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LGBTと左利きについて考える。

「 haruyaくん、左利きじゃないよね?」


久しぶりに会った友だちに聞かれた。
頷く。僕は右利きだ。なぜ聞かれたのか分からない。

新宿のパスタ屋の席に座って気づく。
小さめの椅子、机。僕の左には壁。

左利きだと食べづらいかなって気にしてくれたんだ。


「おれ、そっちに座ろうかな。」
「確かに!そうだね。」
別の日、2人の友だちと食事にいった。

すぐに、僕の正面に座った2人が席を入れ替えていた。
なぜそんなことをするのか分からなかった。
少し時間が経ってようやく気づいた。
左利きの人と、右利きの人が隣同士に座ると、
座り方によっては食事中に手が当たってしまうからだ。


なんかいいなって思った。
言い方や行動がとても優しいなって思った。

ただ、僕はいつも言われる側だ。
言われてから、気づく側だ。


僕は、左利きの人の気持ちが、分からない。







とあるポスターを、見た。





Twitterで見かけたポスター

あなたの周りに
左利きの方はいますか?
LGBTを含む、性的少数者も
同等の割合でいると言われています。
私たちの身近な人権問題について
真剣に考えてみませんか。

ちょっとだけヤな予感。どうせ、ネガティブな反応が多いんだろう。
ツイッターでは、世間はどんな反応なのかな。
見るのやめとこって思ったんだけど、見てしまった。

こんなことが書いてあった。

⚪︎自分は左利きだけど一緒にしないでほしい。
⚪︎いつまでも「弱者の権力」を行使できる「少数派」だと思ってるのは自分たちだけ。
⚪︎左利きは右利きの世界に順応している。LGBTもそうすべきだ。
⚪︎左利きの人たちは権利の主張なんてしていない。




あーあ。やっぱり。予想の範囲内ではあるけど、ちょっとへこんでます。ちょっとだけね。

だいたいどんな反応なのか分かってんだから、見なきゃいいのに、見てしまう。僕の悪いとこ。ハハ。

最近のこういうLGBTに対するネガティブな反応を見てへこんでいる当事者が僕以外にもいるんじゃないかなって、勝手に思って、勝手に文章を書き始めました。あ、なんだか真面目な感じになっちゃいそう。僕らしくないかな。まぁ、時間ある時にのんびり読んでくださいよ。

もちろん、当事者でない方も読んでいただけたら嬉しいです。

(LGBTという表現そのものについても、様々な意見があると思いますが、今回はポスターの表記に合わせて、性的マイノリティー全体を指す言葉として、LGBTを使用します。)



このポスターが作成されたのは、2018年。今から5年前。長野美術専門学校で作成されたものらしいです。つまり、最近の作品ではない、ということです。へぇ。

ポスター作成当時、日本全国でパートナーシップ制度が導入されていた自治体数は8。ちなみに、2023年現在では328。ゲイであることは隠すべきことという状態から「お、なんだか社会が変わってきたかも。」と僕自身、感じ始めていた時期だった気がします。

このポスターは、2018年時点のそんな日本社会に向けてつくられたものです。あくまでも、左利きの人はLGBTと近い割合で存在している身近な人の例としてポスターに登場しているのが分かります。

そういったところからも、このポスターが作成された意図は、「意外とLGBTの人って身のまわりにいるんですよ。言えていないだけで、あなたの近くにもいるんですよ。ちょっとみんなで思いを巡らせてみましょうよ。」ってことだと思うんです。それ以上でもそれ以下でもない。僕はそう思います。

そこから5年という月日が流れ、左利きを差別するのか。とか、だったら同性愛も矯正しろとか。左利きは右利き中心の世界に適応してるんだからLGBTもそうしろ。とか、僕がみたツイートではそういう読み取られ方をしてしまっています。時代が変わり、作者の方の意図が上手く伝わらなくなってしまったんですね。作者の方、ちょっと気の毒です。

2018年頃から、ちょっとずつパートナーシップ制度が整備されてきたり、LGBT法ができたり。時代が少しずつ変わっていきました。良い意味でも悪い意味でも、LGBTというものが日本社会に認知されていったのは、皆さんも感じていると思います。

そして今、2023年の日本には、
「LGBTのことはもう分かったよ。」
「別に個人のことなんだからとやかく言うつもりはないよ。」
「でも、いちいちめんどくさいこと言うなよ。」
そんな空気がある。ような気がしています。
これは僕の所感。どうだろ。ポスターの捉えられ方からもそんな風に感じます。
みなさんはどう思いますか。

数年前に比べ、格段にLGBTという言葉は広がりました。理解してくれる方もたくさん増えたように感じています。日本にいる多くの人が、身の周りに当事者がいることはなんとなくわかってる。否定的なことを言うべきでないことも、わかってる。そんな時代になりました。

そんな状況であのポスターのように、「LGBTは左利きの人と同じくらいいるんですよ。」「だからもっと人権について考えようよ。」と言われたところで、「なんで左利きの私たちを突然引き合いにだすの?」とか、「これ以上どうしたらいいの?」、「なんでわざわざそんな主張するの?」と思われてしまうのは、仕方がないことなのかもしれません。











でも、と思うのです。



僕の周りには、
LGBTであることを家族に言って、家族関係が崩れてしまった友だちがいます。
LGBTであることを親友だと思っていた友だちに言って、学年全体にバラされてしまった友だちがいます。
LGBTが原因でいじめられていた友だちがいます。
直接の知り合いにはいませんが、それらが原因で自殺してしまった人もいます。

そういう方達と関わってきた当事者の僕からすると、
ちょっとまってよ、と思ってしまうんです。

僕自身は、飄々とした性格で、ゲイであることを悩んだような、悩んでいないような中途半端な状態のまま大人になりました。
ただ、身近なところに本当に辛い思いをしてきた人たちがいるし、ちょうど今も、性について悩んでいる子どもたちと関わってもいます。

そういう人たちが近くにいるからこそ、LGBTという言葉の広まりとともに、ネット上のさまざまな反応を見ることが増えた今の方が、悲しい気持ちになることが多いんです。

で、結局、どうしてほしいんだろ、僕は。それが最近の自分の中のもやもやです。そこを言語化しようとしては失敗し、試しに文章にしては消し、を繰り返しています。
そこをなんとか文にしてみようと思ったのが今回のnoteの目的でもあります。



よっしゃ。書くぞ。


たぶん、LGBTの方(というか、僕)の「わかってほしい。」と、社会の「もうわかってるよ。」の違いがしんどいんだろうな、となんとく思っています。


突然ですが、僕は右利きです。
左利きの方がどんな辛さや生きづらさを感じているのかはわかりません。感じていないのかもしれません。想像することはできるけど。左利きの人の話を聞いて知ることはできるけど。やっぱりそれは想像の範囲を超えることはありません。

だからこそ、僕は、もっと知らなきゃいけないと思うんです。

左利きの人に限らず、誰が、どんな思いを抱えて生きているのか知らなきゃいけないなって思うんです。知ろうとしなきゃいけないなって。

でもね、知ろうとしても、きっと分かりません。どんなに考えても誰がどんな思いで生きてるかなんて分からない。

その「わからなさ」をもっと大事にしていきたいと思っています。
その「わからなさ」ともっと向き合っていきたいと思っています。

LGBTとかそういうことだけじゃなくて、もっともっとお互いがお互いを「わからない」という前提に立って、その「わからなさ」を放置することなく、大事にしていく。考えていく。

答えなんてたぶん出ないけど、その「わからなさ」を抱えながらも、お互いを知ろうとすることを諦めなければ、少しずつみんなが自分らしく生きていける、優しく温かい社会になるんじゃないかなって。


社会は良い方向に向かっている。たぶん。
でも、昔とは違った形のちょっとした生きづらさを感じているのは、僕だけじゃない気がしています。

しんどくなってしまうこともあるけれど、今のこのなんとも言えない生きづらさが、誰もが自分らしくそれぞれの人生を歩んでいける社会になっていく過程には必要なものなんだと信じて、もうちょっと前向きに生きてみよう。そう思っています。



抽象的な表現が多くなってしまいました。偏った僕の意見です。感じたことがあれば、教えていただけるととっても嬉しいです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


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