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1月16日の雲

1994年という年は24歳で厄年だった。9月、ある雨の日にバイクでクルマに正面衝突して右大腿骨骨折。9月からの1ヶ月はベッドから動けず、飯もウンコもベッドの上だった。2ヶ月弱の入院が終わったらすっかり秋で、その年いっぱいは松葉杖を突いて過ごした。

当時は内装職人のような仕事をしていたんだけど、1995年の正月明けに当時行ってた会社の社長に呼ばれた。やっと重いものも持てるようになり、人並みに仕事ができるように戻った頃だ。
「橋本くん、17日に広島の現場に行くことになったからよろしく。1泊か2泊、什器を2つ運ばなくちゃいけないから前日にクルマで行くよ。おれとIと君と3人でホーミーで行くから休みの日で悪いんだけど、16日の朝10時に吉川集合な。」
「わかりました」

予定どおり、1月16日の10時に出発して三郷インターから高速に乗った。当時はクルマの免許を持っていなかったので、ボクはひたすら後部座席から外を見ているだけの9時間の旅。だけど運転しなくて楽だし、そういうのはキライではなかった。

静岡に入り茶畑が目立つようになってきたあたりのSAで昼飯。今考えると牧之原SAだったんではないかと思う。楊枝をくわえた社長がクルマに戻ると、しれっとそのまま助手席に座り、運転手がIさんに変わった。Iさんのほうが社長より運転がうまい、というか「なめらか」だ。トルコンの気持ちが分かる人とでも言おうか…。

社長とIさんはそんなに仲良くもないしIさんはそもそも無口だ。車内の会話はほぼない。若干の気まずさを後部座席のボクにも漂わせながら、ひたすらFMラジオが響いていた。

午後3時とか4時ぐらいだろうか、おそらく浜松近辺を走っている時だろう。ボクの記憶ではTOKYO FM系列だったと思うんだけれども、福山雅治の番組を聴いている時だった。「福山雅治ってなんか『原稿棒読み』だよな」と思いながら窓の外を見ていたら、冬の真っ青な空に一本の雲が見えた。南の空を見ていたはずだから、東から西へのびる一本の雲。飛行機雲が風に流されて、でかい一本の雲に見える時もよくあるんだけれども、なんだかそれとは違うロール状の雲だった。
「これって地震雲じゃないよね?」
今でも、そういう雲を見かけると必ず「地震雲か?」と考える癖があるんだけれども、阪神大震災の前の日にそう思ったのだ。

だけどこのことはすっかり忘れていて、しばらく後になって思い出した。
とはいえ人間の記憶というのはかなり曖昧なもの。1月16日が日曜日だったと思っていたのは記憶違いで、成人の日が絡んだ三連休の最終日の月曜だった。そして、月曜日の夕方に福山雅治が出ていたラジオ番組というのはどれだけネットを検索しても出てこない。ひょっとしたら、この地震雲の記憶も、自分が後に脳内で捏造した記憶なんだろうか…と時々思ったりもする。

夕方、名神高速からどこを経由したのかわからないんだけれども、中国道を通って広島に向かった。2回目の休憩は大阪〜兵庫までの間のどこかだった。もう日が暮れていて、連休を利用して長野あたりにスキーに行った帰りらしい、キャリアにスキーを積んだクルマでごったがえしていた。よくある普通の連休最終日の光景だった。Iさんの「なめらか運転」のせいで車中で居眠りした後だったせいか、トイレに行ったらえらく寒かった記憶がある。

広島に着いたのが午後7時か8時で、現場で什器を降ろし終えると、現地の担当者が「まあ、あとは明日にしてメシ行きましょうよ」と言って、広島焼きの店に連れて行ってくれた。「広島焼きっていうのは、こう焼くんですよ、ボクは大阪人なんですけどね。」という彼のパフォーマンスを見ながらビールを飲んだら、例によってすぐに酔っ払った。広島焼きを食い終わる頃にはすっかり出来上がっていて、ボク的には千鳥足でホテルに帰った。それが0時頃か。

翌朝、朝飯に降りていったら、なんだか食堂全体がザワついている。
「おはようございます」
「大丈夫だった?」
一緒のホテルに泊まっていた、顔見知りの職人に聞かれた。
「え?何がです?」
「地震だよ、今朝の。相当デカかっただろ。」

広島は震度4だったというが、体感はもっとだったようだ。ボク以外の全員が飛び起きたらしい。
「神戸ででかい地震があったみたいだよ。」

「いやー、きのう現場に降ろした什器、倒れてるかもしれないな」
Iさんが心配そうに言った。
「えー、そんなに揺れたんですか?」
テレビを見ると、例の神戸の空撮の映像が流れていた。

昨夜の広島焼きを焼いてくれた担当者は、実家が大阪らしく「ちょっと実家に電話してきます」と言って席を立った。
携帯なんて社長しか持っていなかった時代だし、ネットもまだ全然一般的ではなく速報性も全くなかった。何が起きてるのかはテレビかラジオでしかわからなかった。

とりあえずホテルからすぐの現場で仕事をし始めたんだけれども、職人さんが持ってきていたラジオからはずっと緊迫した情報が流れていた。
10時ぐらいになると「号外が配られたぞ」といって社長が号外をもらってきた。「犠牲者●千人か」という見出しだったような気がする(が定かではない)。でも、その数字を覗きこんで、現場のみんなは青ざめた。そんな被害が…。

午後になって作業も目処がついてきた頃、社長は帰りの心配をしていた。
「もうクルマじゃ帰れないな、神戸がダメだったら東京まで何日かかるかわからない。飛行機も広島空港発はもう満席で1席しかとれなかった。Iは明日、銀座の現場があるから広島発の飛行機は彼に乗ってもらう。おれはホーミーでなんとか帰る。橋本くんは悪いんだけど、フェリーで松山まで行って、明日の朝の飛行機で東京に帰ってくれ。松山からのチケットは明日の便なら大丈夫みたいだ。」

「松山ってどこだ?」っていう知識しかなかったボクだが、翌朝フェリーに乗って松山に渡った。なんだかフェリーの外の景色が灰色だった記憶がある。

きのう広島に来る途中で寄ったサービスエリアのあたりも被害があったんだろうか。あそこにいた人の中でも神戸に帰って被害にあった人がいるかもしれない。つい数時間前まで「普通の」「日常」だったのに…。そう考えると他人事とは思えなかった。

それが29年前の今日の記憶。

(写真はイメージです。が、記憶の中の雲はこんなかんじ。)

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