【短編小説】 或る街の群青 (3700字)
車の往来は多い。街が起き出した。いつも日中は混まない交差点。右折を待つ車両のちょっとした渋滞。脇には林があった。
そこで生きる動物はいない。道に人はいた。林間を眺める。朝方の仄かな暗闇がある。
昨日は朝、起きなかった。その時間を今日は歩いた。
止まる車、助手席の少女を見つめる。古い型のスカイブルーの車、ホンダの紋章があった。古着好きが好きそうな車。前時代的で、土臭くて、洗練されていない、洗練。
その車体を見れば、車内を見ることになる。僕が見ている間は彼女はこちらを見ない。人生はそんなものだ、多大な迷惑だろう。運転席には男性。彼は僕を見た。背景を見つめたのかもしれない。向こうで生きる何かを。
もうすぐだ、と彼は言う。
助手席は反応しない。連れ去られると諦めている。もう少し、静かにしていればいい、と彼は伝える。彼女は一瞬こちらを見た。表情は、形容できない。窓の向こう。
そして、車は行く。
僕は微かに笑った。
どこかに向かう一日になる気がした。
車内。隣は何も言わない。言葉を発さなかった。私が伝える言葉もない。だが、これからどれだけの期間、同乗するかも分からない。張り詰めた空気ではない。会話は許されるだろう。
「どうだ調子」と私は言った。
声は怯えが混じっていた。ほんの少しの怯えだ。
無視を恐れた。
「いじょう」と娘は言う。
時が経過してそれだけの声。
異常、そして以上だろうか。
私が出来ること。こうして運転する。前方に同じ景色が広がる筈だった。寄り添うことさえ困難に思える。
やがて、助手席から降りる。
少し思い出す。冷たい声色だった。
ただ、私を遠ざけたいだけか。
娘は列車に乗れなくなった。
車内で対人間のトラブルがあった、と妻は言った。内容について聞かなかった。それで無関心だと思われただろう。何が起きたかは想像の範囲内だ。
学校まで車で私が送ることになった。それくらいは、と妻は言いたげだった。直接にこそ、激しい言葉は言わないが。私は普段、多く外出しない。
「お気に入りに乗れるね」と妻は言った。
会話は成立しただろうか。一方の通告、だった。世の人間が配偶者とどれだけ言葉を交わすだろう。伝わることはあるだろうか。私は理解を前提に社会と通じる筈なのに、何一つ分かり合えた気はしない。
翌日、信号は赤だった。いつもの気もする。
少し、雨が降り出した。
柔らかな滴をワイパーがはねる。
「止まって」と娘が言う。
どうした、と言わなかった。声は切迫していた。隠そうともしなかった。
左折して、路辺に寄せた。信号に向けて、と彼女は言った。どこかから逃げたいわけではないのだろう、と推測した。
彼女は言う。「知ってる?」
「何を?」
「事件」
昨日、この町で殺人事件があった。被害者は無職の若い男性。そのニュースに触れた時、様々な感情と思考に襲われた。そして、見過ごした。一つの不幸だと。
「殺人?」と私は問い返す。
彼女は言葉を返さない。
「大丈夫か?」と私は言う。
「覚えてる?」
何を、とは言わない。もう間抜けな声を聞きたくなかった。黙って答えを待つ。比較的すぐだった。
「昨日の、通行人」
何で、娘はこう婉曲に話すのだろうか。時間がある。経っていく。だが、聞いていた。聞かざるを得なかった。この車を発進させるまでは。
「坊主頭の人、そこの交差点で」
覚えていた。不健康に痩せていた。透き通った目をした。社会の外から私を眺めた。そう思ったのを覚えていた。
「背が高かった」
彼女は頷いた。だが、一つの疑問。
「なぜ分かった」
顔写真を見なかった。
「SNS」と簡潔な返答。
常識なのだろう。
そこから、私たちは動けなかった。弔いの意味を知らない。ここを後にすれば、忘れることを意味するだろう。それで誰も困らなかったとしても、当然だとして。
たとえ、被害者である本人が何を望まなくても留まるべきだった。たしかに、少しの時でも彼は隣人だった。
加害者は捕まっていた。
「気をつけろよ」と私は言う。
父親の声だ。
娘は少しこちらを見て、目を伏せて笑った。
そう伝わった。それから車は発進した。両者の合意があった。その後、どこか落ち着きのない感情が身の裡に滞在するのを、私は感じていた。車中でそれは解決する。
娘はきっと私よりも人間を知り、人生の意味を見つけ、多くの瞬間を生きるのだ。こちらを見て物語る一連の表情から思い至った。あるいは、現時点でも彼女は私の先を行く。平たく言えば目上の人間への嫉妬だった。
如何に多くを持とうが私の人生は少なかった。
朝方の部屋で、彼を知る。昨日会った人だった。もう、会ったことになった。彼の文章を読んだ。匿名だったけど何故か、特定された。誰が彼を、この文章に結びつけたかは分からない。だけど真実だとするのなら、きっと、生前を知っている一人だった。そうあって欲しい。
もういない彼。撲殺された。昨日までの彼は、主に映画についての文章をネットに残していた。ブログ。多分、つかの間の息抜きだったかもしれない。たまに残酷な、この世界での。
私は「ショーシャンクの空に」を二回、見ていた。一回目は殆ど覚えていない。「この世は監獄なんだ」と父は言った。それを覚えている。
父の薦めで二人で見ていた。結婚生活は、と含みを持たせた発言。下らない、とその時思ったし、今もそう思う。だけど、表面上は波風立てなくても、深い場所で色々あるのが社会の常識だってことも、少しずつ分かってきた。
ブログの彼は言う。
「あれから、僕はずっと、あのカラスの年配の方の気持ちが分かってきたんだ。世の中のスピードに付いていけず、信頼する友もいなく、愛情を注ぎ込める対象もいない。まるで悪夢じゃないか。遠ざかる鳥をどこまで見送ればいいかは、僕には残念だけど、分からない。」
彼は自殺したかったんだろう。それでも最後は異なる形だった。そんなこと望んでいなくても。望むわけがない。
「皆がどこかに囚われていると考えると、少し楽になる、ごめんね嫌な奴で。だけど、その壁は誰にも見えていて、皆諦めている。それも一つの幸福の形だと思うよ。
だけど、僕はそれじゃ飽き足らない。どうも、上手く呼吸ができなくなる。生きてて、皆はどんな気持ちなんだろう、って思う。それを記す術はどうやらないのかも。」
「壁を見て一日が過ぎる。この先は見えない。どこにだって生まれる。気付いたよ、僕が生む壁だ。」
徐々に明るさを増す部屋。私は、忘れていた気持ちを思い出す。彼が記した記事の薦めでアジカンを聴いている。古くても今の音楽だ。
「今度、雨が降ったとき、暫く雨の冷たさを感じてみよう。僕らは変わらないことを確かめるために。
人生において意思をさ、大事な意思を保ち続ける方法を知っているかい。自分だけの風景を見るための。そうだ、誰かが取り扱い説明書を書いてくれるだろう。世界が切望しているのだから。僕はずっと夢見てる。あるいは、皆は手にした、満ち足りた幸福を知るのかもしれない。」
「僕だって、変わらずにずっと続けていきたいことはある。誰の意見に耳を傾けず、愚直に穴を堀続ければ、と思う。
だけどね、厄介なことに僕の仕事は人の意見に耳を傾けることなんだよ。だから、そう遠くまではいけない。孤独は怖いし。だから、一人きりで戦うのは死んだ後にする。」
「けどね。思うんだよ。僕ら一つの監獄にいるのなら、連帯もできる。一緒にビールを飲むこともできるし、つかの間の楽しみも、一緒に勉強だってできる。
僕は酷い暴力を受けていないし、人間の尊厳も自由も、目に見える形では害されていない。ティムみたいにはね。だから、こんな悠長なこと言えるのかも。だけどね、僕ら、手を握れなくても、雨を感じることはできる。」
「それが素晴らしさなんだよ。雨に打たれ、音を聴き、それが無理なら、心の内で空を見渡す。同じ世界にいるなんて、本当は嫌だけど、僕らは同じ世界にいる。これは真実と言える、今日の僕には。
君は呆れるかもしれない。今さら、こんなこと言うなんて。」
彼はカラスの老人でもあり、ティムロビンスでもあった。殺された人とは呼ばなくていい。生きていたんだ。
彼のネバーランドはきっと、この町だった。私が近い将来、後にする場所。小さくつまらない。だけど、彼はここでモーガンフリーマンと信頼し合って過ごせばよかった。
海辺で水平線を見つめ、どんな波音を聞いただろう。人生の物語を語る日々。相手は私でもおかしくなかった。本当に面白い映画がここで上映されるなら。
いつかの彼は言う。
「朝に思う。夜を乗り越えてきたって。長い長い、長い、夜だ。そこでは苦しみしかなかった。だけど今は、どうだ。町を歩き、息をして、遠くを眺める。目に写るだけの遠くだ。人を眺め、その人の物語に思いを馳せることも出来る。素晴らしいじゃないか。」
私は彼を見ただろうし、
その時の寂しげな表情が悲しく見えた。
どういう形でも、出会えて、また遠ざかっていく。
「今日は見果てぬ空だ。」
2年前とそれは変化しただろう。けど、声さえ直接聞こえる。ここに壁なんてないみたいに。彼がずっと眺めて、越えたいと念じて、終わりにはそんな物なかったと分かった壁は、どこにもない。
そう信じたい。
信じて行く。
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