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徳川家康さま☘️をたどる#44☘️秀吉さまとの対立が始まる

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信長戦国歴史検定 14【40.41.42】

1年前

8/25(金) 区議会委員会視察の解散場所からほど近い本能寺で、織田信長廟に初めて参詣🙏

徳川家康さま☘️をたどる#41☘️甲州騒乱1

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天正11年(1583)5月2日は信長の三男・織田信孝が自刃した日。信長と長男・信忠が本能寺の変で亡くなったとき四国攻めの直前だった信孝。秀吉の中国大返しに乗った後は秀吉や次男・信雄と対立。手を組んだ柴田勝家が秀吉に敗れると岐阜城を囲まれ降伏。知多半島にある野間大坊にて自刃した。

天正11年(1583)4月21日は賤ケ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破った日。信長亡き後の織田家を二分する主導権争いの勝者を決定づけた。一時戦場を離れた秀吉の隙を狙って勝家軍が攻撃。美濃大返しといわれる行軍で戻った秀吉軍が反撃。前田利家の戦線離脱などもあり勝家は越前北ノ庄へ敗走した。

天正10年(1582)12月20日は秀吉が柴田勝家と結ぶ織田信孝(信長三男)の岐阜城を包囲し和議を結んだ日。織田家当主と決まった信長の孫・三法師を信孝が安土城へ送らないことを信雄(信長次男)と組んだ秀吉が謀反とみなした。本当の裏切り者は大声で非難していると後世見るとわかりますね。

織田軍その11 三好信孝の家臣団と軍団

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織田信孝の辞世 戦国百人一首㊳

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3か月前

天正10年(1582)12月20日は秀吉が柴田勝家と結ぶ織田信孝(信長三男)の岐阜城を包囲し和議を結んだ日。織田家当主と決まった信長の孫・三法師を信孝が安土城へ送らないことを口実に信雄(信長次男)と秀吉が岐阜城を包囲。越前の勝家は雪で動けず丹羽長秀や池田恒興は秀吉らを支持した。

天正10年(1582)10月15日は秀吉が大徳寺で3千人参列した信長の葬儀を行った日。本能寺の変の後に信長の遺体は見つからず木像を棺に入れた。織田家重臣の柴田勝家などは不参加。信長の次男信雄と三男信孝は境界争いで揉めており不参加。秀吉は実質的な喪主を信長四男で養子の秀勝とした。

天正10年(1582)6月27日は信長・信忠亡き後の織田家後継者を決める清須会議があった日。通説では信長の次男・信雄と三男・信孝が争う中で4重臣が話し合い秀吉が信忠の嫡男・三法師擁立で場をまとめ主導権を握ったとされた。しかし初めから三法師を支える体制ための会議だったともいわれる。

辞世の歌の魅力【第3回】 読み手の思いとか