはこの師のような楽観を持てない。
 代わりにマルクスは、民衆の苦境の原因を貨幣と私的所有のシステムに見ることによって問題の根本を探ろうとする。人々が自分の利益だけを考えて他人と競争するのは、自然や人間らしい感情に価値を置かない経済の在り方に強いられるからだ。だとするとそれを真に解決するためには、国の進歩や感性の重視だけでは十分でなく、資本主義の社会そのものを再考する必要があるのではないだろうか。

革命には受動的な要素が、物質的な基礎が必要である。理論はつねに、それが人民の欲求の実現である限りにおいてのみ、その人民において実現する

マルクス『ヘーゲル法哲学批判』

 ヘーゲルは人間の精神の進歩を語るのに「労働」という言葉を用いたが、マルクスはそこから重大な着想を得た。労働者こそが、社会変革を担う主体となるはずではないか、と。ヘーゲルによると、対象に働きかける過程の中で成長するのが「労働」であったが、現実の社会を見れば労働者たちはいくら働けども貧しいままである。労働は成長を促すどころか、自己をすり減らし、その成果も他人に奪われて自由にならない。マルクスはこれを労働の「疎外alienation」と呼び、疎外の原因は資本家と結びついた私有財産制であると考えるようになっていく。
 
 付随的にではあるが、マルクスは女性や家族制度が抱える問題についての考察も記している。彼はフーリエの女性解放思想を引き継ぎつつ、家族をブルジョワジーのものとプロレタリアートのものとで区別し、私有財産制の影響が濃い前者の家族では女性や子供は財産として所有されていると指摘した。家族は女性を男性が所有することで成立すると考えたマルクスは、資本主義の社会で女性たちが商品のように扱われることもまた必然であると述べている。ここから彼は女性の尊厳ある自立のためには、家族と資本主義の構造を変える他はないと考えていた。
 マルクスは当事者による離婚の権利を支持しており、女性が家庭の外へ働きに出ることは女性解放を前進させるとも述べている。以上のような考えは彼の死後に批判的に継承され、マルクス主義フェミニズムMarxist feminismという思潮を成立させることになる。

・エンゲルス、チャーチスト運動、共産党宣言

 『独仏年誌』には、マルクスらが書いたもののほかに「国民経済学批判」と題された論文も寄せられた。これは豊かな経済学の知見から資本主義社会を鋭く分析し、アダム・スミスらの古典派経済学を問い直すもので、筆者の名はフリードリヒ・エンゲルス、当時24歳の秀才であった。エンゲルスは資本家の父の下でマンチェスターの工場経営を担い、格差の著しいイギリス社会の現状を目の当たりにしていた。彼の体験は1845年に『イングランド労働者階級の状態』という書にまとめられ、プロレタリアの過酷な日常をマルクスや後世の人々にありありと伝えることとなった。

 この頃のイングランドでは、アメリカから帰ってきていたオーウェンが労働組合Trade unionによる改革運動を主導する一人となっていた。1834年、彼は労働者の連帯を促そうと労働組合の大連合をまとめ上げ、瞬く間に100万人を超える労働者が参加したが、政府と組んだ資本家によって解体に追いやられてしまう。この後もオーウェンは、「全階級協会」や「友愛組合」など様々な団体を結成しては人々に協働を呼びかけた。
 一方、オーウェンは下層民の教育や異なる階級間の協力が第一と考えており、現時点での貧困層への選挙権拡大や資本家と労働者の対立的な闘争には否定的であった。そのため彼の思想の支持者たちの中で、次第に離反して独自の運動を始める者が現れ始めた。1836年、議会の改革と普通選挙を要求するロンドン労働者協会が設立される。翌年5月には一部の左派議員と労働者協会が合意し、秘密投票、成人男性の選挙権、選挙区の格差解消などの項目からなる『人民憲章charter』が発表された。これを議会に実行させるため、彼らは国民に広く署名を求めて運動を展開した。チャーチスト運動Chartismである。

チャーチスト運動の集会

 労働者たちは1839年までに128万の署名を集めて議会に提出、しかし理不尽にも否決されてしまう。その翌年に全国憲章協会が設立され、42年には332万人分の署名の下に憲章が再び提出されたが、今回もまた退けられる。怒りを募らせた人々は、大規模なストライキを起こして政府に抗議した。エンゲルスがイギリスにやって来たのはこの頃である。工場経営に携わっていた彼は、仕事の隙を縫って労働者のスラムへ足を運び、チャーチスト運動の集会にも訪れた。エンゲルスは民主主義的な改革で窮状を脱しようとする労働者たちに感銘を受けたが、それだけで現状が救われるかには疑問であった。彼は今の経済システムの内側を改良するだけでは十分でなく、システムそれ自体を改める必要があると考えるようになっていく。 イギリスから戻ったエンゲルスは、彼の論文に感銘を受けたマルクスにパリのカフェで会おうと持ち掛けられた。二人は互いの主張をぶつけあって意気投合、その後エンゲルスはマルクスの家に10日間滞在し、生涯に渉るパートナーシップが築かれた。 ところで、この時期のパリにはフロラ・トリスタンがいた。マルクスと『独仏年誌』を刊行したルーゲは彼女と実際に会い、こう記録している。

彼女は言った。「常に行動していなければならない。私たちの行動を妨害しているものが何か、忘れてはいけない。また最大の障害は、私たちが考えていることをすべて表現できないことだ。口から出した言葉の一語一語は、すぐさまこれを窒息させる社会体制への挑戦的な松明になるのだ」
...大きな困難は、労働者が自身で組織をつくり、管理することが許されず、さらに職業所や社会保障局と直接交渉できない現状にあると全員が指摘した。...七月王政の厳しい出版・集会条例を何とかして避けるため、残された道は文学や個人的な信念だけだった。

ルーゲ『パリの二年』

トリスタンは『労働者連盟』の思想を広めるために奔走中で、マルクスとエンゲルスの二人もこの著作を読んでいたようである。彼らはトリスタンによる労働者たちの主体的な連帯の思想を評価し、その影響は後の「万国の労働者よ、団結せよ」という有名な一文につながったと考えられている。

 エンゲルスによって新たな気付きを与えられたマルクスは、ヘーゲルやフォイエルバッハも含めたこれまでの哲学に対する根源的な批判を繰り広げる。ヘーゲルにしろ、ヘーゲル左派の思想家たちにしろ、人々の意識を導いて「正しい方向」へと変革すれば現実の問題も解決するという、啓蒙主義的な思考から抜け出ることはなかった。マルクスはこのような欺瞞に我慢がならず、現実の社会や民衆の姿を直視しなければ社会は変わらないのだと喝破する。人々の苦痛や窮乏を机の上から哀れんで、実情を無視した空虚な理論を押し付けるのが哲学ではないはずだ。ブルジョワが支配する社会の在り方そのもの、つまり労働や生産活動の在り方そのものを見つめ、人々が自ら望むであろう世界を語ること。それがマルクスの志す哲学であった。

これまで、哲学者たちは世界を様々に解釈することしかしてこなかった。肝心なのは世界を革命することである

マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』

 善悪を問う前に、なぜ格差や不平等などの問題が生まれるのかを見抜き、そこから社会を革命する方向を示すものとして、マルクスは自身の理論を「新しい唯物論」と呼んだ。このような考えを土台として、彼はエンゲルスとともに次なる革命の手引きとするべく『共産党宣言Manifest der Kommunistischen Partei』を準備する。
 
 我々はどのような社会に生きているのか。彼らはそこから議論を出発させる。人々が生産を行うためには、何らかの社会関係が必要となる。例えば、奴隷を使役して食事や住居を作らせていた古代ギリシアやローマの時代には、主人が奴隷を従わせる制度が生産活動の条件となっていた。また、名誉革命やフランス革命以前の封建制の時代には、土地を持つ貴族や教会が農民を権力で縛った上で税をとり、衣食を満たして戦争を行う費用にあてていた。
 マルクスとエンゲルスはこれを「生産関係」と呼ぶが、では彼らが生きる時代はどのような関係性が軸となっているのか。それは貨幣と商品による、非人格的な利害関係である。フランス革命をはじめとする世界規模の政変によって封建制が倒されると、資本を持つブルジョワ階級が新たに主導権を握った。王や聖職者による貴族的、宗教的な権威に代わって、金銭を持つことが権威となって次なる支配階級を形作ったのである。ブルジョワジーはさらに利益を得るために生産技術を改良させ、他者をしのぐために商品の販路を広げていく。このようにして世界中に資本が投下され市場が拡大してゆくと、「ブルジョワ的生産関係」は地球を覆うまでにその様式を普及させることになる。 
 このシステムの中では、自身の労働力のほかに資産を持たないプロレタリアートが苦難を背負わされることになる。彼ら彼女らは景気変動の影響を受けやすく、ひとたび不況となれば財産を欠くためにたちまち困窮する。資本家によって新たな機会が導入されれば自前の技能は不要となり、取替の利く単純労働を担う他は生きる術をもてなくなる。雇う側は金銭を用いればいくらでも労働者を選べるが、雇われる側は生活のために条件が悪くても耐えなければならない。
 
 労働者たちに活路はあるのか。マルクスとエンゲルスは、「生産力」が革命の鍵になると述べる。王や貴族が支配する封建制の社会では、農業の手法が改善されるにつれ、余剰作物が蓄えられて商業が活性化していった。それにより力を得た者たちはブルジョワジーとして団結し、名誉革命や独立革命の担い手となった。つまり、生産力の発展が社会変革を導いたのである。革命が遂げられたのは経済の構造が変わったからで、それは人々の意識や理念の変化に先立つものである。
 社会変革が生産力に左右されるものだとするなら、ブルジョワの社会もまたその増大によって変えられるはずである。技術の高まりとともに生産が過剰になれば、恐慌が起こりプロレタリアはますます窮乏する。だが彼ら彼女らは生活と労働条件を改善するため、労働組合のように団結して協力することも増えてゆく。それとともにブルジョワ社会への怒りも蓄えられ、政治を改めようと闘争を選ぶ人々の数も膨らんでゆくだろう。苛烈な競争社会の中で個人として切り離された者たちは、やがて労働者階級として組織され、一つにまとまってゆくのである。
 実際、イギリスでもフランスでもそのような労働者の運動が年を追うごとに高まっていた。来るべき革命の最初の段階として、マルクスとエンゲルスは労働者階級が資本家に代わって支配階級となることが求められると主張する。それは単に議会で労働者が多数派を占めることではなく、社会や国家の在り方を改めて、それぞれの個人が他者を蹴落とさなくても自由を謳歌できるように作り変えることである。これが彼らにとってのコミュニズムであり、真の民主主義であった。

階級と階級対立とをともなう旧いブルジョワ社会に代わって、諸個人の自由な発展が万人の自由な発展を支えるような一つのアソシエーション(組合)が現れるのである

マルクス、エンゲルス『共産党宣言』

 二人はこの『共産党宣言』を、共産主義者たちのネットワークを組織していたロンドンで出すことに決めた。彼らが原稿を送ったのは1848年の1月、刊行は翌月の21日であった。その翌日の22日、パリで民衆が一斉に行動を起こした。その知らせは各国にいた自由を渇望する人々に、新たな季節の到来を告げていた。諸国民の春Springtime of the Peoplesである。

<参考文献>

佐々木隆治『カール・マルクス―「資本主義」と闘った社会思想家』筑摩書房 2016
[]フレス, ジュヌヴィエーヴ、ペロー, ミシェル監修『女の歴史〈4〉―十九世紀〈1〉 』杉村和子、志賀亮一監訳 藤原書店 1994 pp


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