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徳川家康さま☘️をたどる#44☘️秀吉さまとの対立が始まる

初筆 2023年 7月 22日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける:徳川家康さま☘️をたどる#44
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https://stand.fm/episodes/64b93a3a3bd8edab8523b996


1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 天正壬午の乱で得た所領を家康さまはその土地その土地に適したやり方で統治を始めた❗️

  • 甲斐東部・都留地区は重臣鳥居元忠さまに支城領主として全面的に任せた。また甲斐西部・甲府や韮崎、山梨、北杜などは家康さまが官僚を通して直接統治を開始

  • 甲斐国は全般的に安定して、旧武田家家臣は徳川軍に編入

  • 信濃は表向きは家康さまに従属していたが、不安定要素はまだ残る

前回はこちら
⬇️

3 織田家のプチお家騒動状況

家康さまが相模北条氏と同盟のせいで、
「関東惣無事」実現のために心を砕いている頃、
本能寺の変で当主・織田信忠さま、
実質的な当主・織田信長さまを同時に失った
織田家は当然のごとく混乱しました。

また甲斐・信濃・上野などは
本能寺の変の知らせが入ると
国衆一揆が勃発し、織田家代官はみな
尾張へと帰国していきます。

歴史モノのドラマや映画などでは、
羽柴秀吉さまは本能寺の変のあと、誰よりも早く
京都に戻り、明智惟任光秀さまを討ったことで
織田家中の宿老の中では天下に向けて一歩抜きん出て、
さらに織田家跡取りを決める清洲会議で
天下を収める意思を表した、みたく
描かれること多いですが、
清洲会議の時点では秀吉さまは
織田家中の「最有力宿老」なだけ。

そもそも、信長さま直系の孫、三法師さま
のちの織田秀信さまが織田家当主を引き継ぐことは
すでに確定路線で、その時期が早まったに過ぎません。
また、信長さまの次男・信雄さま、三男・信孝さまは
いずれも家督継承者ではありませんでした。

清洲会議で審議されてのは
家督継承者が誰か、ではなくて
三法師さまが幼少の間(三法師さまこのとき2歳)
誰か名代となるか、でした。
そして、次男・信雄さま、三男・信孝さまとも
名代を譲りませんでした。

清洲会議に寄り合った重臣
羽柴秀吉さま・柴田勝家さま、丹羽長秀さま・
池田恒興さまは、信雄さま・信孝さまいずれも
名代ではなくて、宿老が中心になって
三法師さまをお支えしていく、という
結論に達しました。

織田家ご一門衆に名代を作らない、という決定で
一見は、織田家プチお家騒動が収まったように
見えますが、名代を譲らない信長さまの
次男・三男の対立を、秀吉さまはきっと
見逃してないでしょうね😉🤚

4 秀吉さまの天下人への道

本能寺の変直後に明智惟任光秀さまに
火をかけられた安土城の修復が終わるまで
三法師さまは、三男・信孝さま後見で
美濃岐阜城に滞在することになりました。
そして信孝さまは政治的主導をしようとしましたが
信雄さまと対立。
これを好機とみた秀吉さまは信雄さまサイドにつき、
すると自然と、織田家政権の方向性について
対立していた柴田勝家さまは信孝さまと連合することに
なりました。

秀吉さまはさらに丹羽長秀さま・池田恒興さまと
相談して、北畠信雄つまり織田信雄さまを
名代に迎えることに話をつけました。
これにより、織田家はご一門衆・宿老とも含めて
完全に2分され、いずれのサイドも
織田家を存続していくという大義名分を持ち、
勝った側が織田家の主流になれる、という状況下で、
1582年・天正10年11月、信雄さまは信孝さまを降ろし、
1583年・天正11年正月、信雄さまは三法師さまを頂き
安土城に入城、織田家当主・織田信雄さまのもとで
羽柴秀吉さま・丹羽長秀さま・池田恒興さまが
政務に当たるという織田政権が再構築されました。
ちなみに家康さまはこの政権に賛同したとの記録が
あるようです。

これにより、柴田勝家さまは孤立し
1583年・天正11年4月に賤ヶ岳の戦で
お亡くなりになりました。
同時期に織田信雄さまは岐阜城を攻略、
織田信孝さまを自害に追い込みました。

このような秀吉さまの反信雄勢力討伐と
戦後処理を通して、秀吉さまは織田家内外に
有力宿老である、という評判が形作られ、
それが「秀吉さまを天下人に」と望む声が
世間で大きくなって行きました。

世間の追い風をうまく利用した秀吉さまは

  • 信長さまの一周忌を主宰

  • 摂津大坂城に入る

という、自分は天下人である、という
デモンストレーションを実行し天下の統治を進めます。
そして、織田家当主名代ではあるものの、
発揮するだけの才能を持たない信雄さまは
尾張・伊勢・伊賀を領有するものの、秀吉さまより
「2度と天下に足を踏み入れるな」と言われ、
三法師さまは安土城から坂本城へ移されました。
秀吉さまの「織田家は天下に関わりなし」の
姿勢ですね❗️💦

5 家康さまには上方の実感が伝わらないのかな❓💦

家康さまは甲斐・信濃を統治を始めつつ、
関東惣無事、を北関東の国衆に求めていました。
ここで「惣無事」「無事」について説明します。
無事、というのは現代の意味とはビミョーに違い、
和平、ということです。
そして「惣無事」というのは「広域的和平」
ということです。なので家康さまが
関東惣無事を関東周辺の国衆や大名に求める
ということは、独自の判断の戦や競り合いは
許さない、ということです。

家康さまは、信長さまご存命の時代の惣無事を
関東にて再現しようとしましたが、
相模北条氏も競い合う北関東の大名・国衆も
まったく聞く耳持たず、で、戦は収まらず。

そんなとき、信濃に関して🆚上杉戦略で、
婚姻関係を通して北条家と同盟強化したせいで、
北条家に北関東との競り合いを止めろと
言いにくくなる家康さまっ💦💦
これが1583年・天正11年の7〜8月ごろ。
このころ秀吉さまは天下の継承者かもと
思われ始めていました。
そしてついに秀吉さま家康さまに口を出し始めました。

  • 信濃郡割(上杉氏🆚徳川氏)の領有関係

  • 関東惣無事の実現を促す

家康さま、家臣の話は聞く人ですし
一目置いていた信長さまのお話も聞きましたが
秀吉さまの話となると、やはり聞きにくいのが
心情ではないでしょうか💦💦

上方での秀吉さまは天下人継承者である
という認識を、家康さまは実感として
感じられなかったんだと思います💦💦

6 織田信雄さまに巻き込まれる家康さま🤣💦

1583年・天正11年11月には
秀吉さまと織田信雄さまの関係は険悪に
なってきました。
織田信雄さま自身の家臣団の織田家当主復帰という
意見を勢いとして、秀吉と対立することを
決めました。

そして誘われたのが家康さま🤣💦💦
ただ誘われたのならたぶんお断りするのだろうけど、
家康さまも自領のことに口を出してくる
秀吉さまが気に入らなかったのかも💦💦

7 次回

織田信雄さまに誘われて秀吉さまと
対立することになった家康さまつ💦💦

織田信雄さまは、秀吉さまと仲良くすべし、と
主張する家臣を誅殺することで、
秀吉さまへの宣戦布告としました❗️

しかし、この行為へ信雄さまが
家康さまに相談の上で行った行為とのこと❗️
家康さまっ❗️
ちゃんと考えたんかっ❓❓❗️❗️


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