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二十六回 出鱈目なパズルその参「そして僕は再び北に向かった」の巻

1994年2月 草加→北海道

 

 またこの問題にぶつかった。

ぶつかってしまった。

映画ってどうやってつくるんだろう。

何を学んだらつくれるようになるんだろう。

 この問いは弘樹が高校時代から悶々と考えてきた「悶題」だ。考えると訳の分からないドツボにハマっていくからどうしたって暗い気持ちになる。

 

だからなるべく考えないようにしていた。

でも、避けては通れない壁だった。それをクリアするべく自分が考えた案の一つ目が「映画の本場、アメリカのハリウッドに関係する大学に入ればなんとか手掛かりが見つかるだろう」というものだ。

 実に安易かつシンプルな発想だった。そしてそれは、僕のモチベーションを上げるには充分なものだったと思う。

 しかしそれは、あっけなく病気の両親をどうするのかという問題で消えた。TOEFLで550以上のスコアを出しさえすれば道が開けるだろうという甘い考えを持った自分の頬を、パチンと平手で叩かれたのだ。

 

二つ目は自分が影響を受けた映画をつくった本人に会って聞くという方法。その本人とはイタリアにいるジュゼッペ・トルナトーレ監督である。会って意気投合して「あわよくば弟子入りさせてもらえたらラッキーだな」なんていう展開を妄想すると、その時その瞬間夢が膨らでいった。「ハリウッド案」よりもっと直球で自分としては好きな考え方だった。

 が、これもバブルの泡と消えて遠ざかっていったようだった。家族のことを考えると「日本をポンと出て、そのまま帰ってこない」という選択はなくなった様に、思えた。

 

でもって、そうでないとするなら、今出来ることとして選択したのが、大学のサークルで映画をつくりながら考えることという道だった。あの入学式後のロッテリアでの不思議なおじさんとの出会い。今振り返るとあれは天からの啓示のようなものだったのかもしれないとさえ思えるのだけれど…。

 「つくりながら考える」と思って入ったそのサークルも、気づけば先月辞めてしまったのだった。勢い余って辞めたのはいいが、まだ自分に映画をつくる術が身についているとは、正直とても思えなかった。

 

〇なぜ、僕は北に向かうのか

 そして、来週からまた弘樹は北海道へ行く。いつもなら独りでいくところを、夏に続いてR女史と一緒にいく段取りになっていた。毎年何度も北海道に旅に出かける、その本当の動機が何なのかは、自分で薄々気づいていた。

 

いつの頃からか弘樹は、どこか敗北感というか、重い荷物を背負わされて生きているかもしれないと思うことがあった。それは別段誰かに語ることでもなく、ただぼんやりとしたものだったが、今もふと感じる時がある。他人の前では明るく自信満々に振舞うことが出来ていたとしても、なぜかそう感じている別の自分がいた。何に勝とうとしているのか、何に負けているのかなんて、そんなことはよく分からない。ただ、そういう感覚に陥る時に僕はよく「現実逃避をする癖」があった。

 大抵は、本に向かえばその世界に浸りながら、すっぱり忘れることが出来る。けれど、そういうものって、にじみ出る膿のように少しずつ溜まっていく。じわりじわりと…。

 それが「溜まり」になる前に、僕は旅に出かける身づくろいを始めるようなのだ。

 

「敗北」には北という文字が使われているように、北に向かう列車に乗るのが良く似合う。脚本家の倉本聰さんも、確かそんなことをエッセイの中で書いていたと思う。

 かつて、NHKの大河ドラマで演出家と意見がぶつかり、多くの社員からもつるし上げにあって降ろされた時のこと。あまりの悔しさと悲しさの中で涙を隠すためにサングラスをかけ、気づいたら「北へ」向かっていたという倉本さん。北海道に着いて電話で奥さんに「今、北海道にいる。当面は帰らないと思う」そんなことを告げた倉本さんも、その時はただ逃げたかっただけだったんだと言う。

 でもそれから後に、富良野であの国民的ドラマ「北の国から」を生み出し、富良野塾へと繋がるのだから、ヒトの人生というのは、実に数奇な流れの中にあるものだと思う。

 後々のNHKのインタビューでは、アナウンサーは倉本さんのそこの部分に詰め寄って聞いたという。

 「でも、どうして北海道だったんですか?」

 倉本さんが言うには、

 「敗北っていうでしょう。決して敗南とはいいませんよね。負けると誰でも北に向かうのです」

 倉本さんでもそういうことがあるのかと、勝手に親近感を持った記憶がある。だから、僕の中で「北へ向かう」という行動が、そういう深層心理と繋がっているんだろうと、なんとなく認識していた。

 逃げるのは、いい。

でも、ただ逃げるだけというのは嫌だった。

  

〇映画は学校で学べるのか

  だからというか、北海道へ旅立つ前に

僕は一つだけ新たな行動を起こした。

 

きっかけは映画関連の情報誌「ぴあ」で見つけた記事だ。

 「映画づくりを学びたい人・受講生募集」

イメージフォーラム映像研究所

 一九七七年から始まったらしい年間講座は、今年で十九期目になるようだ。しかも、フィルム制作を中心に講義は行われると書かれている。

 フィルムでやりたいと思った。

八ミリでも十六ミリでもいい。

その延長に映画館でかかっている三十五ミリの映画なるものがあるということ位は僕でも分かっていたからだ。

 受講料はそこまで高くはないし、夜間の学校だから大学が終わってから通うことも問題はない。という訳で、早速受講申込と振込みを大学の中央棟のATMから済ませてきた。

 その足で学生課に行き「北海道ワイド周遊券」を買うためのの学割証明をもらう。(ワイド周遊券とは、北海道への往復と、道内の特急を含めた鉄道乗り放題のチケットで三週間有効。これで三万円しないのだから驚愕の安さなのだ)

 

「映画は学校で学べるものなのだろうか」そんな疑念が一瞬よぎったけれど、今はこの「現実逃避と夢への切符」というその二つを手にしたことが、単純に嬉しかった。

 ただ、いずれまた目の前に現れるのだろう。

あの霧の中の風景の世界が…、映画という獣道を歩むものには必ず現れるという「もやもや沼」が…。

 でも、もしかしたらこれで流れが変わるかもしれないとは思っていた。だって、「受講にあたってはレンタルも一部可能だが、フィルムのカメラの購入が必要となる」と記載されていたから。

 これをきっかけに僕は映画用のフィルムのカメラを買うことになるはずだ。今はどこでそれを手に入れられるのかも分からない。けれど、いずれ講義が始まればその情報をゲットして、数か月後には僕は映画をつくっていることが宿命づけられたのだから。

 

 一週間後。弘樹はR女史を連れて、再び北海道へ旅立った。今回の目指す先は、競走馬のふるさとである静内周辺の牧場である。そこで友人のJやオグリキャップらとも再会し、最終的には釧路経由で阿寒のアイヌコタンに逗留の予定だ。

 

「もういい加減ここにはいられない、

帰るのだ、我々は帰るべきなのだ」

 そう思うまでゆっくりと。

じっくりと、いつもの家で。

コタンの中川家にお世話になる予定である。

 

(次号「立往生する中で彼女が語ったこと」へ続く)

 

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