見出し画像

「書けない自分」を卒業。自己表現のためにnoteを始める

2020年ウィッシュリストを作成した。そのうちの一つが「文章で自己表現をする」、もっと具体的な行動でいうと「noteで投稿をする」だ。

僕には自分の気持ちを表現するという経験が決定的に欠落してきた。確かに仕事では報告書や説明資料という形で文章を書いてきたし、現在の地域おこし協力隊でも活動報告や方針などを当然のことながら文章として作成している。

しかし、こと「自己表現」となると、途端に脳がペンを持つ手をものすごい勢いで引き止めるのだ。

小・中・高と読書感想文は地獄だった。本はずっと好きだったから、課題図書は楽しく読めた。読んだ本が気に入れば人に知ってもらいたいという気持ちは頭の中に湧き出してきた。でも書けなかった。苦しんで苦しんだ結果、最後はあらすじ紹介文になってしまっていた。思い出したくない過去だ。

文章作成術について多くの本を出版されている山口拓郎さんが著書「9マス」で悩まず書ける文章術」において、文章を書くのが怖いという気持を「文章を書きたい気持ちにアクセルを踏みながら、同時にブレーキも踏んでいたのです」と表現していた。自分にとってこれ以上ないほどの格言だ。

ではなぜブレーキをかけていたのか。分解してみると自分の場合は大きくふたつに別れると思っている。

ひとつ目は、これを書いたらヘンだと思われる、あるいは嫌われるのではないかという感情の存在だ。まぁ本当あるあるだけど、とにかくこれは大きい。僕も例に漏れず日本人特有の同調圧力の世界で生きてきたし、その精神は心に深く刻まれている。

ふたつ目は、文章力も創作力もない自分が書いた文章なんて恥ずかしくで公開できない、しょうもない恥ずかしさによる自己抑制だ。

日常的に書いている人からしたらハナクソみたいな悩みだろうが、少なくとも僕にとっては深刻な悩みであることは間違いないし、きっと日本中には同じように書けない悩みを抱えている同士達は多いと思う。

ここから脱却して、今日やっと「note書くぞ!」となれたのはtwitterの効果が大きい。僕は1年半前に現職「地域おこし協力隊」という仕事を始め、その後しばらくして情報発信の必要性からtwitterを始めた。最初は、観光情報やイベント情報といった単なる情報「提供」をしていたのだが、次第に自分の考えや好きなものを140字で「発信」できるようになってきたのである。

やれば分かるけど自分の意見をネットで主張したところで誰かからヘンと思われようが自分の生活が脅かされることなど無いと知ったし、恥ずかしさなど対して無いとも知った。(当然だ)

それから文章力が無いから、文才が無いから書けないという悩み(言い訳)も改めて分解してみればナンセンスだと知る。世間では、文章力というのは先天的才能だと言われていて、僕も間違いなくそうだと思っているタチだ。

しかし、この「才能」が無ければやっていけない世界というのはアートとして文章、つまり文学の世界だ。車の運転に例えれば、F1ドライバーだとしよう。全ての人がF1ドライバーになる必要などなく、普通の人は乗用車で安全に自分と同乗者を目的に運べればそれでいいのだ。

つまり僕は乗用車街乗りレベルを習得するのに才能が必要かどうかで悩んでいたのだと自己理解した。おいおい、そこに才能は必要なかろう。

そんなこんなで自己表現することへの悩みは一応解消された。

で、書こうと決めたのが年明け早々だった。まぁ自分の悪い癖が働き、ネタはどうするだのもう少し練習してからだのとなかなか始められなかった。

そんな僕に最後の後押しをくれたのがnote運営さんそのものである。

「創作活動でもっとも大事なこと」を、もし、まだ読まれていない方がいたらぜひ読んでほしい。あぁ、そうだ。自分は書きたかったんだ。書いてもいいんだ。そう思わせてくれるコトバが詰まっている。

駄目押しは「#note書き初め」だ。

そう、今年の抱負「noteを始める」を抱負にnoteを書けばいいではないか。ありがとうnote・・・。や、これは別にnoteさんにごますりまくってる訳でもなんでもなくて(笑)、絶妙なタイミングで書く機会と場所をいただけたことにただただ感謝。

まずはスタートを切れた。ここからは「継続」というもっともっと大変なフェーズが待っている。とにかく、書いて表現する作業を続けていこうと思う。note投稿を通じて、書けない自分とそれから同じように悩んでいる見知らぬ同士を少しでも後押しできるようなものになればいいと思う。

では同士のみなさま、ご武運を。

いただいたサポートは農地開拓や古民家活用の等の活動と、インプットのための書籍に使わせていただき、お役に立てる記事執筆の糧とします。どうぞよろしくお願いいたします。