日比野は涙で頬を濡らした。なんと! 今年は教授がマンツーマンで卒論指導に当たってくれるとのこと。きっと俺に可能性を感じてくれているのだろう。ふっ、このまま研究の後継者になるのも悪くないな。 「違う、今年で卒論3年目だぞ? いいかげん卒業してくれ!」
日比野は昭和歌謡の流れる喫茶店で午後のひとときを過ごしていた。ふと聞き馴染みのある曲が始まる。 (待つわ〜)「「待つっわ〜」」 日比野の歌に被さってきたのはマスターの声だった。 「アンタも、後ろコーラス派?」 「ふふ、譲りませんよ……マスター」 睨み合うふたりは一触即発だ。
日比野はやる気を漲らせた。 世界は確実に悪い方向へ向かっている。俺が踏ん張るんだ。次世代の子ども達のために。ステキな未来を贈ってやるんだ。目の前で物悲しげしているこの子のためにも、俺が悪い流れを断ち切ってやるんだ!! 「ねー、お兄ちゃん。そろそろUFOキャッチャー替わってよ」
ピークタイムを過ぎた町中華店。皿を抱えたバイト仲間の女子が洗い場になだれ込んできた。 「日比野くんは選挙行った?」 「もちろん。ちゃんと記名してきたよ!」 蛇口から流れ落ちる水が皿を打ち続ける。 「……ねぇ日比野くん、まさか自分の名前を書いたりしなかったよね?」 「え、違うの?」
日比野は床に胡座をかいてボソボソ呟いていた。ミズ…カンヅメ…カンパン……災害用非常食を詰めていた。しかしリュックを見下ろしていると妙な記憶が蘇ってくる。アレは…アレは非常食に含まれるのか!? ─2週間後─ ドンドンドンッ 「日比野さん、部屋から腐ったバナナの臭いがひどいですよ〜」
日比野は真っ青になった。 お冷はある、おしぼりもある、しかし注文したパスタが来ていない。伝票もない。つまり… 俺はいつの間に死んでいたのか。幽体が見える店員さんが優しく接客してくれたのだろう。さよなら現世。日比野は店を後にした。 「ねぇあのテーブルお冷だけあるんだけど」 「こわ」
日比野はドギマギしていた 「あのね日比野くん…ち…ち…ちゅ…あぁ!ダメやっぱ言えない!」 バイト仲間の言う「ちゅ」とは何だ? まさか! 俺にもとうとうアノ日が訪れるというのか 「お、落ち着いて、ゆっくり」 「ちゅ…中華料理じゃなくて本格的な中国料理店で修行したいの!」 ですよね〜
日比野は腹を括った。 「お、お花見とか興味ある?」 「いいね、行こうよ!!」 あまりにすんなり事が運んで彼は拍子抜けした。 「じゃあ桜を見れるカフェを探してみるよ」 「え……花は梅、菓子は月餅、花見にはやっぱ紹興酒でしょ?」 しまった、バイト仲間の彼女は弩級の中華フリークだった。
日比野は絶望の底に突き落とされた。カフェの隣席で繰り広げられている女子の恋バナが、外国語にしか聞こえなかったのだ。分からない、悔しい、俺だって……俺だって……恋に恋バナに楽しみたい! 「で、彼女欲しさにシンハラ語教室にやって来た、と。なぜ数ある言語からシンハラ語を選んだ、おい?」
なんと日比野の母が失踪した。 父子は互いの体たらくを罵ったが、5日も過ぎて慰め合うようにもなった頃、京都の病院から突然連絡が入った。餓死寸前で倒れていた母を保護したと。 生きてて良かった!でもなぜ京都に? 母は涙ながらに語った。 「だって…嵐山に来れば嵐に会えると思ったんだもん」
日比野は困り果てた。ホラー映画を観てから風呂に入れなくなったのだ。鏡も排水溝も換気扇も……怖い。彼は仕方なく、あらゆる所にガムテープで目貼りをした。 3日後、浴室はカビで充満し、床には流されなかった髪の毛。湿度でテープは無様に剥がれ、鏡にはいよいよおぞましい何かが映るようだった。
日比野はソワソワしていた。久々に訪れたカフェ、4人掛テーブルはアクリル板で仕切られていた。一度でいいから、どうしてもやってみたいことがあったのだ。 「お客様、ご注文は?」 「姉さん…俺のことは忘れて自分の人生を生きてくれ。もうここには来るな……」 「おい拘置所の面会ごっこやめろ」
日比野はすっかり疲弊していた。 引っ越し屋のアルバイトを掛け持ちするようになって1ヶ月。日々疲労が抜けず、褒められもせず、デクノボーと呼ばれ…… 心が参っちまった。 もうどこかへ逃げてしまいたい! 「あのなぁ日比野、遁走するのにバイト先の引っ越し屋に見積もり頼む奴がどこにいる?」
日比野はさめざめと泣いた。実家から電話で「帰ってくるな」と言われたのだ。 しかたないことだ。留年穀潰しのこの俺を愛してくれなど言えるはずがない。 根無し草、もう放浪の旅に出よう。 ふと携帯が鳴り、母からメールが届いた。 「不要な外出も控えること」 母は息子の性格をよく知っていた。
日比野は昂奮していた。バイト先の中華料理店から、テイクアウト用チラシのデザインを頼まれたのだ。 巡ってきたチャンス、掴めば自信に繋がることだろう。なんだかワクワクしてきたゾ! しかし日比野案はボツになった。 「店長!なんでですか!?」 「これじゃあドラゴ◯ボールのキャラ紹介だよ」
日比野は次第に青ざめていった。 車両にひとりぼっちだ。 こ、この状況はテレビで見たことがあるぞ。異世界への扉が開かれようとしているに違いない。俺はいったいどんな駅へと連れて行かれてしまうのか…… 怖い…誰か… 「ギャーー幽霊っ!」 日比野の青ざめた顔を見て車掌の方が悲鳴を上げた。
日比野はこたつでテレビを見ながら思った。 「このタレント、年末になると急に思い出されたかのように起用されるな……」 なぜだか不快な気持ちが込み上げてきて、手にした蜜柑を握り潰した。そして勢いよくコチラに振り返り怒号を放った。 「おい、矢口!ようやく俺を思い出したな!」
日比野はまごまごしていた。臆病風に吹かれたのだ。しかし臆病風とはどこから吹いてくるものなのか。臆病なら自分の内にあるではないか。いや風なら外界からに決まっている。一体どこから? 脅威からか? しかし脅威は臆病ではない。いや…… 引きこもった日比野は風に吹かれることもなくなった。
日比野は図書館の受付前で満面の笑みを浮かべていた。応対する男は困惑を隠せないでいる。 「わざわざ都内からいらしたんですか?」 「はい探していた資料がここと九州にしかなかったので」 「ここ静岡県ですよ?」 「はい!だから近い方に来ました!」 男は日比野を気味悪がった。なんだコイツ?
「ほぅ…」 日比野は梨を食べながら唸った。 「梨を『無し』とかけて忌み語として、避けて『有りの実』という呼び方があるとは…実に興味深い」 ふと、とある人気女優が出演するCMが流れてきて、日比野に衝撃が走った! 「そうか、彼女も忌み語を避けたんだな。本名は『無村架純』に違いない!」
日比野は部屋の片隅で体育座りをしていた。大学はオンライン、バイトのシフトはだいぶ減らされた。 刺激が……刺激が足りなすぎるのだ。 意を決して立ち上がり、ある店の門を叩いた。 「激辛蒙古タンメンひとつ!」 「お客さん初心者でしょ?甘辛にしときな」 日比野のぬるさは見透かされていた。
日比野は浮かれポンチだった。近隣の大型ショッピングモールが営業を再開したのだ。 踊りながらモール内を廻る日比野。 ステップ!ターン!ステップ!! アン!ドゥ!トロワ!! 親子が見ており、子供が後ろから指さした。 「ママァ〜あれ…」 「いいのよ、久々なんだから大目に見てあげなさい」
日比野は浮かれていた。中華料理店の皿洗いを3年続け、副菜作りの許可を得たのだった。嬉しくなって厨房のメンツに皿洗いの期間を聞いて回った。 「俺は半年だったかな」 「私は3ヶ月」 ……やはり俺には皿洗いの才能があったのだ! そんな俺が厨房に入るのだから大いに期待されてるに違いない!
日比野は太極拳のオンライン講座を受けてみることにした。人生は挑戦だ! 画面越しに老師と対峙する。 「今日は基礎から。右膝を曲げて…手は下から円を描く…左足を踏み込んで…方向変えて…」 しばらくして、老師は日比野を見て驚愕した。 「なぜだ、なぜ手足が絡まっておる!?」 「へっ!?」
日比野は大地に膝をついた。また見失った。もう何往復になるだろうか。 いいや俺は諦めない。始まりの場所へ帰ろう。 彼は野原にたどり着くと腹這いになった。よく晴れた凪いだ日だった… ふと前髪が揺れた。風だ、この瞬間だ! 日比野は駆け出した。 「たんぽぽ綿毛!お前の終着点はどこだ!?」
日比野は困惑していた。どうも誰かに見張られている気がする。クスクス笑われているような声も聞こえる。ま、まさか、誰かが俺の日常を書いて公開でもしているのでは… こうしちゃいられない。早くなんとかせねば。 日比野はある場所へ走った! 「あ、あのマネキンが着ている服まるごとください!」
日比野は髪を明るくしてみた。 しかし翌朝、慄いた。洗面台の流しに毛が流れるのを発見したのだ。彼は髪を黒く戻した。 翌日もまた毛は流れた。 また明るくして、また黒くして…… 毛は抜け続けるが、なぜか日比野の髪が減ることはなかった。 「まさか!俺は髪が生え続ける呪いの人形なのか?」
日比野はニヤついた。卒業する2人の友人に餞を考えていたのだ。 彼の誘いで酒場に集まった3人は地ビールを堪能した。しかしその後、日比野は何も言わず満足げな顔で帰ってしまった。 「一体なんだったんだ?」 「多分俺らエール(ビール)を送られたんだよ」 「さすが日比野担当」 「ちげーし」
日比野は勝利を確信した。リサーチによれば女子はこの時期、苺フェアビュッフェに行きたくなる。絶対に。 余裕綽々でバイト先の後輩を誘った… 「わたし月餅か胡麻団子がいい。ねぇ日比野くん、君はいったい何のために中華料理屋でアルバイトしてるの?」 日比野は本気で生きる女子の存在を知った。
日比野は奮起した。4月から俺は生まれ変わるぞ! 資格、語学、就活、筋トレ……やるべき事を数えて歩く。よそ見をしている暇などない! ふと、道端に足を怪我した子犬が泣いていた。その先には風船を木に引っ掛けた子ども、さらにその先には翼の折れたエンジェル…… 俺は、俺はどうしたらいい!?
日比野は立ち止まり黙祷を捧げた。バイトに向かう道すがら。 留年太郎の万年皿洗い。あの日から、何か出来るようになったわけでも、何か言えるようになったわけでもない。 でもな、こうして生きているのは…… 日比野はゆっくり目を開き、そのひと足を踏み出した。誰もが願った平凡な日常へと。
日比野は涙した。路上で人目も憚らず。 そうか、俺は辛かったんだ。留年も決まり…女子にも振られ… 誰も俺の泪を気にも留めない。みんな自分の泪を堪えるのに必死なんだ。 風が吹き荒び、ますます泣けてくる。鼻水も出てきた…帰ろう… 日比野が花粉症の存在を知ったのは、それから3年後だった。
日比野は退屈していた。新学期はまだ先、加えて世間は自粛モードだ。この退屈をしのぐには、 「梅…梅はうめぇ…ふふ。あられのあられもない姿…へへ。三人官女のお勘定、五人囃子の林さん…うひゃひゃひゃ」 その晩、郵便受けに手紙が入っていた。 『日比野くん、独り笑いの苦情が来てます。大家』
日比野はスマホを地面に叩きつける!…すんでのところで止めた。 落選。最近知ったアイドルのチケットが取れなかったのだ。悔しい…スマホの画面で彼女が優しく微笑んでいる。 -松田聖子ディナーショー¥47,000- 「アイドルとは会いに行けるものじゃなかったのか?時代は変わったもんだ!」
日比野は目を見開いた。「嵐」の関連サイトをチェックする母の背中がずーっとそこにある。 幼少期の記憶、忌まわしき呪詛のことばが蘇ってきた。 (ゲームは1時間までって言ったじゃない!…ジャナイ…ジャナイ……ジャ……) あの台詞は俺にではなく、きっと自分自身に向けたものだったのだ。
日比野は扉の前に立った。高鳴る胸の鼓動を感じながら。そこは俳句サークルの部室だ。同級生に誘われたのだ。 よし身嗜みOK。新しい一歩だ! ガチャ… 部員らが日比野の姿を見て爆笑した。 「やっぱりな、ぜってぇ芭蕉コスチュームで来ると思った! 賭けは俺の勝ちな〜」 日比野はただ涙した。
日比野は戸惑っていた。地域文化を問わず人が未来永劫の肉体を求めたことに。ミイラ展を鑑賞した帰り道だった。 自分はいつ消えたっていいと思ってるのに……俺にはミイラの気持ちが分からない! 薬局の店員も戸惑った。 「お、お客様。買い占めは困ります。しかもマスクじゃなくて包帯ぃ!!?」
日比野は喫茶店で唸っていた。 なんだったっけ、アレの名前。 「モルフォン」は蛾のポケモン。 「コロフォン」は希少なクワガタムシ。 「サイモン」はガーファンクル。 う〜ん、う〜ん…… 「お客さま、お会計を」 差し出された伝票の下に、小さく鉛筆で書かれていた。(サイフォン) それだ!
日比野は羨望の眼差しを向けた。毎朝、自転車を並べて走る高校生の男女に。彼にはそんな経験なかった。 翌朝、日比野は自転車を準備した。そして例のカップルが目の前を通り過ぎた瞬間……ヨーイドンで走り出した!! 歩道に3台並ぶ自転車。カップルは困惑したが、日比野の表情は終始満足げだった。
日比野はコソリと足元を見た。五千円札が落ちている。深夜の皿洗い5時間分だ。 辺りを窺うが人っ子ひとり見当たらない。 (くぅ〜ん)しかし野良犬がいた。 小鳥も蟻んこもいた。 太陽も風も木々達も彼を見守っていた。 日比野はお札を拾って交番へと駆け出した! 「あはは素晴らしき世界!!」
日比野は部屋の隅で三角座りをしていた。 留年が決まったことを親に告げられず、帰省しなかった。 ピーンポーン「宅急便です」 箱いっぱいの食料、その上にはメモが置かれていた。母からだ。 〝来年まで東京にいて大丈夫ですよ。ただし嵐のライブの日には泊めて下さい。チケットもヨロピクね♡〟
日比野はわなわなしていた。 アイドル作家がネット炎上している。助けたい。しかしヲタが擁護するほど、アンチは増殖する一方だ。 彼は受話器を取った。 「もしもし119番?火事です!Misakiちゃんち…事務所?…いや…とにかく燃えてるんです、早く来てください!」 「消させん」 「え」
日比野は大地に両手をついた。留年が決まった。失敗だらけの4年間だった。 しかし絶望する彼にふと言葉が降り注いできた。 (Tomorrow is another day…ディ…ディ…) 日比野は涙を拭いて顔を上げた。 かくして4月、彼は新入生サークル勧誘の門戸を叩くことになる。
日比野は困惑した。テキトーにした呟きがプチバズったのだ。街中で偶然聞いた曲を「良い」と呟いただけだった。 味を占めた日比野はそれから「◯◯良い」とだけ呟くようにした。 「カフェモカ、良い」「標識、良い」「地蔵、良い」…… どれも少なからずのイイネが付き、日比野はますます困惑した。
日比野は涙を流した。手には女性作家の小説が大切そうに抱えられていた。女性の感性とはなんと豊かで細やかなことか。こんな文章を書くには一体どうすれば…… 彼の住むアパートに友人らが集められた。 「いいのか?」「い、いくよ?」 剃刀とメーク道具を手にした男女が、日比野にじりじりと寄る。
日比野は邦画にハマった。家に引きこもり、この10年くらいの名作を漁った。そして思った。『死んだ目系俳優』が人気なのだな。体育会系でも王子様系でもないことはありがたい!! 彼はいそいそと外に出て、死んだ目を作ってキャンパス内を歩き回った。 友人らが噂した。「日比野はゾンビになった」
日比野は自信をなくしていた。すれ違う人すれ違う人、みな自分より大きく見えてしまう。 「俺はなんと小さな存在なんだ。もうダメだ。人が怖い……」 日比野は背中を丸め、ますます小さくなって家路についた。 その日、彼が歩いた通りにある施設で、日本ボディビル選手権決勝大会が粛々と行われた。