心のカクテル

――ドンッ、カランカラン
 分厚い木製のドアが乱暴に開き、上部についたベルが外の雨音に負けないほど荒々しくバーに鳴り響いた。
「いらっしゃいませ」
 掃除しているマスターが怪訝そうな顔をしながら振り返り、入店した女性を見つめる。
「いつものをちょうだい」
 女性はうねった髪の毛を掻きむしるようにくしゃくしゃと手櫛をしながら早口で言い放ち、カウンターの一番端の窓際の席が空いているのを見て、大きな歩幅で近づいていく。
「お待ちを」
 マスターは席手前で女性を静止させ、後ろにある帽子掛けを手で示す。女性は唇を尖らせて不満げな表情を見せる。
「...そんなに濡れてないわよ」
 依然として指し示しているマスターに女性は溜息をついて帽子掛けへコートをかける。マスターは掃除用の布巾を窓際の席に置き、カウンターの中へ入った。コースターを窓際の端の席から二つとなりの席に置いた。
「こっちにしてくれないかしら」
 女性は眉間にしわを寄せながら布巾の置かれた端っこの席を指さす。
「申し訳ございません。お席の準備ができておりません」
「拭くだけでしょ」
「いいえ、窓の化粧が終わっていませんので。もう少しお時間が経ってお席が温まったらご案内します」
 女性は肩をすくめながらアヒル口で小さく頷き、コースターの置かれた席についた。

 マスターが氷を研ぐ音がバーに充満していた。
「やっぱり、ウォッカベースのカクテルにしてもらえるかしら」
 マスターは無言でウォッカとキュラソーのボトルを女性の前に出して支度を始めた。チェイサーを開けて、それぞれお酒とライムを絞って果汁を入れていく。女性はチェイサーと量が減ったボトルを交互に目をやりながら呟く。
「カクテルみたいにそれぞれがキレイに混ざることばかりだったらいいのに」
 マスターはスッと瞼を閉じ、チェイサーに氷を入れてから蓋をして持ち上げた。剣を振り下ろすように頭の上からシェイカーを振り下ろし、膝を折って全身を使いながら混ぜていく。混ぜていくごとに音が早くなっていき、バーの空間を支配した。
「いっつも上司と認識がズレてばっかり。患者さんに用語を多用して説明すれば時間は短縮できて効率よく診察できるけど、きちんと理解してもらえたかは分からないじゃない。だから私は極力避けたほうがいいと思うのね。仕事だからこそ上司が言う効率が大事なのも分かるけども」
 マスターが女性の言葉を遮るようにグラスをコースターの上にそっと置く。
「お待たせしました。カミカゼです」
 女性はグラスの足を指ではさんで、ゆっくりと回していく。ライムの小さい果肉がグラスの中を舞い、グラスの中を濁しているのを見て、女性はどんどん目を細めていった。

「いらっしゃいませ」
 マスターがバーへ入ってきた男性に声をかけると、男性は女性を見るなり、そっと隣の席へ座る。
「マティーニを」
 マスターは無言で支度を始める。男性は女性のほうを見て声をかけた。
「僕はここ初めてなんだけど、あなたはいつも来てるの?」
 女性は男性と目を合わせることもなく、カミカゼの入ったグラスを見つめて返答をする。
「ええ、そうよ」
「愚痴をこぼしにかい」
「マスターがそっと聞いてくれるのよ」
 男性はマスターの顔を見ると、黙々と支度する姿を見て首を傾げた。
「聞いてくれなさそうに見えるけどね」
「あら、それがいいんじゃない」
「じゃあ、僕も吐き出してみても」
「ええ、もし気持ちが晴れたら一杯ね」
「はは、いいとも」
 女性は男性と一度も目を合わせることはなかった。
「おまたせしました」
 男性はマスターから出されたマティーニを顎が上を向くほど豪快に飲み干した。空になったグラスをコースターの上に戻しながら首をガクッと下を向かせて俯く。
「いつも怒られてばっかりなんだ。お前は口任せで上司への確認やら客先への相談やらを省きすぎだとさ」
 女性はようやく男性の方を向いた。
「口がまわりそうだものね」
「それって悪いことかな。結果上手くいけばいいだけの話じゃないか」
「上手く回っているうちはね。回らなくなった時はどうするつもりなの」
「壁にぶつかってから対処するほうが効率いいじゃないか」
「あなたっていい意味でも悪い意味でも愚直なまでにまっすぐなタイプなのね。だから上司も小言を言いたくなるのかも」
「じゃあ、どうすればいいのさ」
「簡単なことよ。上司とお客さんどちらにも先に話をしておくの。大丈夫よ、あなたの言葉通り、上手く回っていたのならきっと変わるから」
 男性はふてくされながらカウンターに肘をついてぼんやりと空のグラスを見つめる。
「きっとあなたの上司は私のところと違って心配性なのね」
 女性はその姿に微笑むとそっと頭をポンポンと慰めた。女性は電話が鳴っていることに気づく。慌てて電話に出ながら席を立ち、薄暗い化粧室へと向かうのだった。

 電話を終えたのか化粧室から女性が出てくる。カウンターを見ると男性は既におらず、マスターが黙々と後片付けをしていた。席に戻ろうとしたとき、ふと窓ガラスを見ると、目が充血し、今にも泣きそうなほど眉間にしわがよっていた。
「ひっどい顔してるわね、私」
「お席の準備ができました」
 マスターは女性の声を遮るようにカウンター端の席を開けて、新しいコースターを置く。女性は席につくなり涙声混じりに話を続けた。
「...さっきあんなにエラそうな口弁してたくせに、あの男性と同じね、私。...何のために仕事してるのかしらね」
 マスターがピタッと作業を止めて、女性を見つめる。女性はそれに気づくとマスターと目を合わせた。
「お仕事はお金のために?」
 女性は思いっきり首を振って声を荒げた。
「それは絶対に違うわ。患者さんを笑顔にしたい、それだけ。でも、追及すればするほど上の指示とは離れていくの」
 マスターはそっと後ろの棚に振り向きスコッチとリキュールのボトルを取り出して、新しいグラスとともに女性の前へ並べた。メジャーカップにスコッチを3杯、リキュールを1杯を入れて、音が立たないようバースプーンでゆっくりと混ぜていく。数度混ぜたところで優しくグラスへ注ぎ、出来上がったカクテルをコースターの上に差し出すと、女性は目を丸くした。
「飲んでみてください」
 女性は言われるがままにそっと口を付けて飲む。
「ハンターと言って辛口のお酒に適量の甘口のお酒を加えたカクテルですが絶妙な味わいでしょう」
「ええ、それが何なの?」
「一見、混ぜるとそれぞれのよさが消えそうではありませんか」
「そうね」
「合わなそうなものも混ぜてみると案外合うものですよ。分量さえ間違わなければですが」
 女性はハッとして口元に手を抑える。
「バーも初めてこられる方そうでない方もマナーを守ってくださるととても楽なのですが」
「マスターも愚痴を言うときは言うのね」
 マスターが微笑むと女性の顔がほころんだ。
「うん、ベリーニもらっていいかしら」
「かしこまりました」
 いつものようにマスターがカクテルを準備し始めると、女性は携帯を見るなり、目を丸くする。
「あ、あれ、いつもより早くきすぎちゃってたかしら」
 マスターは苦笑いをこぼしながらこくりと頷く。
「だ、だから、ちょっと不機嫌だったのね、ごめんなさい」
「乱暴にドアを開けた修理代くらい飲んでいただければ」
 バーは笑顔と笑い声で満たされていった。

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