わたしにとって、本はお守り
2021年11月23日に開催された「文学フリマ東京」というイベントに出店者として参加してから、そろそろ1ヶ月が経とうとしている。
何ヶ月もかけて準備をしてきても、いざ迎えると当日はたった数時間しかなくて、それでもわたしの心の中にはまた数年間くらいなら余裕で頑張れてしまえそうな圧倒的な充足感をもたらしてくれるのだから不思議だ。
ここ数週間で気温が一気に下がり、黄金色に染まったばかりのイチョウも徐々に散って、今度は足元を彩ってくれるようになった。
今わたしの元にあるのは、たくさんの本たち。それは書店で売られているものとは少し違って、けれどちっとも劣らずに、どれも作り手のこだわりや愛がこもったもので、わたしの目にはきらきらと輝いて見える。それは他でもない、文学フリマで購入した本である。
たぶん、本を作るのが好きな人は、本を読むのも好きなのだと思う。
読む、と限定するのはよくないかもしれない。読むのに限らず、“本”というものに何かしらの可能性を感じている人が多いのだと思う。
文学フリマに参加するたびに、わたしは「本好きな人って、こんなにたくさんいるんだなあ」と思う。
現代の若者は活字離れとかいろいろと言われているし、実際そうなのかもしれないけれど、わたしにとって文学フリマで見る光景はそんな事実を吹き飛ばすほどの威力を持っているのだ。(でも、こうしてnoteというプラットフォームがあるのだから、やっぱり人は文字を読むのが好きなのだと思うが)
文学フリマ当日は、自分のブースに座って、通り過ぎゆく人々をぼうっと眺めた。
脇目も振らずお目当のブースに向かってまっすぐ歩く人や、うろうろと視線を彷徨わせながらお気に入りの一冊を探す人、たくさんの本が入っているだろうカバンを抱えて柱にもたれながら休憩をする人、色々な人がいた。
わたしは、彼らにとって本はどのような存在なのだろうと想像する。きっとそれは、わたしの想像を超えるほど、多種多様なものなのだと思う。
わたしにとって本は、もうずっと昔から“お守り”のような存在だ。
◇
そもそも、本というものは不思議で魔法のような存在だ。
物質的にはただの紙を束ねたものであるのに、そこには物語やメッセージ、体験、記憶、たくさんの感情が詰まっていて、ページを開くだけで1つの“世界”が広がっている。わたしは、幼い頃から本が好きだけれど、たくさん読んでいるかと問われれば首をひねるし、詳しいわけでもない。
けれど、確かに本が好きだと言える。
それは多分、いつだって本を開けばどこか別の世界へ連れて行ってくれることが約束されているから。
だからいつしかわたしは、その約束を頼りに本を持ち歩くことが好きになった。
たとえば電車移動。
これは比喩でなく、本当に体感として「電車の中で本を読むと、一時間が10分のように感じる」のだ。
実は東京に住んでいた頃は、電車の中で本を読むことは少なかった。理由としては、東京の電車(または地下鉄)移動は、わりあい忙しいからだ。そもそも目的地まで遠くないことが多いのですぐに到着してしまうし、乗り換えが重なると気が気でないし、満員電車の中では本を開くスペースもない。
そんな中でも器用に本を読める人もいるかもしれないが、わたしはそうではなかった。
今年のはじめに神奈川へ引っ越してからは、東京へのアクセスがやや不便になった。乗車時間は以前の倍以上。どこへ行くにも一時間程度はかかる。
目的地に着いてすらいないのにいたずらにスマートフォンの充電を減らすことはあまりしたくない。そんな時に、本は非常にありがたい存在だ。文庫本サイズであれば小さめのカバンにもおさまり、荷物に感じることもない。
各駅停車の電車に揺られながら、縦書きの文字を追うのは存外心地良いのだ。
ほかにも、本に助けられる瞬間はいくつもある。
少し前に新しい仕事を始めた。
希望した職種とはいえわたしの働きはなかなか順調とは言えないもので、叱責されることも少なくなかった。詳細は割愛する。
前向きを心がけてはいるが憂鬱でないと言えば、嘘になる。というか、正直かなり憂鬱だ。以前友人が、「給料はストレスの対価」と言っていたことを思い出す。
重い身体を引きずって、バスに乗る姿はまさにドナ・ドナ。
はじめの頃は、仕事用のノートを開いて繰り返し復習していたが、最近はそれも嫌になって本を開くようにした。
すると不思議なことに、ほんの少しだけ、気持ちが軽くなるのだ。読んだことのない本でも、読んだことのある本でも良い。別に読まなくたって良い。
けれど、小さな文庫本が手の中にあると、何故か心強い味方が寄り添ってくれているような気がしてくるのだ。
そういう理由もあって、わたしは持ち運べるサイズの紙の本が好きだったりする。
以前ツイッターで、「生ハムの原木を買えば、仕事でどんなに嫌なことがあっても、家に生ハムの原木があるんだぞと強気になれる」といったような旨のツイートがバズっていたのだが、わたしにとって本とはまさにその生ハムの原木のような力があるのだ。
これに関しては、きっと誰しもが違った生ハムの原木のような存在を持っているのだと思う。
お気に入りの本を何度も読むのも好きだけれど、はじめて読む本の1ページ目をめくる時の高揚感は言葉にできないものがある。
1ページ目をめくるわたしと、最後のページを閉じるわたしの心はどんな風に変わっているのだろう。それは読んでみないことには分からない。
だからこそ、新しい本を買った日はとてもワクワクして、幸せな気持ちになれる。
言い換えれば、まだ手のつけていない本があるとその高揚感をずっと保つことができる。(だからわたしの家にはしばしば、積読というものが存在するのだ)
本を持っている限りは、どんな退屈も、どんな憂鬱も殺してくれる。
わたしにはまだ読んでいない本がたくさんある。それはこの小さな家の中にも、そして世界にも。
だから、まだ人生に絶望している場合ではないんだよなあと呑気に思ったりする。
本はお守りである。読んでも、読まなくても、わたしにとってはずっとお守りなのだ。これはたぶん、わたしの個人的な感情だ。
きっと、人にはそれぞれ違った思いがあって、“本”は読む人の数だけ形を変える。
けれどわたしはやっぱり、わたしの作る本も誰かのお守りになれたらな、などと夢想するのだ。
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