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鬼押出し溶岩から発生した鎌原土石なだれ

1. 冷たい土砂の流れだった

浅間山の1783年(天明三年)噴火は、その最終局面の8月5日10時に突然発生した土石なだれが鎌原村を襲って多数の死者が出たことでよく知られる。鎌原村を高速で通過した土石なだれはそのまま吾妻川に入って熱泥流となり、渋川で利根川に合流してその日のうちに江戸と銚子まで到達した。これに巻き込まれた死者は1490人を数える。

鎌原村を襲った土石なだれはマグマが噴出した火砕流ではなく、浅間山の山腹をつくっていた冷たい土砂の流れだった。ただし高温の岩石がわずかに(数%以下)入っていた。それを以下では黒岩と呼ぶ。20世紀になって北麓にいくつも開発された分譲別荘地内には、大きな黒岩が点在している。下流の渋川市内には、「金島の浅間石」と「中村の浅間石」が残されてランドマークになっている。どちらも差し渡し10メートルを超える巨岩である。

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口絵2 土石なだれが運んだ黒岩(プリンスランド)

2.従来の解釈

荒牧重雄(1, 2)は、黒岩からなる火砕流が山頂火口から噴き出したあと、中腹でまるで玉突きのように冷たい土砂と入れ替わって鎌原村を襲ったと考えた。鬼押出し溶岩はそのあとで山頂火口から流れ出たと考えた。しかし、冷たい土砂を突いた場所に置き去りになったはずの大量の黒岩が中腹のどこにもみつからない。鬼押出し溶岩の流出を書いた文字史料も鎌原土石なだれのあとにはひとつもみつからない。

井上公夫(3, 4)は、噴火前の絵図に柳井沼と記された湿地が浅間山の北側中腹に大きく描かれていることを発見し、そこから山腹噴火が起こったと考えた。ただし、なぜ柳井沼から噴火したのか、どのような噴火だったかは十分に説明できなかった。

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口絵1 爆発で大きく広がった柳井沼を後続の溶岩が途中まで埋め立てた。

私(5, 6, 7)はこう考えた。鬼押出し溶岩は2日午後から始まったプリニー式軽石噴火と同時に山頂火口から流れ出していて、北側山腹をゆっくりと流れ下った。やがて柳井沼に達し、地表水に高温溶岩が接触して水蒸気爆発を起こした。この爆発によって柳井沼の周囲の土砂が不安定になって北に向かって高速で走り出した。したがって、土石なだれに含まれる黒岩は鬼押出し溶岩そのものである。爆発によって大きく拡大した窪地は、後続の鬼押出し溶岩で半ば埋まった。

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浅間山の1783年噴火地図 釜山スコリア丘(Acn)、鬼押出し溶岩(Alf)、吾妻火砕流(Aig)、鎌原熱雲(Abt)、鎌原土石なだれ(Ada)。2007年作成。吾妻火砕流はもっと広い範囲で鬼押出し溶岩の上に乗っていることを、その後の現地調査で確かめた。図中の数字は写真の撮影地点。

3. 野外観察と証拠

長野原町営の浅間火山博物館敷地内に厚さ1メートルの砂礫層がある。ガラス質安山岩の破片からなり、1783年軽石の上に直接乗っている。この層の厚さは火山博物館から遠ざかると薄くなって、数百メートル離れると厚さ10センチに減少する。私はこれを鎌原熱雲と呼ぶ。山頂火口ではなく、この近くで火山爆発が起こった証拠である。火山博物館の遊歩道で観察できる鬼押出し溶岩の表面には水冷構造もみつかる。高温溶岩が地表水に触れて冷えた証拠である。

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写真1 浅間火山博物館のスキーゲレンデ縁に露出する砂礫層(鎌原熱雲)

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写真3 鬼押出し溶岩に見られる亀の甲らのような水冷構造

柳井沼で爆発が起こった物的証拠はこのように複数確認できるが、山頂火口から4キロ離れた場所でいきなり高温砂礫が地下から噴き出たモデルには、必然性が足りない。もし山頂火口から流れ下った鬼押出し溶岩がそこで水蒸気爆発したのなら、火山学的にもっともらしい。

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しかし、そうであるためには、鎌原土石なだれが発生した5日10時より前に鬼押出し溶岩が存在していなければならない。これは従来説に重大な変更を強いる大胆な仮説だが、肯定する証拠が複数みつかる。

証拠1) 4日午後に流れたことが文字史料から確実である吾妻火砕流が、鬼押出し溶岩の上に広く乗っている。上の噴火地図は、2007年時点で把握していたごく狭い範囲にしか鬼押出し溶岩の上に吾妻火砕流を着色していないが、実際にはもっと広い。

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写真4 鬼押出し溶岩の上に乗る吾妻火砕流

証拠2) 吾妻火砕流が東西二条に分かれて分布しているのは、流下中の鬼押出し溶岩の高まりが障壁となって流れ分けたと考えればうまく説明できる。もし鬼押出し溶岩があとから流れ下ったのなら、吾妻火砕流の流路をなぞらなかったことが説明できない。

証拠3) この噴火で山頂につくられた釜山スコリア丘の破片を鬼押出し溶岩が表面に乗せて運んでいる。火山博物館の遊歩道をめぐると、よく酸化して赤くなったスコリアラフトが多数みつかる。鬼押出しは、火口から噴泉を上げて釜山スコリア丘を形成しつつ流れ出た溶岩である。それは、2日午後から5日未明まで続いたプリニー式噴火60時間に等しい。

証拠4) 鎌原土石なだれの前、4日未明(天明三年七月八日未明)に鬼押出し溶岩が柳井沼に届いていたと解釈できる文字史料が存在する(7)。「村の長たる者不思議成事かな源を見んと八日の未明見に趣しに泥湧出つる事山の如し」(蓉藤庵『浅間山大変実記』)、「七月初瀧原ノ者草刈ニ出テ谷地ヲ見候へハ谷地之泥二間斗涌あかり候」(毛呂義郷『砂降候以後之記録』)。当時は溶岩の概念がなかったから、泥が山のように盛り上がったと見たのだろう。

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写真5 巨大なパン皮火山弾のような黒岩

鬼押出し溶岩が鎌原土石なだれの前から存在していたのなら、黒岩が鬼押出し溶岩だと考えることにおかしなところは何もない。パン皮火山弾のような表面のひび割れや厚い本を捻って曲げたような奇妙な形態は、むしろ流れ下ったばかりで半固結状態だった鬼押出し溶岩でないとつくれないだろう。

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写真6 サンランド管理事務所の黒岩

分譲別荘地サンランド管理事務所にあるひときわ大きな黒岩は、鬼押出し溶岩が運んだスコリアラフトである。山頂の釜山スコリア丘の一部が鬼押出し溶岩の上に浮かんで柳井沼まで運ばれたあと、そこで起こった水蒸気爆発で発生した土石なだれに混じてここまで流れてきた。ホップ・ステップ・ジャンプの三段跳びだ。

4. 他例はあるが、予知はむずかしかった

浅間山の1783年噴火は、高い噴煙柱からの軽石降下に始まり、火砕流を経て、溶岩流出で終わったとされてきた。噴出するマグマに含まれる揮発性成分(おもに水蒸気)が噴火の進行とともに減少するモデルの実例として高校教科書に挙げられたこともあった(8)。しかし、よく調べてみたら、その推移はずいぶん違っていた。8月2日午後からプリニー式噴火が始まって、高空に達した噴煙柱から風下に軽石が降り、同時に火口の周りに釜山スコリア丘を構築しつ北に溶岩を溢れ出した。4日午後には火砕流が山肌を下った。その日の夕刻にクライマックスが訪れて、翌日未明にマグマの噴出は終わった。噴出したマグマの量は、降下軽石として3億トン、溶岩として3億トン、火砕流として1億トンだった。1490人が死んだのは、山頂火口からのマグマ噴出が終了した数時間後、北山腹を静かに前進する溶岩が地表水に触れて水蒸気爆発したからだった。

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写真7 草津白根山の武具脱の池、別名ひょうたん池。

前進する溶岩流の先端近くで水蒸気爆発が起こることは他の火山でも報告されている。アイスランドでは、湿地に流入した玄武岩溶岩が偽クレーターの群れをつくっている(たとえばエルドギャオ943年溶岩やミーバトン湖畔)。浅間山の北隣にある草津白根山の武具脱の池(ひょうたん池)は、5000年前の殺生溶岩が谷筋に入って起こした水蒸気爆発の跡である。しかし、鎌原ほど大規模な土石なだれと奇妙な形態的特徴を有する黒岩は、他火山で類例を知らない。

浅間山の1783年噴火は8月4日夕刻にクライマックスを迎えた。翌日未明に噴火は終わったかのように見えた。しかし、その数時間後に突然、柳井沼を覆った鬼押出し溶岩が水蒸気爆発した。不安定になった大量の土砂が山腹斜面を高速で走って吾妻川に流入し、1490人の命を奪った。いまの気象庁と火山噴火予知連絡会が江戸時代にあったとしても、この爆発の発生と甚大な被害を予知するのはむずかしかっただろう。

引用文献

(1) 荒牧重雄(1968)浅間火山の地質。地団研専報、14、45頁
(2) 荒牧重雄(1993)浅間天明の噴火の推移と問題点。火山灰考古学(新井房夫編)、古今書院、83-110頁
(3) 井上公夫・石川芳治・山田孝・矢島重美・山川克己(1994)浅間山天明噴火時の鎌原火砕流から泥流に変化した土砂移動の実態。応用地質、35、12-30頁
(4) 井上公夫(2009)噴火の土砂洪水災害 -天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ- 古今書院、203頁
(5) 早川由紀夫(1995)浅間火山の地質見学案内。地学雑誌、104、561-571頁
(6) 田村知栄子・早川由紀夫(1995)史料解読による浅間山天明三年(1783年)噴火推移の再構築。地学雑誌、104、843-864頁
(7) 早川由紀夫(2010)浅間山の風景に書き込まれた歴史を読み解く。群馬大学教育学部紀要自然科学編、58、65-81頁
(8) 平成5年3月31日文部省検定済 東京書籍地学IB

この記事は、古今書院地理2017年8月号4-9を再構成したものである。

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