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【短編小説】 君を知らずに雨が降る (3500字)

 今日、命が消えた。そんな気がした。珍しく着信があった。かけてきた人とはまだ話していない。きっと悪い知らせを囁く人、重要で辛い役回りだ。幾分、事務的な態度だろう。
 虫の知らせは杞憂ではない。また、携帯が震える。君からではない。望んだ結果は、愚かにも現れない。 

 君との便りは一昨日、珍しく途絶えた。頻繁な交流ではないが、一度話せば、僕らの間はそう簡単に途切れない。しかし、不自然に潰えた。昨日、不協和音が脳裏に響く瞬間だった。どこかで存在が消えたと風が知らせた。愛想を尽かしたならそれでいいと、無事を心底から願った。

 不思議だ、君とは霊的な繋がりがあった。見えない振動。

 ふと考えると便りが届いた。胸騒ぎをすれば見えぬ苦境にいた。連絡すれば丁度話したかったと返事がした。そして今、灯が消えていた。およそ孤独を感じた最近の日々だったかもしれない。だから連絡はあったのだろう。

 僕も君も、誰も。疑うまでもなく、自分自身が違うと気づいたのだ。目を瞑り、決定的な橋を渡った。誰も止める者はいなかった。僕さえ予兆を感じず、知ったところで本気だとさえ思わない。
 誰も真剣に検討しないと君は嘆いただろうか。

 でもそれは、君にしか見えない。人生の苦しみであり、喜びだ。秘匿された風景。頭の中の、広く長い橋梁。対岸への準備はなく、留まることも許されない。
 理由もなく生きない君。理由を言わず死んでしまう。

 一夜過ごして、君の死は確実となった。この概念さえ僕は憎んだ。昨日までと一つも僕は変わらない。思いは強くも弱くもならない。平静を保つわけでもなく、沈黙に縛られている。それはいかにも僕が鈍感で、愚鈍だからだろうか。
 
 時に、人は孤独を愛し、恐れる。それも各人の性格によると一蹴する事は可能だが。変わらず自分自身を見た。時間は早まらず、遅まることもない。終着を意識した時間の一人相撲。
 
 いつか、君は笑った。安易な言葉は掛けない。生きている間、君は何も決めつけはしなかった。世の流動に生きる実践を体現したのだろう。僕は停まって、言葉で生を留めていた。

 人に囲まれ、もしくは良好な人間関係を築きながら、不満も不安も垣間見せない表情だった。遠くから映る姿は自然に歩く。日々を過ごし、時々、こちらを横目で見た。あの背中をいつも僕は見つめた。
 
 思い出される今日の日。秋に突然、消えた影。

 この瞬間は君にとっては偶然ではなく、必然だったのかもしれない。道端の花が枯れるのを一瞥した天然だった。死の知らせを聴き直ぐに思った。終末は記憶をより堅固にするライフイベントに過ぎない。

 君は何を思うだろう、僕が思いを馳せることで。生きる上で、いつしか絶対の無理解と、偏見と侮蔑の眼差しを感じていたか。これは僕自身の感慨だった。
 君を分からない。君の苦しみを知らない。どれだけ、苦しんだのかさえ。いたって嬉しそうに世界を愛していたのか。君以外、全ての有象無象を。
 理由を言わず生きた人。理由もなく死んでしまった。

 前に言っていた。
「俺は謎ですよ。誰にとってもクエスチョンマークでいたい」
「意味不明の存在だと、排斥されるかもしれない」
 彼は笑った。
「好きにしてください。ご自由に」
「エックスと呼ぼうか?」
「君の名前で僕を呼んで」
 君の薦めで見た映画だった。
 変わらず僕は人だろう。

「存在に重さはない。耐えがたくもないし。誰も同じだろう。名前さえ要らない。だから合意の響きだけでいい」
 そう僕は言った。
「文学的」だと彼は言う。
「引用だよ」と僕は呟いた。

 肩を並べた時代。重要な事として一度も「さよなら」とだけ言わなかった。「また今度」と言葉を連ねた。友人として最低限の務めだった。見放さない。そんな事を言葉に意識するのは些か僕自身の神経質だろう。
 
 確かさは裡にあった。君と離れると姿が消えた気がした。人生を断筆し、今日が終わる。先を描く光はない。目の前からいなくなると、存在さえ手に届かなかったと自戒し、確かめる間もなく幻となるだろう。

 夢を見る。だから、ある意味、僕は何度、喪失を経験したかは数えられない。他に存在は皆無だった。君の生死。遠ざけたい事実は常に胸にあった。

 ここでは君に名前を与えたい。もうない事を確かめるためではなく、生きたことを精緻に描写するために。
 彼は歩という。呼びやすい名前。

 彼はよく散歩した。地下鉄で何駅かある区間も徒歩で移動した。夜も、朝も。連れ立って歩いた早朝もあった。「時間の限り、歩く」とは彼の弁だ。
 
 飲み会の夜の一次会が終わり、各々が駅に向かう、あるいは次の居酒屋に移動する前に罪のない立ち話をしていた際、歩は別方向に歩を向けた。見ていて気づいたが声を掛けなかった。酒に酔ったせいだった。

「歩、お前どこ行くの?」
 グループのリーダー格の男が声を掛けた。「ラーメン屋に行く」と答えた。普段、歩は集団でいても単独行動をしない人だった。「どうしても食べたくなった」と笑った。
「一人で行くなよ、行きたい人」と男は場に訊ねた。ほぼ全員が手を上げた。張り切って拳を天空に突いた。酔ってたせいにする。

 煮干しラーメンの不味さは忘れない。自分の舌はイカれてしまったのだろうか。スープは辛く、麺は固すぎた。深夜の店内で、一同は厳かに箸を進めた。感想を聞いていると概ね好評だった。
 店を出た後、「遠すぎやろ」と声がした。同調する幾つかの相づち。真正の本音にも聞こえた。つまるところ、それが僕らの冗談だった。

 何人かは明日に消えていった。「またな」

 終電は過ぎ、帰れない人達は歩の住居に向かった。6人程だった。
「また遠いんでしょ、歩くんの家」
「朝には着くよ」
「冗談でしょ」
 それは冗談だった。僕は繁華街から彼の家に歩いたことがある。それほど遠くない。あの時、僕らが熱心に話したからかもしれない。出会って間もなかった。

 夜、道中で僕らは、普段話さないことを語った。飲みの席でも言わない事柄。普段は遠くにいても、これでも僕らは親密だった。お互いの恋人を知っていたし、応援もした。恋人がない人同士、クリスマスのイルミネーションに出掛けたりもした。漫然と時を過ごした夜もあった。

 互いの知らない部分は多く、今の時間を過ごした。何をどう感じたかだけで、全ては良かったのだ。偶然みたいに隣にいた、愉快な季節だった。

 支えながら歩いた。体だけではなく、胸の内の明かりを消さないように。歩くと次第に、家族への文句と労りの言葉を同時に吐く人がいた。黒と白、光と闇。中々出来る芸当じゃない。

 大きすぎて抱えられない、夢の重さに悩む人がいた。「どうせなら、今人生が終われば幸せなのに」とその人は言った。「それだと、少しは美しい」と。「映画でも見よう」とボソッと歩は言う。
 先頭の声だ。彼なりの慰めだったのかもしれない。

 恋が上手くいかない人は自分をよほど責めていた。そして「何もかも失敗に終わる。全て、全部」と嘯いた。ひそかに僕が憧れ続けた人だった。誰が隣に歩いていても不思議じゃない。
 全てが上手くいく様子の日常。完璧な構図の写真。僕さえ掛ける言葉はなかった。

 それから、僕は黙っていた。言葉の、というより、自分自身の無力や無能を思いながら。明かす悩みさえなかった。

 夜に吐く息は自らを軽くする。それでも僕らは連帯したのだろう。独白に対して適当な言葉を返せなくても良かった。きっと胸に言葉と思いはあった。だが、誰も傷つかないよう口を閉ざした。
 何かを信じ、大切を保護していた。
 僕に限って言えば、宿った思いは「現在を足蹴にしたとして、未来を踏みにじらないこと」だった。消えぬ眼差しは抽象的だろう。

「映画楽しみだね」僕らの声だった。

 歩の部屋にいた。映画を見た。反発する関係をやがて二人は受け入れる。
「女の友情は固いな」と彼は言った。
「なにそれ、皮肉?」
「どうとでも」
「あしらうな!」
 二人は仲が良かった。僕の関することではない、とずっと思いたかった。

 皆は聞き流しただろうか。歩は「友情」と言った。それは僕らの、この集まりを言い当てているだろうか。朝に集う夜明けの時。二本目の映画を見るとはなしに考えた。この友情、大人でも、子供でもない交流。通過儀礼を経て、やがて大人になるのだろう。友を失うこと。

 その夜、結末に辿り着いたのを覚えている。当座の真実。
 僕は、彼の最後を見て、感じて、記すのだと。愛の為せる業だった。

 牛丼を食べに町に出た。もう文句を言う人はいなかった。
 朝は一度きりだ。分かっていた。
 今は変わらぬ場所にいる。
 悲劇でも喜劇でもない人生を行きたい。


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