脱ハンコのためには、文書が正しいことを、別の手段で証明する必要がある。「ハンコは無駄だからやめにしよう」というだけでは、不十分なのだ。「これまで印を押していたのを押さなくて済む」というだけのことではない。それだけでは、書類の真正性を証明できないからだ。
政府は、2021年3月から、マイナンバーカードを健康保険証として利用できるよう計画を進めていた。しかし、利用者にとってのメリットがどこにあるのか、分からない。薬手帳の代用になるというが、それだけのために、わざわざマイナンバーカード取得の手続きをするのも面倒だ。
このまま進むと、「ハンコ文化からは脱却できたものの、今度は別の迷宮入り」といった事態になりかねない。 ただし、1つだけ例外がある。それは、e―Tax(国税電子申告・納税システム)だ。2004年6月から導入された。これは、行政手続きのオンライン化で成功した唯一の例だ。
紙の仕組みに代えて、オンライン化する。それに電子署名する。そして、その署名が正しいことを証明するために、電子証明する。このような「デジタルID」の仕組みに置き換える必要がある。
もう1つの非常に大きな問題は、現在の仕組みは、政府あるいは公的機関が全体を管理しているので、利用者の個人情報が国によって管理される恐れが原理的にはあることだ。これは、最も根本的な問題点だ。
菅義偉政権のデジタル化計画はマイナンバーカードを中心に進められている。これを用いて、さまざまな手続きのオンライン化を進めようというのだ。 しかしマイナンバーカードは普及していない。その理由はマイナンバーカードを取得しても、e―Tax以外ではそれほど便利なことにはならないからだ。
個人医療情報に使えるようにするためには、マイナンバー制度を大幅に改革する必要がある。また、医療機関が受け入れるかどうかも分からない。
書類が送られてきて、そこに所要事項を手書きで記入し、マイナンバーカードのコピーを添付する。アナログそのものの面倒な手続きだ。これを送られる出版社も迷惑なことだろう。手書きで記入してある情報をいちいち入力しているのだろうか?
スマートフォンは、いろいろな機会に使うから、置き忘れということがあり得る。いまの形態の免許証に比べて、紛失の事故は多くなるだろう。
このまま進むと、「ハンコ文化からは脱却できたものの、今度は別の迷宮入り」といった事態になりかねない。
私は、制度導入直後に、早速申請してマイナンバーカードを取得した。なぜなら、原稿などを書いた場合に、出版社からマイナンバーの提出を求められるからだ。
スマートフォンのアプリに保存することで利便性が向上するだろうか? その逆に、リスクが高まるのではないだろうか? これも健康保険証と同じことで、利用者にとってのメリットがどこにあるのか、分からない。
現在の形態の運転免許証ならハッキングで情報が流出することはないが、スマートフォンに入れたら、流出する危険も生じる。万一、スマートフォンを紛失した場合にも、情報が漏出する危険がある。
マイナンバー制度は、役に立たないどころか、地方公共団体に余計な労力負担をかけるだけの制度になってしまったのだ。信じられないようなことだ。
アメリカでは、バイデン政権の成立に伴い、トランプ政権時代のITに対する敵対的な政策が変化する可能性がある。以上のような変化は、今後の米中デジタル戦争の行方に重大な影響を与えるだろう。
e―Taxの普及率を大幅に高めた要因は、紙ベースであった社内の経理システムの大幅な改革が可能となることだ。また、税理士による代理送信が認められたこともある。
オンライン化が望まれるのは、行政手続きだけでない。
アプリにしてスマートフォンに入れるという点も気がかりだ。運転免許証は運転するときにだけ携行する。しかも、頻繁に人に見せるわけではないから、紛失しないよう、厳重に保持する。
さらに重要なのは、こうした利用をするには、システムがサイバー攻撃に対して完全に強固でなければならないことだ。情報が漏洩したら、大変なことになる。アタックを受けて情報流出が起きれば、社会が大混乱に陥るだろう。
デジタル化は、社会の基本的な仕組みの改革を伴うため、簡単に実現できるものではない。国民が政府を信頼することなくしては決して実現できない課題だ。
2020年には、ドコモ口座事件などの不祥事が発生した。このことからも、安全なシステムの確立が、緊急に必要だ。
インターネット上での本人証明とログインは、いまやあらゆる場面で、毎日のように必要とされる。とくに銀行口座の利用にあたっては、非常に頻繁に使う。
マイナンバーカードを運転免許証と一体化してスマートフォンで利用することも検討されている。スマートフォンのアプリに保存することによって、利用者の利便性向上につなげるのだという。
デジタル化の遅れは日本の生産性が低い大きな原因だ。現在のような状況では、生産性が上がるはずはない。それがはっきりと示された。成長のための最も重要な基盤が失われているわけであり、非常に深刻な問題だ。
「マイナンバーカードと一体化すれば偽造しにくくなる」というのだが、運転免許証はそんなに簡単に偽造できるものなのだろうか?
マイナンバーの利用としてもう1つ望まれるのは、個人医療情報だ。現在は病院ごとにバラバラに保存されている情報をまとめるのである。
受注側のIT企業としては、新しい技術の動向をフォローするのでなく、固定的な顧客を逃がさないことのほうが重要だ。日本がいまだにレガシーのコンピューターシステムから抜け出せない原因も、発注者と受注者の関係の固定化にある。
日本政府は、テレビ会議が満足にできなかった。また、コロナ感染状況の情報収集にFAX(ファクス)が使われていた。定額給付金の申請がマイナンバーカードでできるとされたが、実際には現場が大混乱に陥った。
現在の仕組みは、中央集権組織が管理するものだ。マイナンバーカードによる電子署名は、それをさらに推し進めようとするものである。しかし、このような方向がよいのかどうかは、社会の基本構造に関わる重大問題だ。
デジタル化が進んでいないのは、官庁だけのことではない。民間企業、政治家、日常生活も同じような状態だ。在宅勤務(テレワーク)は、2020年の春にはいったん進展したものの、夏以降には元に戻る動きも見られた。こうなるのは、日本の組織における仕事の進め方に基本的な原因がある。
『良いデジタル化 悪いデジタル化』では、中央集権的な仕組みではなく、いま開発されつつある分散型IDの方向が望ましいことを主張する。
マイナンバーカードやコロナ情報収集システムがうまく機能しないのは、自治体のシステムとつながらないからだ。
コロナ下の現金給付で、各地方公共団体が、オンラインで送られてきた申請データをプリントアウトし、住民基本台帳のデータとの突き合わせなどを手作業で行わざるを得ず、大変な苦労をした。
マイナンバーカードは現状ではほとんど使われていない。利用者や利用対象を増やすのは容易なことではない。より根本的な問題はマイナンバーカードは中央集権的な仕組みであるため国民管理の手段として使われる危険があることだ。ブロックチェーンを用いた分散型IDの方向を目指すべきだ。
組織のトップがITを理解していないことも、大きな問題だ。
プライバシーの問題は、プラットフォーム企業による個人情報の収集と、それを用いるプロファイリングをどこまで許容するかという問題とも、深く関わっている。
デジタル化の遅れの大きな原因として、情報システムの構築や運営が、組織と結びついたIT(情報通信)ベンダーに丸投げされていることが挙げられる。この関係は固定的で、いったんシステムを作ると、動かせない。
最も重要なのは、本人確認(ID)の仕組みとして、いかなるものを採用するかである。
プライバシーを保護しつつ、しかも高度なデジタル処理が可能となるような仕組みを作ることは決して簡単な課題ではない。方向付けを誤れば、「仕事の能率は上がり、生活は便利になったが、自由を奪われた」ということになりかねない(中国は、すでにそのような社会になっているのかもしれない)。
日本では、仕事の多くが紙を用いて行われており、本人確認の手段として印鑑が用いられている。行政手続きのデジタル化は、20年前に政府が約束していたことだが、いまだに実現できていない。
あまりに巨大化したプラットフォーム企業は、プライバシーとの関係で大きな問題をもたらす。クッキーの制限、個人情報保護法との関係などが重要な論点だ。
発注者である担当省庁が、デジタル化の方向付けに関して主導権を発揮できないことも大きな問題だ。
2020年のアントの上場中止事件は、世界にショックを与えた。これは、中国共産党が民間IT企業の成長を抑える方向に政策転換した結果ではないかと捉えられている。デジタル人民元発行の真の狙いも、民間フィンテックの抑圧にあるとの解釈が可能だ。
新型コロナ禍の発生後、さまざまな出来事を通じて、日本におけるデジタル化の遅れが白日のもとに晒し出された。日本の生産性が国際的にみて低い水準にあることがこれまでも指摘されていたが、その基本的な原因がここにあることが明らかになった。
こうなってしまった大きな原因は、デジタル化が省庁ごとにバラバラに進められてきたことにある。官庁がテレビ会議をできないのは、別々の通信システムになっているからだ。