徳川家康さま☘️をたどる#58☘️家康さまの人心掌握とデモンストレーション
初筆 2023年 11月 4日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける: #徳川家康さまをたどる #58
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1 コンセプト
#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康さま やその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
# 三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
# 信長公記 / #太田牛一 さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
#羽柴秀吉 さまと #関白 職を継いでいた #羽柴秀次 さまは原因不明の不和となり、秀次さまは高野山にて自害💦秀吉さまは謀反として取り扱った。
秀吉さまは秀頼さまへの忠義や日本の統治ルールを盛り込んだ #起請文 #掟書 などを諸将に書かせた。
秀吉さまは #徳川秀忠 さまに養女のお江を嫁がせて家康さまと親戚関係を強化
#唐入り の続き #慶長の役 が秀吉さまによって始められた
⬇️前回はこちら❗️
3 秀吉さまご逝去
1598年・慶長3年8月、秀吉さまは
お亡くなりになりました。
家康さまは秀吉さまの死の病床に呼ばれて
「秀頼を頼む」と託された、と言われています。
この秀吉さまの言葉の背後には、
気のおけない仲間に物事を頼む、
という意味合いではなく、
秀吉さまは家康さまを軍事・政治・経済・人望・家臣団
すべての面で実力者と認めた上で、
「時期天下人家康どのに、秀頼さま行く末を頼む」と
いう意味で語ったとも言われています。
そして秀吉さまはお亡くなりになりました。
4 慶長の役の後始末と影響
秀吉さまがお亡くなりになったとき
政情は不安定でした。
秀吉さまお亡くなりの翌月
1598年・慶長3年9月に五大老・五奉行が揃って
秀頼さまへの忠誠を誓う起請文がしたためられました。
このとき既に家康さまと五奉行の間に
ささやかな行き違いが始まっていたようです。
そして家康さまはこの後の天下について云々考える前に
まずは朝鮮半島からの日本兵の撤退事業のサポートが
待ってました💦
と、言っても実際、指揮を取るのは
五奉行うち #浅野長政 さまと #石田三成 さまで、
お二方は九州に下向なさいました。
ここで官僚である石田三成さまと、
朝鮮半島に渡っていた #黒田長政 さま #加藤清正 さまが
ぶつかります。
軍事指揮官である武断派諸将と三成さまは
こののち不和をどんどん大きくしていきます。
三成さまは、ロウを労う、などの重要な会話をせず、
また必要な説明などもまったくなし、
武断派諸将といい関係を構築できないタイプだったのです💦
ここで家康さまが登場。
家康さまはかつて織田信長さまと同盟関係にあり
また🆚武田氏やあるいは羽柴秀吉さまと
戦を交えてきた行きながらの戦国レジェンド
になっていました。
武断派諸将は、三成さまへの不平不満を
実感をもって聞いてくれる家康さまを慕うのでした。
家康さまは百戦錬磨、戦場のことは何でも
わかってくれたのです☺️🤚
このとききっと家康さまは
徳川家臣団だけではなく、
豊臣政権に近しい元は秀吉さまのご家臣も
自分を慕ってくれる諸将は多い、とお感じに
なったことでしょう。
この状況は使える❗️ともお考えになったかもです。
唐入り、文禄の役・慶長の役は
日本、特に西国大名にとっては各惣国が
荒廃し人心も不安となり、天下静謐を
仕切り直す必要がありましたが
家康さまにとっては以下のような大きなメリットが
ありました。
徳川軍は渡海していないために軍費や兵力を温存できた。
豊臣恩顧の大名うち、五奉行特に石田三成さまと、武功派たとえば加藤清正さま・ #福島正則 さま・黒田長政さまの間に亀裂が走った。
武功派の豊臣恩顧の諸将の人心を掌握することができそうなのがわかった
家康さまはこののち、これらの状況を
うまくコントロールしていきます☺️🤚
そして1598年・慶長3年の末には朝鮮半島からの日本兵撤退が完了しました。
5 家康さま、仕掛ける❗️❗️
1599年・慶長4年1月早々、
家康さまは秀吉さま生前に御法度と定められていた
大名同士の婚姻を進めていきます。
#伊達政宗 さま
福島正則さま
#加藤清正 さま
#蜂須賀家政 さま
#黒田長政 さま
のお世継ぎに徳川家ゆかりの姫君を
輿入れさせていきました。
家康さまはついに豊臣政権の切り崩しを
始めたのでしょうか❓❗️
そうとも言えるし、しかしながら、
禁を犯しても大名同士の婚姻を進めることで
唐入り後の武功派諸将の憤りを緩和する効果もあり、
ひいては政情を安定させることにもなります。
さらに家康さまは、細川忠興さま・島津義弘さま・
など諸将の屋敷に頻繁に訪問し、諸将の気持ちを
掌握していきます。
あえて禁を犯して大名同士の婚姻を進めたのは
唐入り後の武功派大名を自分の懐に取り込むのも
狙いつつ、諸大名とのいい関係を構築することが
豊臣政権の安泰につながる、という
公の理由もあっての、禁破りという
うまい方法を家康さまはお取りになりました🥰
このあたり、このころから特に家康さまの
ブレーンとなっていった #本田正信 さまの知恵も
少なからずお使いの家康さまでした。
6 襲撃されそうになる、という家康さまのデモンストレーション
そして家康さまを除く五大老うち四大老と五奉行は
家康さまの大名同士婚姻のルール違反を激しく非難、
家康さまを糾問するために家康さまのお屋敷に
中老を派遣しましたが、家康さまはこれを恫喝・一蹴
石田三成さまは家康さまを武力で討とうと
動き出しますが、この三成さまの動きに対して、
以下の諸将が伏見の家康さま邸宅を守るために
参集しました。
#池田輝政 さま
福島正則さま
#黒田如水 さま・長政さま親子
#藤堂高虎 さま
#森忠政 さま
#有馬則頼 さま
#金森長近 さま
#織田有楽斎 さま
#新庄直頼 さま
#大谷吉継 さま
このころ既に家康さまのご人望は大したモノで
唐入り時の肥前名護屋や秀吉さま生前の京大坂から
スタートした家康さまの人付き合い(日本の付き合い)
が誠に活きてきてます❗️❗️
これらの諸将は、徳川方として行動したのです、
どうやったら豊臣恩顧の諸大名を徳川方として
動かせるか、のテストケースを、家康さまは
まさに実験してみせました❗️
そしてこのテストケースの締めくくりに
1599年・慶長4年1月末には、関東領国より
#榊原康政 さま率いる大軍勢が伏見に駆けつけました❗️
天下の政務を司る政庁、伏見城周辺に
家康さまのために軍勢を率いて参集する諸将、
関東からは家臣の大軍団がかけつける❗️
いざとなったら、家康さまの周りには
これだけの人が集まる❗️ということを示す
一大デモンストレーションとなりました❗️
これが家康さまの諸大名婚姻作戦の結果です。
家康を除く四大老・五奉行は
家康さまのルール違反を取り締まることを
世間に広く知れ渡るように、喧伝すべきでした、
家康さまの人望が上がり、それが諸将や庶民にまで
知れ渡るようにした家康さま❗️❗️
このころの家康さまはきっと
このデモンストレーションをキチンと意識し
計画通り遂行する人物になっていたことでしょう❗️
7 事態の収集
伏見城周辺の空気は一触即発状態の中、
四大老・五奉行🆚家康さまは
1599年・慶長4年2月に入ってスグ昵懇を心がけ、
秀吉さまお亡くなり直後の誓約を遵守することを確認、
これも起請文を交わし、事は収まりました。
そして家康さまが各諸将と結んだ婚姻関係は
不問とされました😉🤚
また秀頼さまの傅役でもあった #前田利家 さまは
その後、事態収拾に念を押すために
病を押して、伏見の家康さま邸を訪問なさりました。
家康さまも利家さまの邸宅を訪問。
両陣のトップ同士が相互訪問することで
表向き事態は収集したかに見えました。
そして家康さまはこの騒動を理由づけとして、
伏見の屋敷を伏見城内の一郭にある向島に移しました。
そんなとき、家康さまを抑えることができる
唯一の前田利家さまがお亡くなりになりました💦
そして次には、唐入り時の現場を知らない
五奉行の政治運営に不満を持つ武功派武将が
石田三成さまを大坂で銃撃しようとすふのでしたっ❗️❗️💦
8 次回
大坂にて武功派諸将に屋敷を襲撃されそうになる
石田三成さまは屋敷を脱出、伏見に向かいました❗️
これは家康さまにとってはラッキーチャンス❗️❗️
家康さまが事態収拾すれば、
家康さまの人望はさらに上がります🥰
で、この事態のお捌きはどうだったのかー❓❓❓
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