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【短編小説】 浮遊 (1800字)

 初めに、目にし、話し、そして触れる。予感はない。やがて何か思うかもしれないし、同じ風景を眺めるかもしれない。時が来れば、止めどなく互いを認め合うかもしれない。

 音楽と共に道を行く。先の方へ向かい、肩は自然に接し、いつしか唇は結ばれる。すでに結ばれている。ただ一方の思い違いではないと、必然だと願う一人は、出会ってから初めて孤独を知る。およそ生きてきて初めて。
 それまで、「ずっと一人だった」と呪文の如く自らを励ましてきたのに、その言葉は不意の形で息を吹き込まれる。
 出会い。不思議だ。

 彼の後ろ姿を眺めるだけで、苦しくも、満ち足りてもいる。良いことかどうか、一体、彼女の人生でこの時間が何を意味するかは、当然ながら今のツグミには分からない。可憐な表情を持つ、まだ人生を十分に生きたとは言えない、頼りなげな始まりに立つ一人には。

 彼女は目にされ、話され、触れられる。
 順序は、頑なに守られる。この物語の唯一のルールだ。節制の取れたラブストーリーを語る上での、あるいは、作者の経験不足から成される夢物語を、辛うじて現実の似姿に留める為の確たるルール。

 シーン。

 街の雑多。もしくは一度通りすぎた人。それも一つの予兆だった。服の色だけ覚えていた気がする。それも今は無意識にある。人混みに溢れるというわけではない。大都市の喧騒に生きてきた人なら、通りは空いていると感じるだろうし、片田舎で世界の中心にいると感じてきた人なら、一日に現れる人の数、多元的な世界に驚くだろう。
 
 彼は自由を感じ、世界が有機的に動くと感じる。出会う前、最後の一日。始まりはいつも破滅への第一歩であるから、偶然みたいにその日を語ろう。

 今日の信号機、ツグミは漠然と前を見ていた。
 背の低いビルディング。午後からの仕事の人、スーツ姿。地味な色合い、だが、みすぼらしくない老人。

 傍らに、外見からは正体不明の人。晴れなのに傘、立派な持ち手。少し笑っている、ツグミは横目で見て、それ以上、関わらないと決める。

 物語に含まれない人。このストーリーには直接的には関与しないというだけで、実際の真相はこの僕にさえ、よく分からない。通行人が無造作に取った進路が後に続く人間の方向を定めることもある。出来事が呼び水となり、遠くのハプニングが起きるかもしれない。彼、彼女の選択が、二人の出会いを見えない場所から導いた。

 昨日の雨、傘立てから盗まれた一つ。気づき、制服の男は立ちすくむ。静観すると怒りは収まると彼は知っている。知るしかなかった、学ぶしか。やがて波は引き、男は駆け出す、近くのコンビニへと。交差点で衝突する。傘を差す若者の視界は極端に狭く、彼は前を見ようとしていなかった。

 通りに横たわる二人。一方は立ち上がり、時間を置いてもう一人も歩き出す。一切の言葉はなかった。様子を窓越しに眺める一人。濡れた彼と待ち合わせた恋人。いや、これをきっかけに本格的な恋仲になる二人。雨からの、突然の暴力からの守護神へと一歩毎に変わりゆく彼女は、ドアの外を歩き出す。

 後ろ姿を見ながらその空いた席に座る若者。彼の名前はユウヒ。そこに何かがあるかのように、しばし雨を眺めていた。
 容易には気持ちを窺い知れない表情、固定と静謐、まるで多くのざわめきが、彼を世界から隔たせている。孤立。店内の微かな音楽を両耳だけが注意深く聴く。

 店員が左肩を優しく叩くまで、ユウヒはそこにいた。ノートブックに向かっていた。何か書かなければ、いや書きたいと、浮かぶ情景を言葉に移し変える作業に従事する。
 記憶は奔出し、言葉は語られ、感情は他者と自己の間で溶け合い、虚構とリアルは絵を描き、循環する。世界を理解した初めての感覚だった。振り返るとそれは啓示だったのかもしれない。その日、その時間、瞬間には漠とした楽しみと自由しか知らなかった。

 彼がこの街に来て、その後初めて得た感慨。肩の荷が下り、腹の底の不快感は消える。人生から去った人は去ったのだし、現れ出る風景は明日にある。そう自然と願った。

 夕日が沈んだずっと後で決める。明日の昼食は公園でランチをして(近くに美味しいクロワッサンを出すベーカリーがある)、それから角にあるブックショップで小説を物色しよう。新たな物語を探すのだ。

 その前に二人は出会う。一人は髪の色に目を惹かれ、一人はその傷跡を見まいとする。瞬間が始まり、だ。

 


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