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アウトサイダー・アート③ ~作品と作者~

……アウトサイダー・アート②の続き

神の見えざる手

 SNSやネットにあふれる「作品」たち、さらには「アウトサイダー・アート」が独自の地位を、世の中において得ているということは、ある事案をはらんでいる。
 それは世間からはまったく認知されていない作品をすくい上げるという行為が、そのまま芸術の売買に直結しているということだ。

 わざわざ、ある一定の理解、つまり公認の美術教育から逸脱した芸術を「アウトサイダー・アート」として、あえて価値を付けるということには、芸術探求という学術的大義名分な側面と、新たな価値の付いた商品を流通させるというマーケットの思惑が交錯している。

 これまで「アウトサイダー・アート」が作品として認知されていなかったのは、美術としての権威を誇示し続けてきた“インサイダー・アート”があったからで、権威を受けていない作品たちは、その権威を守るためにはじかれてきた。
 しかし「アウトサイダー・アート」が注目されはじめると、そこに新たな商品の原石としての価値を見出したのは芸術マーケットだ。

「捨てる神あれば拾う神あり」と言うが、それぞれの神にだって思惑はある、ということだろう。

「作品」として認知される創作物

 さらに思うことは『非現実の王国で』は、ヘンリー・ダーガーにとって、“彼の、彼による、彼のための物語”だ。ネイサン・ラーナーのアーティストとしての見識や、恵まれない芸術に対しての道徳心をきっかけとして、作品が日の目を見たわけだが、ヘンリー・ダーガーの創作物が「アウトサイダー・アート」として、世の中の鑑賞に耐え得る「の美術」の芸術性を持っていたとしても、その成り立ちから示されるこの創作物の本質は、世の中での「評価」とは大きく外れてしまうのではないか。

 彼の半生の支えになった創作というものが、アートとして「成立させられた」のではないか。

 生み出された創作物が「アート作品」として、世の中で成立するということは、「作品」に具体的な意味を世の中が与えるということでもあり、「作品」がアカデミックに「評価」され、マーケットがその「評価」を流通させた結果である。芸術が世の中で成り立つ仕組みそのものを「アウトサイダー・アート」は反映しているように思う。

芸術とマーケットは対局か?

 芸術、さらには「の美術」がマーケットに侵食されていると考えることもできるかもしれない。

 しかし現代において芸術はそのマーケットなしには「世の中における芸術」としての機能を果たさないこともまた事実だ。言うなれば、マーケットが「価値」の流通をしなければ、作品は世に出回らない。
 マーケットや、恵まれない芸術に対する道徳心が介入しなければ、「評価」が世の中で成されない芸術たちを広義の「アウトサイダー・アート」としているのならば、位置付けする基準は不明瞭であり、またある意味では、逆に「価値」を与えることは容易なことになるだろう。
 極端に言うと、SNSにアップされているイラストであったとしても「の美術」の要素が認められれば、広義の「アウトサイダー・アート」になり得るということだ。公認美術教育が過去の観念となってしまった現代において、その「評価」は不特定多数が下す「好み」と同義となっており、具体的な基準などないに等しい。

「作者」と「作品」

 ここまで気取ったことを、それっぽい言葉を使って考えたものの、現代で様々な体裁の作品に触れる身としては、先ほどのマーケットが見出した「価値」に追随せざるを得ない。

 マーケットが流通させる「評価」やその「価値」は、ある意味で新たな発見であるし、我々に影響を与える情報であることは確かだからだ。

 それは作者の存在を名前だけにしてしまっていることになっているのかもしれない。作者とそれ以外とでは、その「作品」に見出す核心にはズレが生じる。作者以外の核心をSNSやネットやテレビといったメディアは拡大して拡散させてしまう。作者はそんなこと考えていないのかもしれないのに、である。

 “彼の、彼による、彼のための物語”を生み出したヘンリー・ダーガーは真の芸術家なのかもしれないが、それも「アウトサイダー・アートの王」という称号によって「評価」と「価値」が与えられてしまっている。

 マーケットのビジネスチャンスに「作者」はどこかに追いやられているような気がする。

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