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【ガイドブックに載っていない韓国旅行案内】驚きの熊川倭城

初稿:2024.08.16
更新:2024.08.16

(この記事は7,253文字です)

(以下の内容は、2008年に韓国を訪問したときの記録です。今日では、行政区、道路などが大きく変わっている部分があります。そのことをご承知いただいた上で、お読みいただけたらと思います。)


倭城を訪ねて

 豊臣秀吉が朝鮮に侵攻した文禄ぶんろく慶長けいちょうえき(文禄の役1592~1593年・慶長の役1597~1598年 韓国では、壬辰倭亂[イムジンウェラン 임진왜란]、丁酉再亂[チョンユジェラン 정유재란]と呼ぶ)の時に、朝鮮半島南部には日本軍がいくつもの城を築いた。
 これらの城は「倭城(왜성 ウェソン)」と呼ばれていて、400年以上の時を経た今日でも、いくつもの倭城が残っている。
 ひとつ倭城を訪ねると、他の倭城も見てみたくなり、韓国に行くたびにあちらこちらの倭城を訪ね歩いた。蔚山倭城、機張竹城里倭城、西生浦倭城、釜山鎭城、順天倭城などの倭城である。
 韓国旅行のガイドブックに紹介されていることが少ないため、たどり着くのにもひと苦労する場所もあった。
 しかし、最寄りの駅や町に着いて、道を尋ねながら倭城を目ざすことは、その過程が後々のちのちまで思い出として残ることになった。

韓国に着いてすぐ晋州へ

 倭城のひとつに、「熊川倭城」(ウンチョンウェソン 응천왜성)と呼ばれるものがあることを知り、行ってみることにした。
  訪ねたのは2008年のこと。
 当時は行政上、「熊川倭城」は、慶尚南道鎮海市(チネシ 진해시)にあった。
 2008年7月24日、日本から仁川空港に着いた後、空港鉄道と地下鉄を乗り継いでソウルの高速バス・ターミナルに向かい、夕方6時30分発のバスで、まず慶尚南道晋州(チンジュ 진주)に向かった。
 晋州は、釜山から西に90kmほど離れたところにある。晋州と釜山の中間あたりに鎮海はある位置関係だ。
 「熊川倭城」のある鎮海に直接向かわず、晋州をめざしたのには理由があった。

 晋州に向かうバスの中、通路をはさんで私の隣の座席には、婦人が乗っていた。私がバスの乗車券(領収書)を前の座席背面の網に差し込んでおいたところ、婦人はそれをくれと言ってきた。
 「旅行の記念にするので、あげられません」と断ると、それが会話のきっかけとなって、婦人と話を交わし始めることになった。
 婦人は晋州に住んでいるという。
 私は、自分が日本人で、「壬辰・丁酉倭乱(イムジン・チョンユウェラン 임진정유왜란)の史跡を見るために晋州に行くところです」と自己紹介をした。
 私の発音が悪かったのか、壬辰・丁酉倭乱という言葉がわかってもらえなかった。「李舜臣将軍と日本の豊臣秀吉の戦いです」というと、すぐにわかってもらえた。婦人は、史跡は泗川(サチョン 사천)にあると教えてくれた。「泗川(サチョン 사천)」は、晋州の南に位置する市である。
 私が「日本が造った倭城もあちらこちらに残っているそうですね。見たことがありますか?」と聞くと、婦人は「ない」と答えた。
 私が車窓から外の景色をいっしょうけんめいに眺めていると、婦人は自分の方にある窓のカーテンをめいっぱい開けてくれた。
 私がノートにメモをとっていると、「あげる」と言って、とうがらしスティック5本入りをプレゼントしてくれた。
 夜の10時37分、バスは晋州の高速バス・ターミナルに着いた。
 ターミナルを出て辺りを見回したが、旅館(ヨグァン 여관)を意味する温泉マークが見当たらない。あせりながら歩き回って、やっと一件見つかった。

晋州・泗川は激戦地

 熊川倭城のある鎮海を訪ねる前に、私が晋州を訪ねた理由は、文禄・慶長の役に関係した史跡を見る目的があったからだ。
 晋州(チンジュ 진주)は、文禄の役(1592~1593年 韓国では、壬辰倭亂[イムジンウェラン 임진왜란])の時に、日本軍と朝鮮軍の激戦が行われた場所である。
 また、バスの中で婦人も言っていた「泗川(サチョン 사천)」も、慶長の役(慶長の役1597~1598年 韓国では丁酉再亂[チョンユジェラン 정유재란])の時に、激戦が行われた場所である。
 晋州に着いた翌日である7月25日、午前中は晋州市にある「晋州城」・「義巌」、晋州から移動して、午後は泗川市にある「泗川船津里城」・「泗川 朝明軍塚」などの史跡を訪ねた。
 これらの史跡については、いずれ紹介する予定である。

鎮海に泊まろう

 今回の旅行でも、韓国の道路地図を持って移動していた。

『全国道路地図』(現代地図文化社)《注》〈すでに出版社は廃業〉

 地図には「熊川倭城」(ウンチョンウェソン 응천왜성)が掲載されていたが、その周辺がどういう状況の場所なのか、詳しいことがわからない。町の中なのか、畑の中なのか、はたまた山の中なのか。
 特に、その近くに旅館があるのか、ということが重要なことだ。
 熊川倭城は、鉄道の鎮海(チネ 진해)駅からは、距離にして10kmほど離れたところにある。熊川倭城の周辺のことはわからないにしても、鎮海駅の周辺ならば、宿泊できるところがいくつかあるように思えた。そこで、おそらく市街地であろうと思えた鎮海駅をめざすことにした。

 ここまで、鎮海または鎮海「市」と書いてきたが、市になったのは1955年のことだ。それ以前は、鎮海「面」、鎮海「邑」と変遷してきていた。
 2010年に、鎮海市、馬山市、昌原市が合併し、昌原市となった。鎮海市は、現在は昌原市鎮海区になっている。

 私が訪問したのは2008年のことなので、ここでは当時のまま鎮海市として説明を続けていくことを、おことわりしておく。

『全国道路地図』(現代地図文化社)の鎮海市部分

 この地図は2003年発行の地図で、現在(2024年)とは大きく状況が変わっていることを説明しておく。
 鎮海駅は、現在も地図のとおりの場所にある。その南にあった鎮海市庁はなくなり、鎮海市から昌原市鎮海区にかわったことにより、鎮海区庁がかなり離れた場所に建てられている。
 鎮海第一高等学校は、2012年に「熊川高等学校」に校名を変更している。
 熊川初等学校は、2018年に移転し、その場所は2020年からコムネ幼稚園が使用している。
 そのような変化をご承知いただいた上で、お読みいただきたい。 

 『月刊観光交通時刻表』(鉄道旅行文化社 2012年7月以降、出版されていない)で調べると、泗川から鎮海に直接行くバスはなく、泗川から馬山に行き、馬山で乗り換えて鎮海に行くことになった。
 鎮海の市外バス・ターミナルでバスを降りる。旅館は鎮海駅の近くで見つけることができた。

鎮海は海軍の町

鎮海駅と駅前(2008年当時)

 旅館に荷物をおいて、町に出てみた。 
 鎮海は、日本が朝鮮を植民地にし始めた初期に、日本海軍の都市として開発をしたところだ。
 1945年の光復後は、韓国海軍の本拠地となっている。ここでは、新兵や下士官の訓練も行われている。
 鎮海の町の中を歩いていると、白い水兵服を着た若者にたくさん出会った。当時、ソウルを歩いていると迷彩服を着た若者にたくさん出会ったが、鎮海では白の水兵服だ。水兵服は、どこか可愛らしく感じられた。
 熊川倭城のことを聞こうと観光案内所を探したが、見つからない。
 熊川倭城に行くにはどうしたら良いのだろう。

鎮海から熊川へ

 泊まった旅館は、夫婦が経営していた。年齢は夫婦とも60代くらいに見えた。おじさん(アジョシ)とおばさん(アジュマ)だ。
 観光案内所が見つからなかったので、次に頼れそうな人として旅館のアジョシに地図を見せながら、「熊川倭城に行きたいのですが、どう行ったらいいですか」と聞いてみた。
 アジョシは、バスの停留所の位置と、そこから乗るバスの番号、「熊川(ウンチョン 응천)」というところに行くとよい、ということを教えてくれた。
 2008年7月26日、朝早く起きて、「熊川(ウンチョン 응천)」に行くバスに乗った。

 熊川(ウンチョン)は、小さな町のように見えた。

熊川の鎮海第一高等学校(現:熊川高等学校)のすぐ近くの交差点(2008年)

 バスを降りて、あたりを少し歩いてみると、鎮海第一高等学校(現:熊川高等学校)と熊川初等学校(現:コムネ幼稚園)があった。

 地図にも、鎮海第一高校と熊川初等学校が載っている。
 その2つの学校の間の道が、海の方にのびているようだ。海の方、地図でいえば下方向、つまり南の方角に歩いて行くと、熊川倭城に近づいて行けそうだ。
 途中に「삼거리낚시」(日本語にすると「三叉路釣り」)という看板がついた黄色い建物があった。釣具店なのだろう。そこのおじさんに道を尋ねた。

「삼거리낚시」(「三叉路釣り」)

 「熊川倭城は、どの方向ですか?」
 「あそこだよ」
 おじさんは、南の方向を指差した。指の先の方向に小さな山が見えた。一時間以内には頂上まで辿りつけそうな山に見えた。
 教えてもらった道を歩いて行くと、途中、「熊川倭城」という看板があった。一つの史跡として案内がされているようだ。

ところどころに「응천왜성(熊川倭城)」の案内板がある。ここは矢印が右を指している。

 道は工場のような場所の脇を通り、この道で良いのかとちょっと不安になりながらも歩いていくと、熊川倭城の看板が山の中に続く道を指しているところがあらわれた。

右の細い道に入る。ここを通ったときは、朝の7:41

 山道が始まった。林道で、車が上って行くことができる幅がある。前日、夕立があったからだろう。林道は湿っていた。
 途中、また「熊川倭城」の標示があらわれて、林道から細い山道に分岐していく。人が歩く登山道というような道だ。

 山の木々は密生していた。天気は曇っていて、木々の下は暗く感じられるところもあった。今、山には私一人しか入っていないようだった。

 韓国の人には失礼な話になって申し訳ないのだが、私は少しばかり恐怖を感じ始めた。このまま歩いて行って、強盗に襲われたとしたら、私は誰にも知られることなく、山の中に埋められてしまうかも知れない。宿泊客の日本人が帰って来ないと、旅館のアジョシが心配し始めるのは、いつごろになるだろうか。
 『殺人の追憶』という韓国映画をご覧になったことがあるだろうか。その映画を見てから、私は人気がない場所を一人で歩いている状況が、恐ろしく思えることがあるのだ。
 このときも、人通りがなく、民家もないところを、たった一人で歩いている怖さを感じていた。
 このまま先に進むか、もとに戻るか。
 しかし、ここまで来て、熊川倭城をこの目で確かめずに帰るわけにも行かない。強盗が現れたら、何とか抵抗を試みよう。勇気を出して、先に進んだ。

突然現れた石積み

 「倭城だ!」
 山の頂上から下に延びてきているように見える石積みがあった。きれいに石が積まれている部分もあったが、ほとんどは崩落しているように見えた。城のどういう部分であるのかわからなかった。上の方は、どこまで続いているのか見ることができない。

ここを通ったときは、朝の8:00

 移動しながら角度をかえて写真をとった。崩落した石積み。城には見えない。それ以上の期待をすることもなく、さらに山道を登っていった。
 薄暗い木々の中に、石垣のようなものの影が突然見えてきた。

 その時、突然、聞き覚えのある音を立てて何かが私の頭に襲ってきた。
 「クマバチだ」
 私はあわてて頭の周りで腕を振った。手に持っていたタオルを必死に振り回した。タオルに激しく当たったのか、幸いクマバチは去っていった。本当にクマバチだったのか。一瞬見えた黒い虫の姿と羽音と腕に当たった感触からそう感じられたのだ。
 「熊川の熊とは、熊バチのことなのか?」
 韓国語で熊バチのことを何と言うのか知らなかったが、勝手に解釈をして恐ろしくなった。もしここで熊バチにさされたら、止血して一人で山道を下っていかなくてはならない。病院はすぐ近くには、なさそうだ。
 熊川の熊が、クマのことだったら、もっとたいへんだ。単独で初めての山中に入ることの危険性を感じ、恐ろしくなった。
 (後日調べると、クマバチは韓国語では「어리호박벌 オリホバクポル」だった。熊川という地名が、昆虫のクマバチや獣の熊と関係しているという説は発見できず、私の勝手な想像にすぎない。)

大規模な城

 さらに先に進むと、眼前の林の中に、ゆるやかな曲線を描いた日本の城と同じような石垣の巨大な影が見えてきた。規模が大きいものだった。
 写真を撮りながら歩を進めた。城の石垣がたいへんな規模で残っている。腕に本当に鳥肌が立ち始めた。

ここを通ったときは、朝の8:12

 蔚山倭城、機張竹城里倭城、西生浦倭城、釜山鎭城、順天倭城など、いくつもの倭城をこれまでに見てきた。その中では西生浦倭城が、何重にもわたる城内の石垣を残していることに圧倒されたが、熊川倭城はそれに次ぐ規模であるように思えた。西生浦倭城以上の残り方をしている部分もある。鳥肌が続いた。
 自分が立つ位置を変え、カメラを向ける角度を変えてシャッターを切った。交通の便が良くないこの場所に、倭城が残っていた。

熊川倭城の説明板。ここに着いたときは、朝の8:30

 熊川倭城の石積みの最上部の辺りには、史跡としての説明板が立てられていた。
 そこには次のような内容が書かれていた。

熊川倭城
慶尚南道 記念物第79号
慶尚南道鎮海市南門洞

 ここ熊川倭城は壬辰倭乱の時、倭軍が長期戦に備えて我が国に築いた18個の城の一つだ。ここの地形は海側に突き出ており、北には熊浦湾を挟んでいるため、倭軍が数百隻の艦船を停泊させるのに適していた。また、安骨浦、加徳島、巨済島などに駐屯していた倭軍との連絡も便利で、本国との距離も近いため、軍事駐屯地として有利な地域だった。このため、倭将小西行長はここに陣を張って倭軍の第2基地として使用した。日本統治時代に出版した『古跡調査資料』によると、1592年(宣祖25)に加藤清正が城を築いたとされているが、以前からあった城を倭軍が改築したのではないかと考えられる。
 城の構造は日本式で、山頂に本城を置き、下側に稜線に沿って第1外廓、第2外郭をそれぞれ配置した。 そして陸地側の防備のため両側にもう一つの城(羅城)を置いた。本来、城の広さは約15,000㎡程度で、高さは地形によって約3~8m程度だったが、大部分が毀損し、今日は稜線と山頂部分に長さ約700~800m、高さ約2m程度だけが残っているだけだ。この城は南山倭城とも呼ばれ、今まで補修したことがないため、16世紀の倭城研究に良い資料になる。

熊川倭城説明板

 説明中に、本来の城の広さは15,000㎡だとある。
 数学の話になるけれども、単純に15,000のルート(平方根) を計算すると、約122になる。この城の敷地の形がほぼ正方形だったとするなら、1辺が122mはあったことになる。

海が見える場所もある

 熊川倭城の石垣を見ていると、規模の大きな城の姿が想像できた。
 これだけの石を、いったいだれがどこから運んできたのだろうか。

 この倭城を海側の山の斜面から見上げるように写真に撮れないだろうかと思った。山道を途中まで引き返し、林道まで戻り、林道を先に進んだ。
 先に進んだが、城の石垣の位置まで行く道が見つからなかった。途中、海岸の再開発の計画を紹介する看板が立っていた。

再開発が進んだ熊川倭城の周辺

 この記事を書くにあたり、熊川倭城周辺は、現在どんなようすなのかを調べてみた。2008年当時に計画が紹介されていた再開発は、どうなったのだろうか。
 韓国の地図サービスである kakao map で熊川倭城を検索すると、メニューボタンの「스카이뷰(スカイビュー=skyview)」で、年ごとの変遷を見ることができる機能があることを発見した。

2008年の熊川倭城周辺(https://map.kakao.com/)
2022年の熊川倭城周辺(https://map.kakao.com/)

 これを見ると、2008年当時は海だったところが、2022年には広く埋め立てられて開発されていることがわかる。
 広大なゴルフ場や物流会社の倉庫群ができたようである。これに伴い、熊川倭城の周辺の道路のようすも大きく変わっている。

스카이뷰(スカイビュー)で変遷を見ることができる(https://map.kakao.com/)

 再開発によって大きくようすが変わっていく熊川だが、静かな山の中で倭城は400年以上前の日本と韓国の歴史を伝えている。


 文中、お断りしたように、熊川倭城の訪問は2008年の記録である。
 熊川は再開発によって、道路も建物も町のようすも大きく変わってきた。
 訪問をされる場合には、最新の情報を確認してください。
 naver map や kakao map が、大いに役に立つものと思う。


地図(naver mapへのリンク)

・熊川倭城

・熊川高等学校(旧:鎮海第一高等学校)

naver map で鎮海駅から熊川倭城までの公共交通機関(バス)の経路を調べると、かなり遠回りと思われる経路が紹介される。
鎮海駅から熊川高等学校までの経路を検索し、バスを降り、熊川高等学校からは歩いて熊川倭城に行く、という経路はどうだろうか。私はこの経路で行ったことになる。道を聞いたり、「熊川倭城」の案内板を頼りにしたりすれば、行けそうである。
ただし、naver map では、この記事を書いている時点では、熊川高等学校から熊川倭城までの「自動車」「徒歩」のルートはよいものが紹介されない。

kakao map で検索したところ、熊川高等学校から熊川倭城までの「自動車」ルートは、「徒歩」の場合にも使えそうである。

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