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徳川家康さま☘️をたどる#43☘️甲斐・信濃統治を進める大大名家康さま😂

初筆 2023年 7月 15日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#43
⬇️
https://stand.fm/episodes/64b272fc8b1e011f980af00b

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 甲斐・信濃で国衆一揆が始まり、織田家代官が帰国あと家康さまは次々と甲斐・信濃の国衆を従えた❗️

  • 上野方面から相模北条氏が攻め込んできて、上野と甲斐・信濃あたりで小競り合いが続いた。

  • 織田家内はプチお家騒動状態で、家康さまへの援軍は出せないどころか、相模北条氏と和睦せよ、との指示。従いそうする家康さま

  • 天正壬午の乱、後、家康さま所領は5ヶ国となった❗️

前回はこちら
⬇️

3 これまで敵国だった甲斐・信濃統治を始める

1582年・天正10年の天正壬午の乱を通して
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5ヶ国を領国とした
家康さまですが、その実際の統治については、
新しく切り取った甲斐・信濃・駿河東部は
これまで時間をかけて統治を固めてきた
三河・遠江・駿河西部とは異なり、
統治の整備を繊細にする必要がありました。

甲斐・信濃には、長い間、敵対していた
総領主・武田氏の保護下にあった
地元国衆がいて、徳川家にじっくり
取り込んで行く必要があったからです。

ゆえに家康さまも地域・国衆ごとに
統治方法を変えていきました。
1つ1つ見ていきましょう。

4 駿河国河東2郡

駿河国河東2郡とは駿河国と伊豆の境界にあり
古来からの関東に対する政事的・軍事的拠点であり
交通・流通の拠点でもあり、きめ細かい統治が
必要なエリアでした。
具体的には駿東部・富士郡東部のことをさし
現在の御殿場市・裾野市・沼津市・富士市・富士宮市
あたり。

この地域は、かつては
甲斐武田氏・駿河今川氏・相模北条氏が
その帰属をめぐって戦闘頻発したエリアで、
武田氏領国下では代官が管轄していました。

天正壬午の乱でこの地域を得た家康さまは
松井松平忠次さまを城代として三枚橋城に入れます。
家康さまはこの地域のすべてを
松井松平忠次さまに任せたのではなくて
家康さまが統治の方向性をお考えになり
松平忠次さまに指示するというやり方です。
主に税の徴収が主な業務でした。
忠次さまお亡くなりになったのちには
ご子息の康重さまが城代を引き継ぎました。

その後、この地域の統治方法の
改替(かいたい・見直し)がなされて、
この地域の別の城にも徳川家より以下派遣されました。

  • 興国寺城:竹谷松平清宗さま

  • 長久保城:牧野康成さま

この2箇所・2名は
三枚橋城の松井松平忠次さまの税収業務とは異なり
地域の防衛・治安維持が任され
管轄内の武将の統率が業務でした。
このように城に入る人を「城将」と呼びました。

5 甲斐・都留郡

甲斐・都留郡は現在では山梨県東部で
都留市・北都留郡・南都留郡・大月市・
上野原市・富士吉田市あたりです。
この地域は武田氏領国下においては武田家重臣の
小山田氏の自治的統治がなされていました。
またこの地域も相模北条氏との境界線です。

家康さまは小山田氏の統治方法を踏襲しつつ、
相模北条氏にも備えるために
重臣の鳥居元忠さまを置きました。
本拠地は今の都留市で谷村という場所、
鳥居元忠さまはこの地域統治のほぼ全権を
委ねられ自身の判断で統治を行いました。

このように全権を委ねられる国を「支城領国」といい
鳥居元忠さまのお立場を「支城領主」といいます。
現代の会社でいうと家康さまが支店を設立し
支店経営は鳥居元忠さまにすべて任せた、という感じ

家康さまそれくらい信用できる重臣が
何人もいてよかったね😀

6 甲斐・国中領

甲斐国国中領は武田氏が直接統治していた地域で
今の山梨県中部、甲府市・笛吹市・韮崎市・北杜市や
その周辺のエリア、つまり、山梨県から都留地区を
除いたエリアです。

天正壬午の乱終結直後の1582年・天正10年
11〜12月には家康さまオン自らが甲府に
お入りになり、福徳朱印状による
領地と給与安堵を保証していきます。

福徳朱印状は、🆚武田戦前にも発行されてました。
が、それは「折紙」という仮の発行で
乱が収まったらそうするつもり、というもの。
今回は「竪紙(たてがみ)」という確定版の発行、です。
また奉者は、直接の上司となる
井伊直政さま・柴田康忠さま、または
徳川家官僚家臣(からの福徳朱印状は家康さまの旗本となる)の
本多正信さま・高木広次さま・成瀬正一さま・日下部正吉さま
に限られていました。

甲斐の国衆はいずれも
家康さま直属軍つまり旗本への編入か、
重臣井伊直政さま・柴田康忠さま直属軍への
編入であり、
とくに家康さまの旗本になった国衆には
1583年・天正11年、あらためて
家康さま直々に福徳朱印状を発行しました。
丁寧な統治の浸透させ方ですね😊

国中領の実際の統治について話します。
軍事・治安維持は家康さま重臣の平岩親吉さまと
旧武田家重臣の岡部正綱さま・康綱さま親子で
行われました。
徳川家・武田家の重臣が手
を携えての治安維持という体制を
甲斐国に見せる目的もありました。

国務すなわち、所領配置や税の徴収や裁判の判決、
などの内政は徳川家官僚家臣うち
この地の担当となった
成瀬正一さま・日下部正吉さまから徳川家意向を
旧武田家実務担当だった甲斐奉行に伝達。
この甲斐の統治は武田家が行っていた方法を
そのまま取り入れました。

7 信濃全般

信濃では、天正壬午の乱中および終結後においても
徳川家への従属を了承した国衆には
家康さまはその地域ごとの国衆の
自治運営を了承していました。

しかし信濃には、天正壬午の乱の最中には
北条方に与する国衆がいて終結後も
従属しない国衆がほうぼうにあり、
家康さまは佐久・小県を中心に
少しずつ侵攻・制圧しました。

天正壬午の乱中に
徳川氏から離反していた以下の国衆は
1583年・天正11年には甲府にいた
家康さまのもとへ出仕しました。

  • 小県の真田昌幸さま

  • 伊那の保科正直さま

  • 諏訪の諏訪忠頼さま

  • 元信濃守護家・小笠原貞慶さま

しかし信濃は国衆の動向が流動的で
甲斐国ほど安定はしませんでした。

8 有力戦国大名となった家康さまと課題

天正壬午の乱を通して、
甲斐国・信濃国・駿河河東2郡(つまり駿河ゼンブ)を
領国化し、信濃は若干不安定なもの
その地域の人材・土地・その他収入源などを
確保した家康さまは大大名となりました。

これはある意味、本能寺の変のおかげであり、
織田家が統治できなくなっていた
信濃・甲斐を織田家了承を得て、
切り取ることができたのです。
さらに織田家はプチお家騒動で
横槍を入れることができなかったのもラッキー💦

ところが家康さまには悩みのタネがありました。
天正壬午の乱中では、相模北条氏と戦をするにあたって
相模北条氏と対立していて家康さまが協力関係を結んだ
常陸佐竹氏を中心とした北関東の国衆は、
相模北条氏と家康さまが和睦した今も、
相模北条氏と対立しています。

その対立を収めることが家康さまの課題となりました。
なぜかというと、織田家が混乱を取り戻したら
北関東の国衆や常陸佐竹氏は織田家を頼る可能性が高く
そうすると競り合いをしている北条氏が
織田家と対立することになり、同盟関係の徳川家も
もしかして織田家と敵対関係となってしまかも。
信長さまご健在のときはそうなる前に
信長さまが家康さまにあーせーこーせー言ってましたが、
これからはどうなるかわからない。

そのために家康さまが出した指示が
「関東惣無事」でした。
そして

誰もいうことを聞きませんでした😂

9 次回

やはり関東惣無事実現を家康さまに求めてきた
織田家、というよりも、羽柴秀吉さま❗️

1583年・天正11年の賤ヶ岳の戦いで
柴田勝家さまをやぶり
織田家の筆頭家老となった、というよりも
信長さま後継者にしか見えない秀吉さまっ

家康さまのとの対立が始まるっ❓❗️


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