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他者に寛容でありたい女オタクが思うこと。

なんとなくふと、私の女オタクとしてのスタンスって「僧侶」みたいだなって思いました。

私は「ガチ恋同担拒否」で、今のジャンルでは「CP固定」です。

ともすれば過激派になりがちな嗜好ですが、「地雷踏んだ時に自分の気持ちを他人に押し付けるのは間違い」と考えています。同じキャラが好きな人でも仲のいい人には嫉妬しませんし、地雷を踏んだらそっ閉じします。

うっかり地雷を踏んで、嫉妬だの憎しみだのが浮かばないわけではない。けれどそれに囚われても、ぐっとこらえる。やり過ごす。

この行動が、なんというか、戒律を守る僧侶のようだなって。

基本的に自分と違う嗜好の人にも「寛容でありたい」と思ってるんですが、心根は決して寛容ではない。それを堪えて自己を律するというのは、なんというか苦行的だなと。

しかも腐女子も夢女子もこじらせてて頭の中アホな妄想でいっぱいのくせに、人から見えるところではまじめにキャラ考察してたりするのも、表向きは精進料理食ってるけど裏で隠れて肉食ってるみたいで、生臭坊主感ある。笑

いや、考察も好きなんですよ。でも、真面目一辺倒じゃないし、エロもギャグも読むし書く。恥ずかしくてあまり人には見せてないけど。

っていうのも、先日読んだBRUTUSに「オタクの推しを応援するって気持ちは、ある種宗教に似てる」「オタクは色んなジャンルに色んな推しを見つける多神教」という記述があって。

それで、自分自身のスタンスを宗教になぞらえるとどうなるのかな〜って考えてしまったのです。

Fate関連の特集、興味深かったです。神話と一神教の違いに喩えて語られるFateワールドの魅力や、神話体系や民話が出来ていく過程など、歴史や神話に興味のある方、創作に携わる人は読むときっと楽しいと思います。

それで思ったのが、同担拒否やCP固定など、あるいはそれ以外でも、過激派のような考えって、一つのものしか認めないという点で一神教に近い側面があるなと。

私は過激派な自覚はありますが、個人の考え方としては常に多神教に共感してるんですよ。多神教というか神話体系というか。

たとえば日本の神道とかもそうだし、インド神話、ギリシャ神話、ケルト神話(アイルランド含む)とか。「死は終わり」より「命は巡るもの」という考えが好きだし、許されるために生きてるわけじゃない。

全ての一神教がそうだとは言いませんが、政治や利益のために不安を煽って信徒から搾取するという構造があるので、そういった宗教からは距離を置きがちです。けれど一時期そっち系の学校にいたので聖書の教えにも共感できるところがあり、信仰そのものを否定するつもりはないのです。

ただ、本来はささやかで柔軟だった民間信仰の形を捻じ曲げて利用している人間が嫌いなだけ。

話が逸れました。戻します。

それで、性根は一神教寄りである私が、なぜ寛容でありたいかと思うかと言えば、過去、自分が押し付けられてきたり、無理解と断絶に苦しめられてきた経験から、無理解によって他者を傷つけたくない、と思うからです。

けれど、そう思えば思うほど、今度は「自分の思想を押し付ける人は許せない」と思ってしまって。

「寛容ってなんだろう」って考えた時に、私は多分、寛容でない自分を必死に律してるから、寛容でない人が許せないんだなっていうことに気が付きました。

それに気付くと、今度は「それに気付けない人が許せない」って気持ちが湧いてきたりして。

気付いたら私も、「寛容であること」を他者に押し付けようとしていたりして。

それは本当の意味では寛容とは呼べないなと。

結局のところ、無理解と断絶に苦しめられてきた自分がまだ苦しいままなんです。だから、そんな風に思ってしまう自分も、他人も、許せないんだと思います。

本当は、寛容である必要なんてないのかもしれない。許せないままでいいのかもしれない。

けれど寛容であった方が、いろんなことが許せた方が楽で、楽しい事もあるのは知ってるから、生きづらくない程度には寛容でありたいなって。

私は思考が極端なので、最終的には仙人あたりになりたい、とか思っちゃうんですけど、きっと欲を捨てたらオタクじゃなくなりますよね。孤高には憧れるけど、寂しがりなので、孤独になりたいわけじゃないんです。笑

欲を持ったまま、けれど寛容に、そんな風に生きられたら理想だなって思います。

そんな風になるために、少しずつ過去に無理解に苦しめられた自分を癒そうと、ようやくそこに至れました。今はどうやったら癒せるのか試行錯誤中です。

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