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昭和がオワコンになった世界で自分は幸せになれるのか、という漠然とした不安がとれない件(読書メモ #ニュータイプの時代 )

まだタピオカも飲んでいないような自分が、新時代について書かれた本を読んで感想を述べる資格があるとは思えないけれども、読んでしまったので書きました。

以前、日本の企業が目指すべき方向性のヒントは「ほぼ日」にあるのではないか、と思っている件について書いたのだけど、本書の内容は、それにかなり近い感じのことと理解していて。こっちの方向性の企業がどんどん増えていくのではないか、増えていかないといけないのでは、というのが思う所です。

だけども、自分自身に視点をむけると、「ほぼ日」みたいな会社で働けるのか、もうちょっと言うと「ほぼ日」みたいな会社で働くにふさわしいセンスを持ち合わせた人間なのか、というとそうじゃなさそうで、それは「ほぼ日」という個別の世界観との相性というよりも、本書でいう所の「ニュータイプ」に、憧れはするものの、自分はなれないんじゃないか、っていう漠然とした不安がとれないわけで、このあたりが昭和に生まれて今年で40歳な自分の中年クライシス、という話に突入していくわけですが、本書を読んだ結果、不安とれないのは、個人的なお悩みなので、それはさておいて、本書の刺さったポイントを紹介していくnoteを書いていきます。

本書のメッセージまとめ

自分なりに刺さったポイントだけ書くと内容が偏ってしまうので、著者によるまとめを引用しつつ、最初に本書の紹介を簡単に。

本書のメッセージをまとめれば、次のようになります。
20 世紀の後半から 21 世紀の初頭にかけて高く評価されてきた、従順で、論理的で、勤勉で、責任感の強い、いわゆる「優秀な人材」は、今後「オールドタイプ」 として急速に価値を失っていくことになるでしょう。
一方、このようなオールドタイプに対置される、自由で、直感的で、わがままで、好奇心の強い人材=「ニュータイプ」 が、今後は大きな価値を生み出し、評価され、本質的な意味での「豊かな人生」を送ることになるでしょう。

ちなみに、本書のもともとの副題は「昭和的な優秀さの終わり」だったとのこと。

実は、僕が今月に上梓した本、『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』の副題は、もともとは「昭和的な優秀さの終わり」でした。編集者の方に否定されてしまって、別の副題がついていますが(笑)。
この本で述べた、昭和的な良さとは、「優秀さ」、「新しさ」、「若々しさ」、「便利さ」などのことです。それらが今、すべて価値を失っていると思います。

令和に突入して、はや3ヶ月が過ぎようとしてます。今月だけでも、吉本をめぐるごたこたとか、大船渡高校の佐々木選手が決勝戦に登板しなかった話とか、昭和の価値観では考えられなかったようなニュースが目につく様になってきていて。

そういう昭和の価値観が明確に通用しなくなりはじめている時代の動きの背景となる環境の変化や、その本質について、オールドタイプ(昭和的な価値観)とニュータイプ(これからの価値観)を対比する形でわかりやすくまとまっているのが本書。

本書では、昭和的な優秀さが終わり、ニュータイプの価値観が優秀となり求められていく背景となる変化の構造として、問題の希少化、飽和するモノ、クソ仕事の蔓延、といったトレンドを解説しつつ、どのような人材要件へのシフトが起きているか考察しています。

NewsPicksみて、Twitterやってnote書いたりしている意識高い系な人達にとっては、半分以上が、すでに起きている変化、として実感できていることばかりだけど、まとめて読むとつながって大きな変化として理解できる。
今、読んでおくべき本かと。

で、ここから、自分なりに刺さったポイントを引用しつつ、メモを残しておきます。

「役に立つ」から「意味がある」への価値のシフト

「役に立つ」から「意味がある」への価値のシフトの話は、本書の核となる概念。ここが一番刺さった。

世の中がどんどん便利になって、モノや利便性が過剰になっているため、「役に立つ」ことよりも「意味がある」という効用の方が価値が大きくなっていくという話。

さらに、グローバル化によって、「役に立つ」は勝者総取りになりがちで、「意味がある」市場には多様性が生まれる。

以下の「コンビニの文房具とタバコの話」は、この概念を説明する上で秀逸な話だと思う。

「役に立つ」市場では勝者総取りが発生する一方で、「意味がある」市場では多様性が生まれることになります。これを身近でわかりやすく示しているのがコンビニエンスストア(以下CVS)の棚です。 皆さんもご存知の通り、CVSの棚は極めて厳密に管理されており、商品を棚に置いてもらうことは簡単なことではありません。だからハサミやホチキスなどの文房具はほとんど1種類しか置かれていません。しかし、それで顧客が文句を言うことはありません。 一方で、そのように厳しい棚管理がなされているCVSにおいて、1品目で200種類以上取り揃えられている商品があるのですが、なんだかわかりますか?
タバコです。ハサミやホチキスは1種類しか置かれていない一方で、タバコは200種類以上が置かれている。なぜそういうことが起きるのかというと、タバコは「役に立たないけど、意味がある」からです。ある銘柄が持つ固有のストーリーや意味は他の銘柄では代替できません。

「情緒的ベネフィット」ではなく「意味がある市場」

ちなみに、マーケティングの世界では、昔から知られている概念として「機能的ベネフィット」と「情緒的ベネフィット」という話があるんだけど、本書ではベネフットではなく「市場」と切り取っているところが慧眼な気がします。

我が国のトヨタや日産が販売している車種のほとんどが「1の象限=役に立つけど、意味がない」に含まれることになります。この象限の自動車は主に「快適で安全な移動手段という便益」を提供しているだけで、特に「自分の人生にとっての意味合い」などは提供価値に含まれていません。つまり、この象限に属する自動車は主に「移動手段として役に立つ」という機能価値によって売れている、ということです。 次に、ドイツのBMWやメルセデス・ベンツが販売している車種のほとんどが「3の象限=役に立つ上に、意味もある」に含まれることになります。

最後に、イタリアのフェラーリやランボルギーニなどの超高級車、いわゆる「スーパーカー」と呼ばれる車種のほとんどが「4の象限=役に立たないけど、意味がある」に含まれることになります。 こういったスーパーカーの多くは数百馬力のエンジンを搭載しているにもかかわらず、大概は二人しか乗れません。また荷物もほとんど積めず、車高が低いために悪路も苦手です。つまり「快適で効率的な移動手段」という側面からはまったく評価できない、ただ単に爆音を発して突進するというシロモノでしかありません。 にもかかわらず、あるいはだからこそというべきか、こういった「役に立たない」自動車に数千万円、あるいは億単位のお金を払っても欲しがる人が後を絶ちません。つまり、こういうクルマを購入する人にとっては「唯一無二の意味」を与えてくれる存在なのです。 さて、ここであらためて考えてみなければならないのは、象限別の価格水準です。あらためて確認すれば「1の象限」に含まれる国産車の価格帯が100万円〜300万円、「3の象限」に含まれるドイツ車の価格帯が500万円から1000万円、「4の象限」に含まれるスーパーカーの価格帯が2000万円から1億円以上で、明確に前者よりも後者に大きな経済的価値が認められていることがわかります。 これを端的に言えば、現在の市場においては「役に立つ」ことよりも「意味がある」ことに経済的価値が認められているということ です。

この説明にあるように「意味がある市場」の話をしているので、「情緒的ベネフィット」や「ブランディング」ではないと思っていて。オールドタイプなマーケターが、本書を引き合いに出しながら、役に立つ市場の商品・サービスにおける、情緒的ベネフィットやブランディングの話を展開するのは、違和感あって、本質的には全く違う話なのかなと。市場選択とブランディングは別の論点のはず。混ぜないほうがよいと思う。

フォーカスとスケールはトレードオフではなくなり、フォーカスが突き抜けてスケールする

20 世紀は「メディア」と「流通」がビジネスのあり方を決めていた、という本書の見解は、ネットを仕事の主戦場としている自分にとって、腹落ちがすごかった。

20 世紀後半において支配的になったマーケティング計画作成のプロセスをよく見てみると、実際にはそのどちらでもなく、製品やサービスのありようは、プロダクトとマーケットのあいだをつかさどるメディアや流通の枠組みに規定されてしまっている、ということに気がつきます。
つまり、先に製品ありきでそれを市場に押し出す「プロダクトアウト」でもなく、顧客ニーズに基づいた製品やサービスの企画が先に立つ「マーケットイン」でもない、両者の中間をつかさどるメディアや流通のありようが、プロダクトと顧客ターゲットの双方を必然的に規定する「メディアアウト」ともいうべきパラダイムに縛られていたということです。
その結果、メディアと流通の枠組みに乗りにくいサブスケールのサービスや商品は大きなハンディキャップを背負うことになる一方で、多数派となる大衆に向けた製品を大量に生産し、それを巨額のマーケティング費用をかけてメディアと流通に乗せて売り切るという戦術パターンを採用する企業には強烈なスケールメリットが生じました。

この「スケール」と「フォーカス」はトレードオフの関係にあり、両立させることは「ないものねだり」で「悪手」とされてきていて、大きな市場セグメントを見つけないと、スケールメリットが得られず、利益が出ずGOが出ない、というのがこれまでの常識。

必然的に、誰もが市場調査を用いて「大きな市場セグメント」という漁場を特定し、彼らの好みにおもねるようにして製品やサービスを開発する、というのが「マーケティングの定石」となったわけです。しかし、これが「同質化の罠」という泥沼へと日本企業を陥れていくことになります。

しかし、グローバル化とテクノロジーの進化によって、「フォーカスとスケールのトレードオフの解消」が、なされた結果、多くの人の好みにおもねったメジャーを目指した商品は貫通力の弱さからローカルにとどまり苦境に追い込まれる一方、気に入った人だけが共感されればよいと振り切ったニッチがグローバルに突き抜けることができれば結果としてスケールをも生み出すと。

例としてアップルに数千脚の椅子を納入した「マルニ木工」という広島の中小企業の例がでてます。

安くしても売れないのであれば、いっそのこと「本気で自分が欲しいと思う椅子で勝負してみたい」と方向転換することにした山中社長は、無印良品などでの卓越した仕事ですでに世界的に高名だったデザイナーの深澤直人氏に声をかけます。 マルニ木工の工場を見学し、加工技術の高さに目を見張った深澤氏は「新しい世界の定番を作る」という極めて高い目標を目指すことを条件にして快諾します。 このようにして生まれた椅子「HIROSHIMA」が、アップルのチーフ・デザイン・オフィサーであるジョナサン・アイブの目に留まり、アップル本社への大量納入につながったのです。

(参考)アップルを魅了した広島老舗家具の「美しい椅子」  :日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35719770V20C18A9000000/

企業は、生産性を目的に駆動するのではなく、豊かさや社会課題を解決するべし

本来、ビジネスもまた何らかの豊かさを生み出す、あるいはなんらかの社会的問題を解決するための「手段」でしかなかったはずです。その対価として報酬が支払われていたわけですが、今日、本義として有していたはずの「企業が生み出す豊かさ」や「企業が解決する問題」はビジネスの文脈から抜け落ちてしまい、多くの企業が「売上」や「収益」などによって計測される「生産性」だけを目的にして活動し、そこに関わる人のモチベーションを粉砕しています。本来的な目的や意義を失ったままに生産性のみを目的にして駆動するのは典型的なオールドタイプのパラダイムです。

個人としても、上を目指すのではなく、奥深くを目指す生き方が求められる

「世の中をこう変えたい」「こういうものを作りたい」という主体的な「想い」や「意味」を構想するということを長らくしてこなかったオールドタイプは「自分はどうしたいのか?」「何を作りたいのか?」という問い、さらに指摘すれば「私は何のために生きているのか?」という哲学的な問いについて考える脳の機能が萎縮・退化してしまっているのです。
17 世紀にオランダのハーグで活躍した哲学者のスピノザは、人であれモノであれ、それが「本来の自分らしい自分であろうとする力」をコナトゥスと呼びました。コナトゥスという言葉はもともとラテン語で「努力、衝動、傾向、性向」といった意味です。 スピノザは、その人の本質は、その人の姿形や肩書きではなく、コナトゥスによって規定されると考えました。当然のことながら、コナトゥスは多様であり、個人によって異なります。
(中略)
つまり、この世に存在しているあらゆるものは、それ自体として「良い」とか「悪い」ということはなく、その人のコナトゥスとの組み合わせによって決まる、とスピノザは考えたわけです。
もしあなたが自然の中に身を置いて、活力が高まるのを感じたのであれば、自然はあなたのコナトゥスにとって「良い」ということになります。一方で、孤独に苛まれやすい人が自然の中に身を置いて、疎外感を感じたのだとすれば、自然はその人のコナトゥスにとって「悪い」ということになります。

一方、これはこれで、「残酷な世界」でもある気がしていて、個人的には不安。

上を目指す、スケールを目指す、売上利益で成長を測る。数字で図れるなら、○☓つくので、間違った方向に進んでいたら気づけるし、目指すべき方向は明確。足るを知るじゃないけど、勘違いしにくい。

だけど、数字で測れない「奥」を目指すと、どんどん間違った方向に進んでいく勘違い野郎もたくさん生み出してしまう結果になってないか。

個人的には、ニュータイプに憧れるばかりで、そういう世界に適合できなさそうで。

せいぜいその人達がデジタル上のプラットフォームを通じたユーザーエクスペリエンスをうまいこと活用して活躍できるような支援くらいが自分にできることなのかなと。

ともあれ、今の時代を俯瞰する上では、大きな示唆を得られる本だと思うので、折に触れて読み返したい。

毎週note書いてます!

ちょっと前に書いたnoteでも、その時考えていたことをすっかり忘れてしまっていて、だけど、読み返すと、その時のモードにすっと戻れるので、誰かに読んでもらう前提で(ちょっと気を遣って)、アウトプットしておくって大事だな、としみじみ思います。

※今回は、7月21日(日)~7月27日(土)分の週報になります。

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