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母の旅立ちへの道 【母の視点での道 総括】第23回/全35回

この記事は母が旅立つまでの道のり、私が母を見送るまでの道のりを綴ったものです。

母の看取りを終えて、ここまでの道のりを振り返ってみる。今回は母の視点を中心にしてみたいと思う。


【治療をしないという決断、その後の母の言動】

2023年末に母はガンの治療をしないという事を私に伝えた後、家の事全般の事の説明をし始めた。当初私は母上の最期を想像もしたくないので、ロクに話も聞かなかったがそれでも母はすべての説明をした。聞く気が無くても何となくでも伝わればいいという想いだったと後に病室のベッドで話してくれた。

とは言え私も覚悟を決めた後は家の事全般をすべて引き継げるように努力はした。聞き逃しや理解していない事が多く、入院してからも母に何度も家の中の事を聞いた。それでも母は丁寧に「あそこにあるよ」「それはこうすればいい」と全部教えてくれた。自分が居なくなった後の家で困ることがないようにと教え、私は母が居なくなった後の自分の生活で困ることが無いようにという思いでそれらの話を聞いたしメモも取った。

後に台所周辺、母の部屋。いろんな場所から張り紙をした入れ物や物なのが多数見つかった。「○○用」「○○に使える」「いらない物」「居なくなったら粗大ごみで捨てるもの」など全部事前に用意されていたものばかり。母のがほとんど動けなくなったのは2024年初頭だから、2023年度中にはすべて張り紙等を残していた事になる。2023年末には銀行回りをして自身の口座を解約するなど、あらゆる身辺整理に入っていた時期。身体日記、母の日記を見る限り体の異変を感じ取ったのが2023年8月であり、その4か月後には自身が終われる態勢にまで持って来ている。

4か月間は自身の終活に専念できた訳じゃない。入院、手術もあったし、その後の通院しての検査ばかりの日々。日々進行していく身体の異変に対しての不安、心配、そして心の葛藤。誰にも言わずに一人で抱えていたはず。その中で残されるであろう私の為に様々な事を用意してくれていた。今になっては本当にありがたい事ばかりであるであるが、当時の母の心境を思うと何とも言えぬ気持になる。

【様々な医師と関わるも、最後は良い先生に巡り合えて…】

1月に訪問医療のI先生が家に来て話をした時に、母は先生の前で思わず泣いてしまった。O病院であちこちの科をたらい回しにされて、一部の先生は母の訴え(痛みや心配)てもロクに聞かなかったらしい。なのでI先生にしっかりと話を聞いてもらった事でホッとした…と後に語ってくれた。また私が仕事から帰って来て母の身体の様子を尋ねると「聞いてくれるだけで嬉しい」とまで言った。誰にも自身の事を心配されず、一人で抱え込んでいたものが大きかったと思う。

12月下旬。母の大好きなこの家のテラスに出て椅子に座りながらいろんな話をした。今までの事、今後の事など。後に病室のベッドでもある程度話をする事になるが、今まで見せてこなかった母上の心情がいろいろと明らかになった。もう最期が見えているから思い残すことの無いように…という想いもあっただろうが、「こう思っていたんだ」とか「そんな事があったのか」など今まで知らなかった母上の心の中を全て見せてくれた。中にはO病院での先生の対応、過去に家の中で受けた最低な仕打ちとか…。あまりの無念さからか涙する事もあり、その心情は計り知れないものがあった。

【S病院の入院後も楽な道のりでは無かったが…】

入院当初は母上も普通に会話が出来た。家に居た頃とは違って様々なケアに対応してもらえる病院に居るという安心感の問題だろうか。一時的に元気になったように見える日もあった。まあ嘔気の問題に悩まされる感じが多かったものの、酔い止めを投入してもらえれば普通に会話出来たのは良かった。家に居た時ももうダメなんじゃないかと思う程苦しむ事も多々あったし、すべての看護、介護に対応出来ない(私に専門知識が無い)のが母にとっても不安要素だったはず。

それでも入院中期に入ると昼夜の感覚が無くなったり、体温調節が上手くいかずに暑がって病衣を脱ごうとすることもあった。とにかく首から上(顔)が暑いと言って、おしぼりに吸い飲みの水を掛けてそれを自分顔の上に乗せるという行為をし始めた。私が病室へ入室すると同時の顔に白いおしぼりを乗せている姿を見て「一見するともう亡くなった人に見えるからやめろ」と言った。すると母はケラケラと笑っていたのが印象的だった。

また昼夜逆転して今の時間が分からずに私によく「今何時?」と聞いてくる事もあった。その時に私がボケて「そうね、だいたいね」とか「ちょっと待ってて」などと返す。私も母上もサザンオールスターズが好きなので「勝手にシンドバット」のワンフレーズのやりとりをする事で笑いあう事もあった。後から思えばこうやって僅かでも会話を楽しめる状態だった事が本当に幸せだなと思える。

【意思疎通もままならず、徐々に反応そのものが薄くなって…】

入院後期になると母との意思疎通は殆ど出来ず、せん妄、うっ血、呼吸不安定という状態になった。せん妄状態で薬の投与量が増えており、母は殆ど眠ったままの状態になった。そうなると私にとっては脚マッサージでうっ血の解消、さらに水を飲ませる事しか出来なくなった。会話、意思疎通が出来ない状態は正直辛かったが、それでもまだ水を飲ませる事や脚のマッサージが出来るという状態を喜ばないといけなかったのだろうか。

末期には暑さを訴えたり、水を欲する事すらなくなった。以前は母の手を握れば握り返してくれていたが、もう意識と反応そのものが薄くなって握り返してくれることは無かった。脈もかなり弱くなってきて手で脈を取れず、胸やお腹の部分を触ってようやく脈が取れる状態。ここまで毎日のように母上に接してその状態を見続けた側からすると、もう最期が迫っている事は容易に想像できた。

【看取りまでの数時間は一生忘れない】

瞼を閉じる力もなくなったのか、最期の数時間は両目が開いたような状態になった。いよいよ最期が近くなったと思った私は、母の手を握りながらずっと母と目を合わせていた。母の目は焦点が合っていないが、それでも私は母の目を見ながらその呼吸のリズムを自分の手で感じる事が出来ている事が嬉しい事だった。最後の1時間は長いようで短い1時間。最期の数分は明らかに呼吸が弱くなり、その呼吸が止まる瞬間まで私は母と目を合わせたままだった。私と母上はお互いを見つめ合った状態でお別れをする事になったのである。

傍から見れば最高の看取り方かもしれない。実際に最高の形で母親を看取れたのだとは思う。

母の呼吸が止まるあの瞬間、呼吸が止まった瞬間。
そしてその後に最期に口が僅かに動く瞬間。

もう完全に動かなくなった母を見つめ続けている私…。
そしてあの時が止まったあの空間、母上の身体から魂が抜けたあの瞬間。
母上は病室の天井から寝ている自分自身と母の手を握ったままの私の姿を見たのであろうか…。

母と目と目を合わせた状態で見送った事。目を見ながらそれら多くの事を感じ私だが、それをたった一人で抱え込むのはあまりにも辛すぎた。多分説明しても誰も分かってはくれないだろうし、母の旅立ち、見送りに至るまで数か月の険しい道のりでの私の心情と苦労は誰にも理解できるとは思えない。私と母のほぼ2人だけでで歩んだ2か月。あまりにも濃密で険しい道のりを分かち合える人はもうこの世にはいない。今後もこの葛藤を私一人で抱え続けていくのだろう。

【母の姿の写真を撮影。良かったのか悪かったのか…】

入院後期から末期。私は母の姿を毎日写真に撮り続けた(最後の7日間)。すべてが終わった後に改めてその写真を見てみた。その当時は何とも思わなかったが、もう家に居た頃とは完全に変わり果てた姿である。さらに食事を殆どとっていないので、体重は激減している。最終的な体重は分からないが、30kgくらいまで体重は落ちていたと思われる。そんな母上の写真…。今もその写真を見ると涙があふれてしょうがない。

何故こんな写真を撮ったのだろう、見るのだろうと思う時もあるが、母上が苦しんだ姿を忘れまいという思いで写真を撮り続けた。母の遺影や元気な頃の姿の写真ばかりを見ていては、母が味わっていたあの苦しみを想像する事は出来ないだろう。私があの当時の母の変わり果てた写真を見て涙するように、あの時の事を忘れないという意味において末期の母の写真を撮った事には大きな意味があると思っている。母上は楽に亡くなった訳じゃないのだから…。

【母へのプレゼントは…】

生前の母上に最後にプレゼントしたものは前開きの肌着だった。入院末期に看護師さんに前開きの肌着の方が着替えがしやすいと言われて、慌てて購入したものである。すでに最期が近い状態であったが、何とかギリギリ間に合った肌着(2着)。もっと早く用意していれば、毎日の清拭(身体拭き)の際に不自由しなくて済んだのに、そこまで気が回らなかったのが我ながら情けない。

ただ母上の最期の瞬間、そして最後のお着替え(エンゼルケア)をしてくれた時にその肌着を着用してくれた。最後の最後に私が用意したものを着用してくれていた事だけがせめてもの救いになった。

プレゼントという意味では3/14まで頑張ってほしかったなとも思う。2/14には予め買っておいたチョコレートをバレンタインデーとして母から頂いており、私としてはホワイトデーにそのお返しをしたかったのが正直な気持ちである。(後に母の祭壇にホワイトデーのお返しとしてバラの花をお供えした)

【葬儀は何とか無事に終了】

母の旅立ちの儀式としての葬儀はまずまずの形で終えることが出来た。家族葬という形を取ったからこじんまりとした葬儀にはなったが、遠方からはわざわざ親戚の方々に集まって頂いたし、私一人では対応しきれない面のフォローまで一杯して頂いた。本当に感謝しかないです。まあ一部我が家だけの問題でひと悶着あったが、ここでは書かないでおこう(笑)

ただ自分自身としては病院での泊り(付き添い)、葬儀場の安置所で母と共に夜を明かし、翌日は通夜で寝ずの番…と3日連続で寝ていない状況下でよく対応できた方だと思う。誰か褒めてくれ!って言うのもおかしな話だが、でも誰も行ってくれないからもう自分で言うしかない。

【母が大好きだった家、母の居なくなった家】

母上が居なくなった後、母上が愛したこの家に居られるのも後どれくらいなのだろうか。母上がこの家に居ると思って掃除をしたり、あちこちに気を使っているが、いつまで母上の愛したこの家を守り続けることが出来るだろうか。この家から見える母上が大好きだった景色(夜景)もいつまで見る事が出来るのだろうか…。

そう思うとこの家を離れる時(入院する時)、この家とのお別れをちゃんとさせてあげるべきだったと思う。あまりにもバタバタし過ぎていたし、当時は母上は嘔気と必死に戦っていてそれどころでは無かったのは承知している。ただこの大好きな家出る際に家を振り向く事もなく、追い立てられる(あくまでも表現の一種)様にして家を出る事になったのはとても後悔している。

だからS病院から葬儀会社へ向かう途中、私の私物を家に置く為に母と共に一旦家に帰ることが出来たのは良かった。どういう形であれ、母はこの大好きな家に一旦帰ることが出来たのだから。葬儀会社の運転手さんが私の大きな荷物(母の病院での私物と私のお泊りセット)を抱えている様子を見て「荷物を置きに家に帰られますか?」と言ってくれたのが幸いした。当時の私には一旦家に寄るという発想が全く無かったのだから…。

【母が旅立った後の私。母の残した一文を】

母の居なくなった後は何とも言えぬ感情を抱えつつ生活している。当然母上を失った悲しみはあるし、なぜか無気力になる事もある。過去を振り返って悲しむというのは当然かもしれないが、私自身の未来を見据えてもそこまで明るい材料はない。まあよく言う絆が深い分だけ…という事なのだろうか。こんな事を自分で言うのも何だけど。

それでも私が苦しい思いを抱いている時は、母上が残した旅行記(熊本・鹿児島旅行記)の最後の一文を思い出す。

この熊本・鹿児島旅行は全て私が企画立案して母を招待する形で連れて行った10年以上前の旅行。その時全ての私任せの旅行となっが、内容にはとても満足してくれた様子だった。

その旅行直後に母が書いた自筆の旅行記の最後の一文に

「あんた(私)はえらい、私(母上)もえらい。良かった良かった…」

という一文があった。
当然これは当時の旅行を振り返っての一文ではあるが、今の私に向けられている言葉のように思えた。

母上が旅立った後、何度か挫けそうになったり落ち込む事もあった。しかしこの旅行記の最後の一文を読む事でどれだけ私は救われた事だろうか。

母と一緒に戦い、母を最後まで見送る事が出来た私に対して。そして今も何とか生きている私を見て、母はこの最後の一文と同じ言葉を言ってくれる…と信じて私は母の旅立った後の日々を生きている。

【注意事項】

この記事を書いている私は医療に関しては素人なので記事の中で間違った認識、表現、名称を記述している可能性は高いです。さらに一部で感情論に走っている面もあると思いますが、なにとぞご理解と温かい目で見て頂けるとありがたいです。


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