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徳川家康さま☘️をたどる#42☘️甲州騒乱2

初筆 2023年 7月 8日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#42
⬇️
https://stand.fm/episodes/64a9dd487adf371c7ae5a95a


1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 家康さま、本能寺で討たれた信長さまの弔い合戦に向けて、今の岐阜県近くまで出陣するも、山崎合戦にて明智光秀さまを破った羽柴秀吉さまより、織田家宿老から、としての、帰国命令。家康さまは自国領に引き上げた。

  • 秀吉さまは、後のことを考えて、弔い合戦に赴くのは自分だけでありたかった。

  • 信長さま落命のため、甲州・信州・上野の織田家代官として派遣されていた国々では国衆の一揆が起こり、天正壬午の乱が始まった

前回はこちら
⬇️

3 天正壬午の乱と家康さまビミョーに快進撃🤣

本能寺の変直後から
甲斐(山梨県)・信州(長野県)・上野(群馬県)では
一斉に国衆一揆が始まり、また、
隣国からの侵攻もありました。

織田家から旧武田領国の平定了承を得ていた
家康さまは、快進撃を始めます。
これまでの家康さまとは違い、
織田信長さま亡き今、少しだけ、
ガツガツ隣国を取って行こうという姿勢を見られます。
徳川総領国の三河・遠江・駿河への被害がないように
するためには隣国を切り取るのが1番という
お考えに変わってきたのかもですね❗️😉

前回のおさらいとして、
駿府・遠江に食い込んでいた穴山領国は
梅雪さまのご落命後、家康さまが、幼少の後継を
擁して、お家を存続する手配済み。
この家はのちに家康さま5男信吉さまが入り、
さらに後年には家臣団は水戸徳川家に引き継がれます。

4 甲斐・山梨県


甲斐国では方々で国衆が一揆蜂起、
家康さまは織田家重臣の代官、川尻秀隆さまへ
徳川家より本多信俊さまを派遣。
この派遣は、家康さまには意図があり、
織田家代官の川尻秀隆さまを織田領国に返し
甲斐国を徳川家で統治できるように
してしまおう、というお考えが見受けられます。

本多信俊さまは川尻秀隆さまに
「危険だからいったん織田領国に帰られよ」
と家康さまのお言葉を伝えたら
1582年・天正10年6月15日に
川尻秀隆さまはなんと❗️本多信俊さまを
亡き者にしてしまいました❗️💦
それがキッカケでなんと❗️国衆一揆勢が
川尻秀隆さまを討ち取ってしまいました❗️💦
織田家の代官はやはり甲斐国では
あまりいいように思われてなかったんですね💦💦

この状況を見て、家康さまは
自身の重臣、大須賀康高さまと、旧武田家家臣の
岡部昌綱さま・曽根昌世(まさただ)さまの
軍勢を派遣。
旧武田家家臣と徳川家重臣がそろって
かけつけるところがミソで、これによって
一揆勢を味方につけて甲斐国の平定を進めます。
こんなときに、旧武田家家臣を少しずつ
召し抱えておいた家康さまの度量が
効いてきてますね😂🤚

さらに、信長さま弔い合戦に向かっていた
家康さま本軍が、秀吉さまからの帰国命令を受けて
領国に戻ってからは、1582年・天正10年7月3日
家康さま御自ら甲斐国へ入り、
徳川氏に従った甲斐国の国衆に対して
福徳朱印状(誠意をもっての書簡と考えてください)により
領地の保証と給与という形を取り
甲斐国の国衆を取り込んでいきました。

このころの福徳朱印状は家康さまが
直接に発行するのではなくて、
家康さまの新旧家臣団が家康さまの承諾のもと発行
という形を取っています。
新家臣団とは主に旧武田家家臣であり、
甲斐国衆も従うのに抵抗がなかったのだろうと推測できます。
この当たり、家康さまの「自然とそうなる」「なるべくしてなる」
という国衆を扱うのが格段にうまくなっているのが
みて取れますね😀

5 信濃・長野県

信濃の川中島4郡(長野県北部)は不穏な政情から
織田家代官の森長可さまが撤退します。
その地に侵攻、のちに平定するのは
越後の上杉景勝さまでした。

信濃うち深志領(松本市あたり)は
元信濃守護大名の末裔、小笠原貞慶さまが
徳川家重臣石川数正さま経由で
家康さまの援助を得て、その地を奪還。

信濃の佐久・小諸エリアは、家康さまが
旧武田家家臣の依田信蕃(のぶしげ)さまに
甲斐国で国衆を集めさせ、
1582年・天正10年6月20日ごろ
佐久・小諸エリア押さえのために
依田信蕃さまを小諸に入れました。
しかし、それ以前に、
佐久・小諸エリアに面している
上野国の織田家代官・滝川一益さまが
侵攻してきた相模北条軍に敗れ、
相模北条本軍の北条氏直さまは
さらに信濃、佐久・小諸エリアに侵攻、
それは6月12日のこと❗️
そして北条本軍はまず川中島4郡をターゲットにし
越後の上杉景勝さまと対峙、しかし成果は得られませんでした。

信濃は伊那地区ですが、まずこのエリアの有力国衆の
下条頼安さま・知久頼氏さまを擁立し、
徳川家宿老の酒井忠次さまに伊那の国の
実質統治を任せることを前提で、家康さまは
酒井忠次さまに攻略させました。

諏訪地区も伊那の隣ということで
酒井忠次さまが侵攻しましたが、
諏訪の国衆、諏訪頼忠の取り込みに失敗、
諏訪頼忠さまは、侵攻してきていた相模北条氏に
与することになりました。
川中島4郡をあきらめ南下してきた
相模北条氏本軍の北条氏直さまは
諏訪高島城の徳川勢に進撃❗️
ここにいたり、甲斐・信濃の騒乱は同地を舞台とした
北条🆚徳川の対戦となりました💦

6 相模北条氏🆚徳川氏

相模北条氏は、1582年・天正10年8月7日には
甲斐国・若神子(わかみこ・北杜市(ほくとし))に着陣
それを受けて、甲府にいた家康さまは
スグ隣のエリアの新府城(韮崎市)に陣を移し
両軍は対峙。

また相模北条氏の別働隊、北条氏忠さまは
山梨県東部の都留郡を押さえていましたが、
徳川家重臣の鳥居元忠さまがこれを撃退❗️

また相模北条氏🆚徳川氏の対峙は、
両家本国の境界線である、駿河・伊豆でも発生、
対戦が繰り返されました。
こちらは、駿河国・三枚橋城(沼津市)配置の
徳川家の松井松平家の忠次さまが
ご担当なさいました。
そのエリアでは徳川家の本多重次さまのもとで
水軍の向井政綱さまが伊豆網代城を攻略。
さらに信濃国衆の木曾義昌さまが
織田家の許可のもと援軍にかけつけました。

信濃の東部・甲斐の北部での
相模北条氏🆚徳川氏の状況は
相模北条軍が2万人、徳川軍は2000人ということもあり
全体的に相模北条氏が優勢でしたが、

  • 木曾義昌さまの徳川氏への従属

  • 越後上杉景勝さまと家康さまの軍事協定締結

  • 小県郡(おあがた)国衆真田昌幸さまの従属

  • 下野国衆皆川広照さま・下総国衆水谷正村さまと良好な関係を築き、さらにそこから、常陸佐竹氏・下野宇都宮氏・下総結城氏とも外交を展開

で家康さまは戦況を好転させました。

そして織田家からも援軍を出そうか、
という動きがあったものの、
織田家がそもそも、
織田信雄さま🆚織田信孝さま、という織田家内の
協調性の不一致に加えて、
羽柴秀吉さま🆚柴田勝家さまという宿老の衝突で
プチお家騒動状態になりつつあり、
織田家は家康さまに相模北条氏との和睦を要請しました。

7 家康さま惣領国が5カ国に😀

1582年・天正10年10月
相模北条氏・徳川氏の和睦で天正壬午の乱の終わりです。
和睦内容は

  • 戦闘凍結

  • 婚姻関係とする

  • 国分協定、

でした。
国分協定は

  • 甲斐国都留郡・信濃佐久郡は徳川氏へ

  • 上野国沼田とその周辺は北条氏へ

となりました。これで信州の半分くらいと
甲斐国ほぼゼンブ、徳川領となりました。

現時点で徳川惣領国をあげていくと

  • 三河

  • 遠江

  • 駿河

  • 信濃南部

  • 甲斐

おや❓
5カ国❓❗️
家康さま大出世やんかっ😂

8 次回

国分は行われたものの、小さな未従属は
甲斐・信濃いずれにもあり、
これから統治できるような処置をしなければならない❗️

これまでは旧武田家に従属していた国衆を
家康さまはどんな手法で統治していくのかっ❓
関連する人材活用はっ❓

家康さま急に大国の領主となり実はビビってへん❓😂



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