Hiroshi Hashimoto

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マガジン

  • 53歳日誌

    今年はよくバイクに乗っています。

  • 52歳日誌

    誕生日が来るまで、「53歳になるのかあ」と思い込んでいた52歳の日誌。

  • 50歳日誌

    50歳の自分は何を考えるのか。

  • 走りながら考える

    脚で、チャリで、スーパーカブで、「走りながら」考える雑感。飲み会では必ず先に寝てしまいます。

最近の記事

モスタルのMade in Japan・前編

3月に結婚した、奥さんの娘が今度引っ越しをするという。 「家を出た時に借りてた、ハッシーの炊飯器を返しにきたよ」という。1990年製、象印の三合炊き。一人暮らし用の炊飯器。 ボクが大学に合格した時に、母の友達が「ヒロシくんの合格祝いに」と買ってくれたものだ。 久しぶりの再会。だいぶ日焼けしてプラスチックも劣化しているけど、まだまだ動きそうだ。 この時代のMade in Japanは本当によくできている。そして壊れない。ちょうど「デザイン」がもてはやされて、プロダクトとしても

    • 30年目、夏の耐久<SUGO 6時間耐久>

      久々に、「飛び込み前転」をしました。あんまりよく覚えていないんだけど、バイクの壊れ方やヘルメットの傷の角度から推測すると、「ハイサイド」。3位入賞のチェッカーまであと15分のところだった。 第6スティント、残り1時間がボクの2回目の出番。アンカーだ。我々は4番グリッドからのスタートで、順調に周回を重ねていた。めちゃ速い第1ライダー・出原さんは順調だったし、「なかなかバイクに慣れないんだよねえ」と言っていた第2ライダー・タタラッチも慣れてきたようで、特に2回目はキレイに乗れて

      • 草原の道 <星空とシャーマンの話編>

        モンゴルツーリングに行ってからもう1年経ってしまう、早いなあ。書き残していたことがあって気になっていたので、メモを見ながら思い出してみる。 きっともう、いまごろモンゴルは草原に花が咲き乱れている頃だろう。ツーリストキャンプの犬たちは大きくなったかな、今年も元気に走りまわっているんだろうか。あのツアーにガイドの助っ人としてバイトで来ていた男の子、他の4人のスタッフに比べたらやけに若くておとなしいが賢そうな子だった。(国の?)電力会社に就職するかもと言っていたけど、気が変わって

        • 自己流マラソンの備忘録・後編

          2022年12月の湘南国際マラソンに出るための自己流準備、「チャリで太ももを鍛える」計画は予定通り進んだ。2週間、雨の日を除いて日暮れちかくに鶴見川沿い10キロを往復(20キロ)した。そうだそうだ、高校に通学していた頃の時速20キロ前後の風景の流れ方を思い出した。川沿いを走るわけだし、これはこれで気分がいい。 最初は疲れてしまって、戻るともう仕事にならないのだが、2〜3日で慣れる。 「筋肉つけたいの? だったらプロテイン飲んだほうがいいって」 スポーツものしり博士の奥さんに

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        • 53歳日誌
          2本
        • 52歳日誌
          11本
        • 50歳日誌
          12本
        • 走りながら考える
          2本

        記事

          自己流マラソンの備忘録・前編

          ボクはたいていのことは自己流である。というか、自己流が好きだ。 スクールのような場所で上手い人やコーチから教わっても、ボクはたいてい定着しない。次回行くと間違いなく忘れている。 スクールに行き始めて7、8年経つテニスがいい例だ。 「ハシモトさん、なーんでそうなの!? この間教えたでしょ!」 と毎回怒られる。特に球技は、おそらく全く「向いていない」ので、言われたことをすぐにトレースできない。同じクラスの人たちが2、3回やると上手くできることが、できない。だからイヤになってしま

          自己流マラソンの備忘録・前編

          14年後の「つながり」

          人んちの子どもの成長というのは実にはやい。 2010年に妹の子ども、つまり甥っ子が生まれた。きのうで14歳。 以下に載せるのはその直後に書いた「つながり」という文章。あのあと、妹夫婦はボクの実家の近くに家を建て、甥っ子姪っ子はうちの両親が面倒を見ることになる。 が、もう甥っ子は14歳で、声変わりもしかかっている。あいかわらず口うるさい婆ちゃん(=ボクの母親)とは案の定、噛み合ってないらしく、実家にも寄りつかないらしい。いま中学2年だけど、勉強はあまりせず部活のテニスに夢中

          14年後の「つながり」

          1月16日の雲

          1994年という年は24歳で厄年だった。9月、ある雨の日にバイクでクルマに正面衝突して右大腿骨骨折。9月からの1ヶ月はベッドから動けず、飯もウンコもベッドの上だった。2ヶ月弱の入院が終わったらすっかり秋で、その年いっぱいは松葉杖を突いて過ごした。 当時は内装職人のような仕事をしていたんだけど、1995年の正月明けに当時行ってた会社の社長に呼ばれた。やっと重いものも持てるようになり、人並みに仕事ができるように戻った頃だ。 「橋本くん、17日に広島の現場に行くことになったからよ

          草原の道 <どろんこ七転八起編>

          今回のモンゴルツアー参加者はボクたち夫婦のほかに3人。初心者の女性Tさん、経験者の男性YさんとHさん。昔同じ会社にいたというバイク仲間。Yさんはかなりオフロード好きで日本ではWR450含めて3台持っているそうで上級者だ。 うちの奥さんと合わせて2人初心者がいるので、ダートに入るとガイド兄弟もかなり慎重に走ってくれた。弟氏のYAMAHA WR450が先頭で、お兄さんのKTMが最後を走る。最後を走るのは、ツーリングの隊列の中で何かあったらすぐに駆け寄って対応する「しんがり」の役

          草原の道 <どろんこ七転八起編>

          草原の道 <セローで出発編>

          50年前に司馬遼太郎がアントノフから見た風景と、ほとんど変わっていないだろう。もくもくとした雲と、なだらかな(というかおおらかな)大地が夕日に照らされていた。雨雲も混じっているように見える。ゆっくり降下していく飛行機から見た景色は、20年ほど前に初めてのシルクロードツーリングで敦煌の空港に降りる時とおなじような気分にさせた。 「こんな何もないところに空港あるのかよ。まさか草むらに着陸するんじゃないよね?」 気候が狂いまくってる東京は35℃ぐらいあったけどウランバートルはど

          草原の道 <セローで出発編>

          草原の道 <きっかけ編>

          7月の末、モンゴルの草原を走るバイクツーリングに奥さんと参加した。 うちの奥さんとはここ数年、「いつかモンゴルに行く」が合言葉のようになっていたんだけれども、コロナ禍がやっと収束した今年の春、「ひょっとしてこの夏行けるんじゃない?」とどちらからともなく言い出した。彼女は馬に乗るツアーがよかったみたいだけど、数年前にバイクの免許もとったし、バイクツアーのほうが移動距離も長いから、いろんな景色を見られるんじゃないか。ということでバイクのツアーを推した。 少々高かったけれども、

          草原の道 <きっかけ編>

          29年目、夏の耐久

          8月13日日曜日。 パエリアレーシング29年目の夏は、SUGOミニバイク6時間耐久。大方の予報が外れ、台風由来の雨雲もなぜか、きわどくすり抜けて6時間ずっとドライコンディションのレースだった。 久しぶりの酷暑の中のレースで、体はだいぶキツかったんだけども、トラブルもなく3人で順調に周回を重ね、5時間経過時点でクラス首位。2位との間に約2ラップ差をつけていた。 菅生の上空をかすめる予想だった雨雲が、どうやらそれたらしいという情報を確認してから、5時間過ぎたところで最後のバト

          29年目、夏の耐久

          むくげの木

          今日は奥さんも飲み会だし娘も不在なので、庭で「ひとり焼肉」。ニオイも残らないし油も飛ばないから庭でやるのが一番。 夜風に吹かれて肉を焼きながら、ここ数日、白い花が咲き乱れてる、奥さん自慢の木槿(むくげ)の木を眺めていたら、突然25年前の記憶が蘇ってきた。 「あーそうだ!あれは木槿(むくげ)だったんだ!」 大学の同期のT。卒業してから、お互い夜が遅い仕事に就いた。28歳ぐらいの時だったか、たまたまボクが引っ越して家が近くになったもんだから、夜中1時とか2時とか、仕事が片付

          M社長とフェラーリ

          今、関わっているある仕事で、一緒に働いていたバイトの学生くんたちが就職で巣立っていった。金融系に、有名メーカーに、船会社、そうそうたる企業への就職。みんなすごいなあと思う。 息子や娘ぐらいの年齢の彼らに「橋本さんは、どんな新入社員だったんですか?」と聞かれたらいやだなあ、めんどくさいなあ、彼らの参考になる話ができないなあと思いつつも、そういう質問はなかったので……よかった。が、ちゃんと「聞いても無駄な大人」に見えていたのかもしれないない(笑)。 「専攻していた『建築』がい

          M社長とフェラーリ

          最後の山

          8月7日、大詰めを迎えたオリンピックのニュースと対になっていたのは、デルタ株による感染者の増加と、それに伴う自宅療養者増加のニュースだった。 8月7日(土)発症9日目 04:00 体温:38.0度 10:00 体温:38.0度 酸素飽和度:96% 18:00 体温:36.7度 酸素飽和度:95% 23:00 体温:37.7度 アセトアミノフェンの多く含まれた処方薬がもらえたので、それを飲むと熱は下がり始めた。自宅療養の終了予定は明日の日曜日、発症から10日後または下熱から

          救急車

          発症から10日後、または解熱後72時間が経てば療養期間終了となる。ボクの発症は7/29(木)だったので、8/8(日)いっぱいとなるらしい。 結局、保健所から聞き取りの連絡が来たのは、陽性が判明した3日後、8/4(水)だった。いつから発症したか、感染の心当たりはあるかなどのヒアリングだった。その時に10日間療養だということを聞いた。 同じ日に家族にも連絡があって、すぐにPCR検査に行くことになった。彼女たちはちゃんと病院の発熱外来に行った。結果、奥さんも娘も陰性。 なんと

          2つめの山

          感染判明までが「1つめの山」だとすると、ここまではまあ、ちょっと辛めの風邪かなあというくらいだった。これで陽性なんだ、そんなふうに思ってしまった。でもそれは甘かった。 ここから数日、37度前後の熱が上がったり下がったり。8月2日(月)からが「2つめの山」だったんだなと思う。熱は高くないのに、あいかわらず悪寒はひどくなる一方。 その8月2日の月曜日に、保健所から電話があった。陽性が判明した次の日だ。といっても聞き取りとかではなく、いま患者が多すぎて聞き取り調査のタイミングが