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古典文学が好きだって話を聞いてくれ。

 古典って、知ってる?

 そう、ありをりはべりの、あの古典。中学高校と読まされる、なんだか解りにくくて、現代語訳もふわふわしてる、あの古典。

 千年も前の人の言葉。らしい。その古典。

 私は、古典に魅せられている。

 ○

 物語を、読んだことがあるだろう。みんな、なにかしらの物語を摂取して生きている。生きるために。
 言葉は力で、糸で、繋がりで、窓だ。私達は感情を、言葉を介してやり取りしている。嬉しい、悲しい、嫌だ、腹が立つ。あらゆる喜怒哀楽。喜怒哀楽なんていう、四文字で表しきれない感情たち。
 私たちのうちに湧き上がるそれらを、時には色に、味に、香りに、時間に。さまざまなものに託して、なんとか届けと祈って言葉を放っている。

 そういう営みが、いつから行われていたのか。
 言葉の旅に、出ようと思う。
 タイムマシンに乗って、どこにいこう。
 文字の上なら、どんな人とだって会話できる。

 それが、古典。

 〇

 ああ、どこから古典というものの魅力について話せばいいんだろう。
 世の中には、古典が面白いって紹介する本がごまんとある。そういった本以上に、何か伝えられることがあるだろうか。わからない。
 本当に好きなものについて、どう紹介したらいいのかわからないのだ。

 〇

 古典を読もうとする時、難しい文法や単語なんて、二の次でいい。なにか、素敵な言葉を探してほしい。たとえば、図書館で古今和歌集をぱらぱらめくって、目に留まった歌。それが、古典への窓になる。

 古典は、出会いだ。本当に不思議なことに、出会いだとしか言いようがない。

 私の先生は、それをプレゼントという。
 千年以上前の、紙のむこうの人から、私に、貴方に、向けられた言葉がある。

 それは、その辺のよくわからないおじさんがいう格言なんかよりも、もっと質量を持って、いろんな人の手を、文字通り手を渡ってきた言葉たち。

 ネットも、印刷も、録音も。何もない時代。紙が非常に高価だった時代。紙に文字を書いて、残すということは、いま私たちが思うよりも、もっと重みをもったところにあったのではないかと思う。

 写本という、ものがある。私たちが一般的に読む古典は、校訂本文なんてよばれて、学者先生方が読みやすいようにあれやこれや、工夫してくれている。それ以前。もっと昔。平安から、鎌倉、室町、戦国、そして江戸。この長い時間を、人は紙から紙に言葉を写して伝えてきた。それが、写本。

 現代に残された言葉たちは、誰かが、残さなくちゃいけないと思って残した者たち。なんて、尊い。なんて、遠い。いったい、何人がこの文字の上を渡ってきたのだろう。

 私が古典に親しむときに、紙の向こうにいる人物のことを考える。

 まず、研究者。それに、本を出すのに尽力したであろう編集の人、印刷会社の人。つぎに、研究者が底本にした本を書写した人物。誰だろう。三條西実隆か、冷泉家のだれかか、定家かもしれない。そこからさらに、その本が参考にしたであろう本たち。もう、この世にはないけれど、たしかにそこにあったであろう、いくつかの伝本たち。そういった、何枚もの紙を乗り越えて、その向こうに、作者がいる。清少納言や紫式部や、紀貫之や孝標娘や、道綱母。多くの歌人たち。
 そして、名前のない読者たち。あるいは、筆者たち。

 紙から紙に、書き写されて伝えられてきたものは、時に「作者」と「読者」の境目をなくす。そういう文が、随所に紛れている可能性もある。

 あまりにも、果てしない。果てしなくて、遠い。

 そして、私が古典を読むということは、その果てしない列の並びに、入るということに違いない。

 この、高揚感。ロマンとしか言いようがない。

 千年以上読み継がれた物語を、つぎの千年につなぐには、読む人がいなければならない。読まなければ、続かない。ごく自然で、ごく当然のこと。でも、文字や紙があふれる現代では、忘れてしまうこと。

 〇

 古典が、好きだ。

 知っている?伊勢物語というものについて。
 昔男の、一代記。恋に友情に、さまざまなものに心を動かされた色好み。
 いくつもの名高い歌を残した彼の晩年に、こんな段がある。

むかし、男、いかなりけることを思ひけるをりにかよめる
  思ふこと言はでぞただにやみぬべき我と等しき人しなければ

 昔、男、どんなことがあったのか分からないが、なにか思うことがあったときに。

 思うことは、言わないでやめておいたほうがいい。
 私と同じ気持ちの人なんて、どうせいないのだから。

 もう、信じらない。
 信じられないくらい、今と同じだ。
 誰にも、理解されない。皆そう思っている。言葉を介しても、そこに誤差ある。齟齬がうまれる。私たちは、身体という、脳という孤独に、縛られている。
 だけれども。だけれども。
 千年以上前に、そう言っているひとがいる。千年経って、ようやく孤独じゃないと感じられる。言葉は時々、壁を超える。そういう、力がある。

 120段以上、自分の恋や人生について語ってきて、最後の最後に言うことが『理解されない』

 これまで語られてきたことは、なんだったんだろう、という気になる。
 同時に、言葉も人生も、そういうものだな、とも思う。

 千年を超えて、それでも人は変わらない。
 その事実に、救われる。それだけで、孤独な夜を越えて行ける。

 古典が、好きだ。

 〇

 どうしたら、この好きが伝わるのかわからない。
 今日、久しぶりに恩師と話した。枕草子を読んだ。
 楽しかった。

 古典が好きだ。
 きっと、一生好きでいる。

 嫌いになんて、絶対になれないんだろうな。

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