慶長3年(1598)11月10日は慶長の役で釜山に撤退する小西行長軍が朝鮮・明軍に海路を封鎖された日。秀吉死去による帰国の最中でのこと。立花宗茂や島津義弘らの救援により行長は無事帰国できた。秀吉死去を知った敵が和議成立後に退路を塞いだ。攻めるより退くほうが難しいといいますね。
文禄5年(1596)9月2日は秀吉が朝鮮への再出兵を決めた日。2年後の秀吉の死で撤退するまで続く慶長の役。秀吉が何を考えて出兵したのか昔からいろいろ言われていています。大名達も皆が海を越えたかったわけではないでしょう。上から無茶振りされた時にどう振る舞うかは難しい問題ですね。
慶長3年(1598)11月10日は慶長の役で釜山に撤退する小西行長軍が朝鮮・明軍に海路を封鎖された日。8月の秀吉死去による撤退指示で順次帰路についていた最中でのこと。立花宗茂や島津義弘らの救援により行長は無事帰国できた。日本側の内情を知った朝鮮・明水軍が和議成立後に退路を塞いだ。
文禄5年(1596)9月2日は秀吉が明使節の沈惟敬らと面会し朝鮮への再出兵を決めた日。前日に使節から渡された明皇帝の国書が秀吉の要求に対して何も答えていないことから両国の外交担当が偽りの情報を上げていたことが発覚。2年後の秀吉の死により日本軍が撤退するまで続く慶長の役がはじまる。