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織田軍その11 三好信孝の家臣団と軍団

織田信孝(神戸・三好信孝)の家臣団と軍団のページです。



織田家 高野山攻囲軍 のち 南海道方面軍 三好軍大将。 「信長様御名代」。

  

三好<織田>信孝(伊勢神戸18万石+阿波・讃岐)


「四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、
御人数御催なされ、五月十一日、住吉に到りて御参陣」
 - 『信長公記』 - 

四国征伐直前の織田家諸将の配置

<「本能寺の変」後の混乱に、何故、信孝の軍団は瓦解したのか。何故、従兄弟の信澄を襲撃する必要があったのか、妄想してみました。
 信孝が「四国征伐」の信長「御名代」に抜擢された日から、商人や諸大名の贈り物攻勢で、あっという間に大大名のような莫大な財宝を手に入れてしまったと伝わります。
 それから、信孝が動員をかけた、山城・丹波・伊勢・伊賀の浪人衆は、織田家への仕官を即す、旧敵対者の残党で、元々忠誠心は無いに等しい人達です。その人々を戦場に駆り立てるには、やはり軍資金。
 大火災から復旧し始めている大阪城(旧石山本願寺)の千貫櫓に、「毛利攻め・四国攻め」の莫大な軍資金が眠っていたのではないでしょうか。それを誰が手に入れるか、織田家の台所事情に詳しい惟住長秀も、一番にそこを心配したに違い有りません。
 若手武将の切れ者、津田信澄も当然、「軍資金」を抑えようと動いたことでしょう。
 大阪表での無益な戦い的な表現がされる、「変」後の争乱ですが、その後の天下の鍵を握る争いだったのかもしれません。織田家の重臣達が血相を変える何かが、大阪城千貫櫓にあったのではないでしょうか。歴史家の皆様、如何?>


1568年神戸家養子。1571年家督反対派粛清。

神戸信孝(三好信孝)の家臣団と軍団


(1581年10月~1582年5月) 高野山征伐軍、副将・筒井順慶・定次。軍監・堀秀政。
(1582年4月頃~)四国方面軍大将。軍監・矢部家定。
三好信孝 (1558~1583)(織田・坂)・神戸・三七。織田信長の庶子。次男だが正妻の子ではないため三男にされる。1568年伊勢神戸家に養子に出される。1571年神戸具盛の隠居幽閉(蒲生家預かり)。家老・山路弾正忠の切腹。神戸家を継承する。1573年関盛信の蟄居幽閉(蒲生家預かり)。1574年伊勢「一向一揆征伐」に従軍。1575年越前「一向一揆征伐」に従軍。1577年雑賀攻め従軍。1578年「本願寺攻囲」に従軍。1578年「播磨平定戦」に従軍。1581年10月から紀伊国の背山(鉢伏山)城在番、「高野山攻め」。高野七口を封鎖。多和城築城。1582年阿波の三好康長から養子に求められる。1583年4月秀吉の為に野間で自害。<1581年兄・織田信忠が畿内の戦線から、東海地方に転じてからは、紀州や南大和の宗教勢力・高野山に対して、「御番役」もしくは信長「御名代」的な立場だったのでは?><「天下人」秀吉と戦い、事績が抹消・または汚されたのでは。><「四国征伐」については柴田勝家や、滝川一益の命じられた「御番役」(方面軍軍団長)の地位ではなく、その上位、信忠・信雄についで三番目に信長「御名代」を仰せつかっていると解釈したいところです。それならば四国征服戦に実質的な御番役は誰となっていたことでしょうね。三好康長か、惟住長秀か、蜂屋頼隆か、津田信澄か。>

(挿図予定)

信孝が継承する予定だった、細川下屋形の執事・三好家の系譜。信孝は三好元長の弟、康長の跡職に入る予定。婿養子などの案もだされていたのでしょうか。

<信孝の一門(連枝衆)・側近衆>

 *織田家縁戚
*小島* (*~1583*)(坂)・兵部・兵部少輔。信長側室・坂氏の息。信孝の異父兄弟。信孝の後見人。信孝家臣。家老として各地を転戦。高岡城主。1583年神戸城留守居。林与五郎軍に降伏する。以後消息不明。<柴田家家老の小島若狭守との関連が気になるところです。><のち蒲生氏郷の重臣にも「坂」姓だった武将が居ます。>

長尾一勝 (1550~1619)山路種常・久之丞・隼人正。伊勢の豪族。小島兵部の家老。高岡城主・山路紀伊守・正幽の息。兄に山路正国。信孝家臣。のち福島家に出仕し「福島三家老」のひとり。

*幸田孝之 (*~1583)彦右衛門。信孝の乳兄弟。信孝の後見人。信孝家臣。家老として各地を転戦。美濃で秀吉方の稲葉家との合戦で戦死。

*織田信兼 (*1558~1583)津田信廉・新八郎。織田信勝の息(次男)。津田信澄の弟。父・信勝は1558年に暗殺される。柴田勝家に養育される。信孝家臣。「本能寺の変」の信澄事件には連座せず。三好(神戸)信孝に仕え信孝の直臣として殉じた。<父上の死亡年から逆算。大坂に兄・信澄とともに四国渡海の準備でいたとすれば、変後に光秀の同心として討ち取られていてもおかしくないので、元々兄とは別行動で三好信孝に出仕していて、近くの馬廻りにいた信頼から生きながらえたか。><兄・信澄とは分離して部隊を率いれる器量ということでしょうか。>

駒井重勝 (1558~1635)八右衛門・中務少輔。近江国粟田郡駒井出身。信孝家臣。信孝の右筆を勤める。のち秀次、前田利長に出仕。<近江流出の人材。>

<信孝の家老衆>

1568年信孝付き「四家老」。
岡本良勝 (1544~1600)平吉郎・太郎右衛門・重政・下野守。熱田神宮の社家一門。信孝の母方の叔父。1568年信孝の神戸家養子に坂口縫殿助とともに付家老として従う。信孝家臣。2万石。峯城主。<津島の岡本家でしょうか。>

*坂 * (*)仙斎。信孝家臣。四家老のひとり。<信孝の母方の一門か。小島氏とも関連ありか。>

三宅* (*)権右衛門。信孝家臣。四家老のひとり。<三河の三宅か、美濃の三宅か。明智氏とも関連ありか。>

山下* (*)三右衛門。信孝家臣。四家老のひとり。<1569年伊勢に出陣し大河内城を囲んだ織田軍の中で、柴田とともに配置された山田三左衛門(山田勝盛)と名が似ているので、事績が混同されている事はないのでしょうか?。本能寺の変後の柴田勝家と神戸信孝の仲良しぶりからすると、古くから後見人的な立場に柴田がいるような気配がしますが、どうでしょう?>

坂口* (*~1570)坂田・縫殿助。信孝家臣。元・四家老のひとり。1568年神戸家養子に岡本良勝とともに付家老として従う。神戸家から信長直参に復帰し、1570年11月近江堅田で坂井政尚とともに討死。 <江北の戦場に何故いたのでしょう。>
 

(譜代家老)


末松* (*)吉左衛門尉。信孝家臣。
立木* (*)信孝家臣。<信雄付きの立木久内の一族でしょうか。>
河村* (*)信孝家臣。<津島の河村家でしょうか。>

(高野山攻略・与力衆)


岡田重孝 (*)助三郎・小三郎・長門守・直孝・直景。尾張星崎城主。岡田重善の息。織田信長直参馬廻衆。1573年朝倉氏追撃戦に軍功。1581年10月信孝に従い高野山攻囲。紀の川口。1582年1月大和口から高野侵入。敗退。のち信雄家臣。<信秀時代からの古参の岡田家です。「孝」は信孝から与えられた一字か。><のちに北畠信雄に出仕するも秀吉に通じたとされ誅殺される。>

竹田藤内 (*~1582)1581年10月信孝に従い高野山攻囲。1582年4月麻生津口の飯盛山城を攻撃し戦死。<信長奉行の武田左吉の一門でしょうか。のち左吉は土方彦三郎の弟を養子にし、更にもう一人の養子、下方貞清の息・武田喜太郎(左吉の養子)は本能寺に戦死。>


 <信孝の軍団・北伊勢神戸衆> 

(1571) 1/*:近江日野に蒲生賢秀の計略で神戸具教を幽閉。神戸家内部粛清、山路弾正殺害。伊勢長島一向一揆勃発。鹿伏兎・峯の当主は1574年の伊勢長島一揆征伐に従軍し戦死。

⇔▽神戸具盛 (*)左衛門尉・蔵人大夫・友盛・楽三。六角氏旧臣。政郷の息。神戸家養子。1568年織田信長の三男、信孝を養子とする。伊勢神戸城主。1559年関氏と同盟し、長野具藤・北畠具教軍と抗戦。長野軍を破る。1571年信長の命で蒲生氏の日野城に退去。1582年織田信孝の四国出陣に留守居を任される。息に(北畠)長盛、(赤堀)具之、利盛。<次男・治部少輔は赤堀氏の養子。>

赤堀具之 (*)具盛の息(次男)。1559年長野具藤・北畠具教軍と抗戦。波瀬具之に赤堀城を奪取される。<父と同様に1582年復帰か。>

(神戸一門衆) 赤堀・山路(長尾)・国府・峯・鹿伏兎。

国府* (*)佐渡守。神戸家与力。神戸一門。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。国府城主。

⇔▽国府盛種 (*)次郎四郎。国府盛邑の息。のち神戸信孝の与力。幼少の為、家老の国府市左衛門、打田新右衛門が四国征伐に従軍し摂津在陣。のち信雄家臣。

* (*)筑前守。神戸一門。峯城主。

峯 * (*)与八郎・興八郎。神戸一門。峯八郎四郎の舎弟。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。神戸家与力。峯城には岡本良勝が入城。

鹿伏兎* (*)加太・左京佐・左京亮。神戸一門。1568年瀧川一益の北伊勢攻略に従う。鈴鹿郡加太城主。鹿伏兎家は神戸信孝の与力。<名は定長か、定家か。>

(神戸家譜代480人衆の15頭)

『勢州兵乱記・神戸録』 1571年神戸家老・山路弾正忠は信孝の家督相続に反対し自害。

堀内* (*)神戸家与力。<熊野新宮の堀内は縁戚でしょうか。>
河西* (*)神戸家与力。

太田* (*)監物。旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。1571年1月所領を安堵され信孝に出仕。伊勢河曲郡若松南村を領する。

高田* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。
村田* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。

岡田* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。<尾張星崎の岡田氏とは縁戚でしょうか。>

高瀬* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。
佐藤* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。
佐々木* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。
岡部* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。
疋田* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。
馬路* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。
片岡* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。
伊東* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。

古市* (*)旧神戸家譜代の臣。信孝に出仕した神戸480人衆の長。<松永久秀、瀧川一益家臣にいる古市氏は一門か。>

<信孝の軍団・伊勢衆>


関 盛信 (*~1593)宗一・中務大輔・安芸守・盛宣・入道万鉄。六角氏旧臣。伊勢国衆。神戸家とともに蒲生定秀の娘婿。1573年近江日野の蒲生氏の下に蟄居。1574年8月樋口直房を討つ。1582年四国出陣に親子で動員される。伊勢の亀山城主。< 関家は甲州征伐に従軍、瀧川与力もしくは遊撃的軍団カ。瀧川一益軍団(家中?)から転出か。><関盛吉(一利)は柴田勝豊の家老。関=柴田のパイプ。>

▽宇野部* (*)関家家老。

▽岩間* (*)八左衛門。関家家老。関兄弟の家督争いに、3男・盛吉(一利)を擁立。のち秀吉に反抗し、瀧川一益、国府氏と結んで謀反。

⇔○関 一政 (*~1625)四郎。右近衛太夫・永盛。長門守。関盛信の息、1574年兄・盛忠に代わり関氏家督。1574年8月樋口直房を討つ軍功。1582年三好(神戸)信孝の「四国渡海」に動員される。三好(神戸)信孝の与力。のちに蒲生氏郷与力。<甲州征伐後に三好(神戸)信孝の与力に転身。>

▽葉若* (*)藤左衛門。一政の側近。関家家老。

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