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「200字の書評」(366) 2024.10.25



こんにちは。

秋です、満月の夜スーパームーンが地平すれすれに姿を表すと、その巨大さを実感します。時折かすめる雲に隠されながらも、その切れ間に見え隠れする金色の輝きに想像が膨らみます。月の科学探査は各国の思惑をのせて進行中ですが、軍事や経済志向であってはなりません。いつまでも夢を膨らませる存在であってほしいものです。
金木犀の香りが漂っています。これまた秋の風情です。

さて、今回の書評は生命をめぐる科学とロマンを追ってみました。




中村桂子「人類はどこで間違えたのか」中公新書ラクレ 2024年

地球に生命が誕生して約40億年、ホモサピエンスはほんの一瞬の20万年。その活動は地球を覆い、人新世と呼ばれる一時代を画するようになった。生命誌とは命の営みを、壮大な生き物たちの中に人を置く世界観である。人類はそのことを自覚すべきと説く。ウイルスは動き回る遺伝子であり、打ち勝つ相手ではない、進化と進歩は違う、農業と土の持つ意味など思考の変革が求められる。私達は己自身の命の物語を紡げるのだろうか。




<今週の本棚>


森永卓郎「投資依存症」三五館シンシャ 2024年

末期の膵臓癌ながら、批判精神旺盛で経済を語る姿は往時のまま。豊富な経験とアナリストとしての眼力で投資は投機であり、素人が甘言に乗ってはいけないと諭す。老後の生活にと貯えを増やそうとすると、それに反する結果を招く、それが投機の仕組みである。強者が儲ける仕組みなのだ。


今野真二「日本語と漢字」岩波新書 2024年

無文字の国であった古代日本にもたらされた漢字は、いかに日本化されたのか。言語論が展開される。ごく一部の僧侶とエリート層によって導入され、読み解かれた中国語は、やがて国語として定着する。漢字そのまま、ひらがな、カタカナなどを創造することにより国語として取り入れていったかが丁寧に語られる。言語学の基礎知識がないので読解が難しかった。


宮下隆二「イーハトーブと満洲国」PHP研究所 2007年

詩人にして童話作家宮沢賢治と満州事変の首謀者でエリート軍人石原莞爾。一見相当な距離がありそうな二人である。二人の共通項は法華経への帰依にある。ほぼ同時代ながら接触はないと思われるが、共に法華経を経典とする田中智学率いる国柱会の熱心な会員である。
宮沢賢治は理想の世界イーハトーブを夢想し、関東軍参謀石原莞爾は五族協和の満洲国建国を策す。夢の方向は違っても、どこか理想を追う姿が共通する。
生活力のない賢治は父の資力に頼りつつ国柱会の活動に熱中する一方で、独自の宇宙観で創作の筆を執り、地元で農業指導に励んだりと自己犠牲的な活動の末病に倒れ夭折する。石原は東条英機との確執により陸軍を追われ挫折を味わう。それが幸いし戦後、戦犯訴追を免れた。
二・二六事件の首謀者として処刑された北一輝も法華経を奉じていた。何か狂信的な熱気がこの経典にはあるのだろうか。


ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」角川書店 2000年

歴史家保阪正康は昭和を三期に分けている。戦前軍部主導の時代、戦後GHQによる被占領期、そして主権を取り戻した時期である。著者は戦後占領期の混乱を外国人の冷めた目で描き出す。
米軍内部の対立と横暴、政治の機能不全、横行するコネと闇経済、隠匿物資横流し物資のマーケット、それらを仕切るやくざと詐欺師たち。やくざ同士の対立と終焉、米軍をバックに蔓延る裏社会の紳士たちなどが描き出される。そして下山、松川、三鷹などの米軍諜報機関によると疑われる事件の数々があり、その下部の謀略機関には旧帝国軍人の復権と右翼政商の暗躍がある。
米国人ライターの目により、日本と米国の微妙な政治の綾が映し出され、戦後が切り取られる。裏面史は今もつながっているかと思うと、肌寒さを禁じ得ない。




【神無月雑感】


▼ ETV特集「老人と海獣」を観た。海獣とはトドのことである。その巨体は餌として大量の魚を必要とし、沿岸に仕掛けられた定置網を破り魚を食う。損害を被る漁師の嫌われ者である。生息数は減少の傾向にあるが、漁業被害対策から一定の頭数は駆除される。
そんなトドを北海道積丹のダイバー藤田さんは温かい目で見ている。一緒に海に潜り、「トドは神だ」という。時には漁師と話し合いをする。生業とする漁師の立場も理解しようとする。自然の中で生きている者にそそぐ目は優しい。
邪魔者、嫌われ者とは人間の都合なのかもしれない。同じことは陸の上でも起きている。熊、猪、鹿の人里への出没である。無防備な人間が熊に襲われ怪我をする、猪に突っ込まれる。鹿の食害に悩むなど被害は拡大している。
どう考えるべきだろうか。人間の生活圏と野生動物のあいだには暗黙の協定があったような気がする。互いに踏み込まない境界が。いろいろな要素で入り組んでしまったのだろうか。どこかで人類は道を踏み外したのだろうか。


▼ 散歩の定番コース、高麗川堤防を歩いていて違和感を感じた。秋が深まっているのにススキが見当たらないのだ。いつもなら背丈ほどのススキの穂の先に、はるかに富士山が望めるのだが。ススキならぬ見慣れぬ背高の草が勢い良い。少し先にはかろうじてススキが穂を伸ばしていた。生命力の強い外来種に脅かされているのだろうか。道端ではセンダングサ(ドロボウグサとも)が勢力を伸ばし、ズボンに引っ付きチクチクする。小さな黄色い花をつける厄介な外来種である。桜の狂い咲きも報じられる。温暖化の影響は自然の変調を招き、豪雨と干ばつが同居する世界になるのだろうか。


▼ 総選挙が大詰めを迎えている。自公政権の延命ではなく、国民本位の政策を着実に実行する民主的な政権を望んでいる。せめて与野党伯仲の緊張感のある政治情勢が実現するのが望ましい。非戦の憲法を持ちながら、米国製兵器を爆買いし軍事同盟の強化に邁進するのは間違いだと思う。自衛隊は恒常的に定員不足に悩まされ、兵器を扱いかねているのが現状だ。一方には人口減と経済不振があり、教育予算と一人当たりGDPは先進国最低、地震台風の被災者に公的支援は滞りがち。こうした偏頗へんぱな政治が続いてはいけないと、思いを深くする。
先進国を自負しながら、その実態はGDPの2.6倍に上る借金を抱え、低賃金と格差拡大、米国一辺倒の外交、軍備強化、報道機関の委縮、性的不平等、子供の貧困化の問題など数々の深刻な課題を抱えている。主権者がその権利を行使すべき時を迎えている。自民党は非公認の候補者にも2千万円を支給したと報じられている。金権体質は変わらぬようだ。


▼ 関東近県だけではなく全国的に凶悪な事件が相次ぐ。日本の安全神話が脅かされている。手口が乱暴でこれまでの事件とは様相を異にしている。北米南米などのギャング的な行動様式を感ずる。SNSを駆使しての現代的な手法である。背後には暴力団、半グレ、海外勢力などが潜んでいるのだろうか。捜査当局の奮起を望む。弱い者いじめや冤罪を作り出すことなく、公正な法執行機関であってほしい。
それにしても「ホワイト案件」の表示に安易に乗り、使い捨てにされる心理がわからない。そもそもまともな求人に「ホワイト案件」などと表示するのだろうか。


▼ 58年という長い間死刑囚とされてきた袴田さんが自由の身になった。警察検察に人生を翻弄された、彼と家族の苦悶の日々を思うと冤罪の闇の深さを思う。静岡県警本部長が直接謝罪した。本部長は57歳、事件後に生まれている。それだけ長い年月が経過したということである。謝罪しても失われた青春は戻ってこないが、県警トップが謝罪したことは了としたい。
半面、検察の姿勢は受け入れがたい。検事総長の談話は反省の色なく、無謬性に固執した醜悪なものである。少なくとも冤罪であることが確定したのだから反省の弁を述べ謙虚に謝罪し、捜査上の問題点を検証すべきであろう。法曹界がなすべきは、積極的に再審法制の検討をすべきと思う。


▼ 昭和レトロがもてはやされる陰で、昭和人が旅立っていく。西田敏行、ピーコなど映画テレビラジオで馴染みの懐かしき人々が鬼籍に入る。寂しいことだ。
来月定例の不良老人会が、いつもの銀座ライオンで予定されている。まさに昭和真っただ中を過ごし、良くも悪くも日本の栄枯盛衰をみてきた、いやその渦中にあったのだ。北海道各地から青雲の志を抱いて夜行列車で上京し、1960年代には疾風怒濤の学生時代を過ごした仲間たち。古色蒼然とした校舎には木の長椅子が並び、科目選択に当惑した。都会の有名高校出の同級生にギャップを感じ、デモストライキに直面した。都内には都電とトロリーバス交通網が縦横に張り巡らされ都電は15円、学バスは10円だった。その金を惜しみ歩く日常だった。70~90年代では高度成長の大波と引き潮に翻弄された。いろいろな業界で昭和を生き抜いてきた。せめてこの日ぐらいは意気軒昂で語り合いたいものだ。常連が揃うことを願う。




☆徘徊老人日誌☆


10月某日 東北新幹線で青森に向かう。「青森港400年 八甲田丸就航60年記念講演会・シンポジュウム」参加の1泊2日の旅である。
鉄道大好き人間である(クルママニアでもある)。未だに頭の中では電車ではなく汽車が、JRではなく国鉄が走っている。特に青函連絡船には思い入れが深く、青森の八甲田丸と同様函館に保存されている摩周丸には感情移入をしている。保存管理に尽力する函館の『語り継ぐ青函連絡船の会』、青森の『八甲田丸を守る会』双方の会員になっている。
北海道人にとっての連絡船は生命線であった。子どもの時期母の実家への上京の旅、修学旅行や受験での上京の旅そのすべての思い出に連絡船が寄り添っていた。海峡の女王と称された連絡船に拘り津軽海峡に惹かれるのは、「胡馬北風」(文選)のならいなのだろうか。北の方向へは足しげく通う由縁である。
翌日三内丸山遺跡を見学した。3度目である。F市勤務時文化財を所管していた際に未整備のままの遺跡を見学させてもらった。その後、足を運んだこともある。発掘が継続中だが、ひさしぶりの訪問では整備が進み奇麗になっていて驚いた。次は吉野ヶ里遺跡を再訪したくなった。


10月某日 8:30 新座駅集合、取りまとめ役O井氏と車を提供してくれる某女子大教授I川氏が待っていてくれた。いざ鹿島へ、突然世を去った盟友内野安彦氏の掃苔である。彼が図書館界に残した足跡は記憶に残るであろう。
地元市役所幹部職員から図書館の持つ魔力に誘われて迷宮に踏み込み、大学院でその奥義を極めた。実践力は折り紙付きであり、何よりも僚友・後輩を魅了し育てる人間力を持ち合わせていた。多趣味異能ぶりは他の追随を許さず、それもまた深みを加えていた。死してなお輝きを失わないであろう。
栃木からのO林氏、福島からのT橋氏ら図書館界を背負うであろう俊英もまたともに墓前に手を合わせた。鹿島灘からの風は冷たい。去来する思いは、秋風悲しき五丈原であろうか。夜帰宅し、古稀の祝いにと彼が言葉を刻んで贈ってくれたビアグラスを傾けた。寂しき泡であった。


10月某日 レターパックが届く。赤い包みを開けると、年長の本仲間からの本が4冊入っている。好みと問題意識がほぼ共通なので、興味深い本を送ってくださる。こちらも時々送るのだが、先輩の方への依存度が大きい。張り切って読まねば。
自分で買い込んだり、別な友人から薦められたり、図書館から借用したりと周囲に本があふれている。読むスピードと視力が低下し、理解力の減退も著しい。心して読まねばなるまい。




短い秋です。朝晩の冷え込みはきつくなっています。健康でありますよう。


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