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独自研究

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私のオリジナル研究です。論文に近いスタイルで書いてあります。
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地震隆起と海岸段丘のモデル

地震で海底が隆起するのを繰り返すと海岸に階段状の平坦面ができる。しかしそれは砂浜に限られる。磯浜ではできない。 上の図は、地震で隆起するときの磯浜と砂浜の違いを模式的に示したものである。地震は同じ時間間隔で繰り返すとする。たとえば2000年間隔をイメージしてください。 磯浜では、地震で波食棚が隆起しても、そのあと長く続く静穏期に波食棚の表面が波で全面に渡って削られて、海が元の崖下まで届く。隆起した波食棚は段丘として残らない。地震が繰り返されるたびに海岸に面した崖が高くなる

能登半島地震で政府の初動が遅れたのは誤って特定災害対策本部を設置したから

死者230人 9割が家屋倒壊による2024年1月1日16時10分に起こった能登半島地震(M7.6)から3週間が過ぎて死者カウントが増えなくなってきた。最終的には230人ほどに落ち着きそうだ(直接死のみカウント。災害関連死は除く)。死因は、火災10人、土砂災害8人、津波2人が、いままでに報告されている。残りは家屋倒壊による死者で、210人ほどになる。9割だ。生き埋めになって死亡した人の数は、土砂災害を加えて220人ほどだ。 地震当日から救命救助に当たった自衛隊の報告では、救

鷲羽池-双六火山灰は、5センチの泥炭を挟んでアカホヤ火山灰の上にある。

2年前の9月に花見平の東端でみつけた露頭は、良好な状態でそのまま残っていた。2年前はここぞと思った2層準から試料採取したが、アカホヤ火山灰を確認するには至らなかった。今回再挑戦だ。 30万年前の火砕流堆積物の上に黒い泥炭層がある。氷期のあいだここは植生を欠く裸地で浸食の場だった。気候が暖かくなったおよそ1万年前から植生が着いて泥炭が堆積し始めた。泥炭の上にある褐色層は鷲羽池の噴火で降り積もった双六火山灰だ。上方に徐々に暗色化している。植生が戻っていまと同じような草原が成立し

宝永山は従来説通り10万年前にできた古い山体

宝永山が1707年噴火でできたとする説が最近唱えられている。テレビで放送されたり、科学雑誌の表紙で謳われたりもしている。しかし、この新説ははなはだ疑わしい。地質学の基本を無視した暴論だと片付けてよい。宝永山は従来説通り10万年ほど前にできた古い山体である。 宝永山をつくる地層は西に30度傾斜している。そして東側が大きく削られて断面を露出している。この浸食がいつどんな理由でどうやって生じたかを新説は説明しない。富士山の側火山で断面がこれほど広く深く露出するのは、山頂火口と17

十和田湖の御倉山は平安時代915年に上昇した溶岩ドーム

十和田湖の火山防災計画を立案するときは、もっとも新しい平安時代915年噴火Aがどこでどう起こったかを正しく把握することが重要である。この噴火のあと、これを上回る噴火は日本列島でまだ起きていない。それほど大きな噴火だったからだ。 御倉山が8000年前の噴火Dでできたとする新説を十和田火山防災協議会は採用しているが、その新説は明白な誤りである。従来の大池昭二説通り、御倉山は915年噴火Aの最終段階で上昇してきて火道に栓をした溶岩ドームである。東方向にいくぶん流れ下っているから、

富士山1707年12月スコリア斜面崩壊による谷埋め堆積物

富士山中腹で1707年12月後半の2週間に渡って進行したプリニー式噴火のとき火口のすぐ脇、宝永山赤岩の崖下から東になだらかに広がる斜面にスコリアが厚く積み上がった。噴火中または噴火直後にその斜面が不安定になり、まだ熱い大量のスコリアが幕岩を目指して下方に移動した。幕岩のすぐ上流の谷壁で、その堆積物が幕岩溶岩の上に厚さ10メートルで乗っているのを観察できる。 堆積物はほとんどが黒いスコリアからなる。スコリア礫のあいだに細粉は含まれていない。火口近傍の降下堆積物のようにも見える

御殿庭は1500年前より古い

富士山南東中腹にある御殿庭が江戸時代の1707年12月噴火で、すなわちわずか300年前に、形成されたとする説が最近になって相次いで発表された(馬場ほか2022,小山2023)。しかし私は御殿庭を、1万3000年前に氷河が残したモレーンだと考えている(早川2018)。 御殿庭が300年前か1万3000年前か、確実に判定できる方法を思いついた。南東側に隣接する小天狗塚との上下関係を調べるのだ。小天狗塚は1500年前の噴火で形成されたスコリア丘である。御殿庭が300年前なら小天狗

ドローンで見た富士山頂火口の形成過程

要旨 富士山頂火口縁からドローンを飛ばして火口内外の地層と地形を撮影した。それをじっくり観察して山頂火口の形成過程を次のように考察した。3140年前までは、富士山頂火口は西にいまより150メートル広い円形をなしていた。そのあと火口内側が次第に埋め立てられる過程で南西縁に剣ヶ峰ができた。2900年前に東側山腹が大きく崩壊したとき火口縁の東側5分の1が欠けた。崩壊した直後から山頂噴火を繰り返して、欠けた東縁に伊豆岳スコリア丘を構築しつつ火口内に金明水溶岩湖を湛えた。持続的な噴火は

姶良丹沢噴火のアニメーション

日本列島とその周辺地域に広く分布する姶良丹沢火山灰は、3万年前に鹿児島湾最奥部で生じたカルデラ破局噴火の産物である。それは、日本列島で過去に起こった火山噴火のなかで最大級のものだった。この火山灰がどのくらいの時間をかけてどうやって大気中に広がったかはよくわかっていないが、私は、大きな入戸火砕流パンケーキから空高く一気に立ち上がった火山灰雲が横風に流されつつ高速度で四周に広がったとするモデルを2020年1月に提出した。 今回、和田電氣堂のちからを借りて、このモデルをリアルに表

北アルプス稜線に鷲羽池をつくった6000年前の噴火

北アルプスの鷲羽岳(2924メートル)はジュラ紀のカコウ岩からなる。その南東山腹に直径300メートルの火口が開いている。火口底には広い平らがあって夏季は水をたたえて鷲羽池が出現する。 この写真は、ドローンを用いて2021年9月28日に撮影した。火口地形は新鮮で、氷河による浸食を受けていない。したがって、この火口は前回の氷期が終わったあと、すなわち1万年前以降に生じたとみられる。 火口を取り巻く内壁には、花こう岩ではなく、安山岩溶岩が厚く露出する。つまり、この火口をつくった

美瑛のうねうね丘をつくったのは霜柱

北海道中央部にある美瑛の景色は日本離れしている。うねうねとした丘がどこまでも続き、まるでヨーロッパかアメリカ大陸東海岸にいるようだ。この景観は火砕流堆積物がつくり出したと説明されることがあるが、火砕流がつくった台地の表面は平坦になるはずだ。南九州のシラス台地を思い出してほしい。このようなうねうねした地表は、火砕流がつくった堆積面では説明できない。 美瑛の街(右上)と、その周囲に広がるうねうねした丘。標高は300メートル程度。 美瑛の街を歩くとと、碁盤の目に区切られた通りの

火山の脅威 何にそなえて何をあきらめるか

2020年10月24日、霧島ジオパーク友の会に招かれて、霧島市国分で講演しました。そのとき使ったスライドを掲げて講演内容をここに記録します。 火山の脅威はさまざまです。地震や台風と違って、火山が牙をむいたら実際どうなるのか、一般の方はよくわかっていないだろうと思います。火山弾からカルデラ破局噴火まで、6つの脅威を順に説明します。 1 火山弾この穴は、新燃岳2011年2月1日の爆発で火口から3.2キロ地点に落下した火山弾がつくった衝突クレーターです。直径は、穴の中にしゃがん

鬼押出し溶岩から発生した鎌原土石なだれ

1. 冷たい土砂の流れだった浅間山の1783年(天明三年)噴火は、その最終局面の8月5日10時に突然発生した土石なだれが鎌原村を襲って多数の死者が出たことでよく知られる。鎌原村を高速で通過した土石なだれはそのまま吾妻川に入って熱泥流となり、渋川で利根川に合流してその日のうちに江戸と銚子まで到達した。これに巻き込まれた死者は1490人を数える。 鎌原村を襲った土石なだれはマグマが噴出した火砕流ではなく、浅間山の山腹をつくっていた冷たい土砂の流れだった。ただし高温の岩石がわずか

浅間山の山体崩壊と土石なだれ

1. 黒斑山が崩壊してできた湯の平小諸市の高峰高原から黒斑山を目指して登山すると、2時間足らずで森を抜けて山頂に立つことができる。東側は断崖になっていて、目前の前掛山との間に湯の平が大きく広がる。2万4300年前に当時の浅間山だった黒斑山が東に大きく崩れてできた地形である。そのあと誕生した前掛山の中心火道が東に2kmずれていたために成長しても黒斑山を覆いつくすことができず、湯の平に広い窪地が残った。 荒牧重雄は1962年の地質図で、佐久市塚原に展開する多数の流れ山を黒斑山東