道徳「1」(中編)

後編です。

家に上がり込んだ女性の手料理も
不味くて捨てようとしたら
父親が女性をかばう。

もう完全に見離されたような気がした。

捕まった後、大学生になっても
ひねくれた人間は変わることなく過ごしていた。

大学でも高校と同じくテニスは続けた。

いかんせんサークルではなく体育会。

高校の頃は弱小で
ガツガツ取り組む環境ではなかった。

だからと言って
通っていた大学は強豪でもなく
どこか体育会系のなかに
緩さが合間見えた環境だった。

でも社会的なことがわからず
環境に馴染むことができなかった。

ただテニスをしたかった気持ちが
前面に出ていた。

なかなか打ち解けることもできず
ぼんやりとした日々が続いた。

原因はわからないけれども
明らかに反応が悪く
嫌われている気はしていた。

何気ない素ぶりが
自然と相手にとっては
嫌だったのかもしれない。

原因がわからなかった自分が情けなかった。

キャンパスライフもまともに楽しめず
大学入試が隣の席だった同期と
その友人のグループに入って
孤独を紛らわせていた。

入学して半年が経ち
夏休みを経て後期初日を迎えた
早朝に親戚から着信があった。

「すぐに病院に来て欲しい。」と

大学に行く気満々でいた私は、
渋々病院に行くことにした。

病院に着くと
親戚と女性(愛人)がいた。

父親が病室で寝たきりになっていた。

医者に聞くと
もう起きることはない。と

人工透析に通っていたのは知っていた。

長生きできないかもしれない。と
父親から直接言われたことはあった。

あまりにも突然すぎた。

後日葬儀が開かれた。

たくさんの人が詰めかけた葬式。

中には泣いている人もいた。

残念ながら
私は涙を流すことはなかった。

不謹慎極まりないけれど
なんで泣いているのか疑問に思って
仕方がなかった。

やっとか。って、

もし父親のことを知っている人がいたら
どうか察して欲しい。

そりゃ泣きたかった。

でもそうでなくなったのは、
過去の積み重ね。

正直、今になっても引きずっている。

私自身が仕留めたかった気持ちもある。

時よりニュースで見かける
子どもが親を殺した事件についても
羨ましいという気持ちもある。

フラッシュバックとして
思い返すこの怒りを
私はどこにぶつけたらいいのか
今も考えてしまうことがある。

全てにおいて野暮だとは思っている。

いつまで過去にとらわれているのか
器の小ささが露呈している。

生憎の無名の人間だから
炎上することもない。

でもこの場を借りて吐き出さないと
また辛い感情が芽生えてしまう。

今まで誰にも言えなかった悩みを
SNS通じて溜まっていた分全て吐き出している。

デジタルタトゥーとかもうどうだっていい。

親がいない生活が始まった。

兄と二人暮らし。

家賃35000円のボロ家に引っ越した。

部活も辞めた。

テニスしたいがゆえに
辞めた分際で顔出したりもした。

今振り返れば
そりゃ嫌われる。

楽しく友達と遊ぶこともほぼなく
派遣登録して学費や生活費を稼いだ。

でも、兄がいてくれたから
大学も卒業できた。

知的障害があるけれど
なんとか障害者枠で就職できた。

兄が稼いだ給料と兄の障害年金と
私のバイト代で凌いでいた。

頭が上がらない。

兄は、
自閉傾向が強く
(独り言や細かい動きや言動など)
あまり身内には
見られたくないところがあるので

早いこと離れ離れにさせたかった。

でも、当時は自立に向けて
何もかもお互いできる状態ではなかった。

お互いにどこか
不安になっていた。
※私の場合は金銭的な不安

大学3回生の頃に
母校の小学校で教育実習があった。

いかんせん実習費が出せるかも
怪しい状態だった。

禁断のタブーとして
実習中にバイトしていた。

教員(公務員)は副業禁止と言うけれど
あれは酷かった。

母校に対して無礼千万だった。

しかもバイトもまた
当時テニス部の先輩に紹介してもらった
ホテルのウェイター(旅館の仲居)など
配膳や片付けのバイトをしていた。 

バイト初日で説明会の時間を勘違いして遅刻。

いきなり説教。

紹介してくれた先輩の顔に
泥を塗ってしまった。

実習やらバイトやら
勝手に予定詰めて何もかも上手くいかなかった。

授業の準備も疎か
担当の先生にしこたま説教。

危うく単位も無くなるところだった。

哀れだった。

大学でも
どこか変な目で見られてた。
「何なんアイツみたいな。」

でも中退とか
そんな文字は無くて
卒業することばかり考えてた。

実習はなんとか最低限の評価で
単位はもらえた。

同じ時期にホテルのバイトは辞めた。

罪を償うように
このままじゃいけないと自分を鼓舞して
大学の講義で来てくださった
障害者スポーツセンターの主任(当時)に
できること何がありませんか。と
相談して

大阪市長居にある障害者スポーツセンターで
バイトさせてもらえることになった。

同時期に母校の小学校の管理職が
気遣ってくださり
支援学級の支援員として
短時間ながらもバイトの枠を用意してくれた。

用意してくれたものの
実習でミス連発しすぎて
担当の先生に会うのが気まずすぎた。

姿が見えたら
目を背けて
行きたい場所に遠回りするぐらい
顔見知りになってしまった。

そして4回生の頃には、
母校(兄弟で通っていた)の高校で
(当時兄の担任の先生が)
自立支援生の支援員のバイトを
紹介してくれた。

※自立支援生
毎年3名ほど面接試験を通じて
知的障害等がある生徒を対象に
一般の高校でイチ生徒として
一緒に(一部の)授業を受けて
学習する学生のこと。(基本は支援学級)

大阪府では何校か設けられている。

支援学校とは違い
そこで卒業すると高卒の資格が貰える。

どうしようもない人間ながらも
手を差し伸べてくださる方が現れて
光明が見えてきたように思えた。

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