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「200字の書評」(352) 2023.10.25


こんにちは。

理不尽、怒り、悲しみ、情けなさ、そんな感情がこみ上げてくる。連日報じられるガザの惨状です。何故罪もなく安心して暮らせるはずの人びとが、爆撃され命を奪われねばならないのでしょうか。ここに生まれたことが罪なのでしょうか。誰も本気で停めようとしない殺戮、ウクライナ戦争も同様です。世界は物理的にも道徳的にも破滅への道を足早に進んでいるようです。

ハマスの行動は正当化できません。しかし、ガザへの攻撃はパレスチナ人虐殺としか言いようがありません。イギリスの2枚舌政策によって翻弄されたアラブの民は、ユダヤ人との歴史的な対立状況に追いやられ、国を失ってしまいます。映画「アラビアのロレンス」ではそのあたりを不十分ながらロレンスの苦悩として描いています。現在強力な軍事力を持つイスラエルは他のアラブ諸国を圧倒し、アメリカの後ろ盾もあって存在感は抜きんでています。パレスチナ自治区への攻撃を日常化して、排除・殺戮、入植地拡大をしているのです。それへの怒りは沸点に達していると想像できます。正義、公正、美徳などは存在しないのでしょうか。

紛争の種を播いたのは欧米諸国であり、犠牲者はパレスチナ人であることは明白です。この責任を認めて、平和構築を進めるべきです。中東に戦乱が拡大し、結果的に第3次世界大戦につながらないか心配です。

さて、今回の書評は首都東京の古層を探ります。


吉見俊哉「敗者としての東京 巨大都市の隠れた地層を読む」筑摩書房 2023年

東京には呪縛がある。政治経済行政学問等の中枢が集中している。本書では東京は3度占領されたという。関東移封の徳川家康は在地勢力の江戸氏などを滅ぼし、その徳川幕府を打倒した薩長勢力は江戸を東京に変え、太平洋戦争に勝利した米軍が日本を占領した。勝者はすべてを己の色に染める。敗者の抵抗心は沈潜し、密かに抵抗する。著者はそれを「敗北の文化」と呼ぶ。この文化は隠然と世を覆っているように感じる。


<今月の本棚>

櫻井芳雄「まちがえる脳」岩波新書 2023年

脳の複雑な構造と役割はまだまだ解明されてはいない。情報を伝達し、判断し、記憶するスピードはさほど速くはない。しかも間違いや勘違いがあり、必ずしも記憶は正しいとは限らない。往々にして間違いが起きる。それは必ずしも悪いことではない。思わぬ発見や、思考の突破力のもとにもなっている。AI過信を戒める著者の、脳は未だに未知の存在であるとする指摘に頷く。

香田洋二「防衛省に告ぐ」中公新書ラクレ 2023年

軍人の国防思想、軍事的思考とはこうしたものかとよくわかる。著者は元海上自衛隊自衛艦隊司令官。イージスショア問題をはじめとする防衛省の迷走と国防政策への疑念は、さすがに現場を熟知した軍人ならではのもの。一方で、米国との軍事的リンクへの積極的評価、米国製兵器への偏愛には違和感を禁じ得ない。


★徘徊老人日誌★

☆北帰行 激走2200キロの巻☆

寝静まった住宅街を抜け、1台の車が関越道鶴ヶ島インターをくぐって行った。深夜の高速道路は物流トラックの天下だ。一路新潟へ、ヘッドライトが照らし出す未明の関越をひた走る。目的地の新潟港までほぼ300km、老骨には試練である。BMWを操っていた往時の巡航速度は110~120km/h、今は控え目に90~100km/h巡航を心がける。そう言っているとバックミラーに眩い光の束が迫ってくる。追い越し車線から矢のようにあっという間に追い抜いて行ったのは、地を這うような低い車体のドイツのスポーツカー。140~150km/hは出ているに違いない。とてもついていけない。無事を祈るのみ。その後もどんどん追い越されてしまう。のんびり走ると、背後に迫りくる覆面パトカーを気にする必要はない。

郷里釧路を繋ぐのは新潟港発小樽港行きの新日本海フェリー、コロナ禍もあってここ数年無縁であったが、母が健在の頃は年に3回は利用していた。大洗港発苫小牧港行きの商船三井フェリーよりも安い上に使い勝手の良い船便だった。いわば現代の北前船だ。風を利用して本州各地の湊を売り買いをしながら巡り、蝦夷地の産物を持って帰る。物資だけではなく、文化や風習も運んでいた。新日本海フェリーは敦賀、新潟、秋田、小樽、苫小牧を結んでいる。ほぼ北前船の航路である。

途中のサービスエリアで休みつつ走らせる。湯沢を過ぎる頃夜が明けてきた、米どころの風景が目を楽しませてくれる。関越道は長岡で北陸道につながり、新潟亀田インターで降りる。早朝の新潟は出勤時間、近くのスーパーに寄って食料の買い出しをする。馴染みのフェリー埠頭には白い巨船が接岸し、既に乗船待ちの車が並んでいた。ナンバーは多彩、見ているだけで各地を出てからの旅路を思い浮かべられる。窓口で予約票を示し乗船券をもらう、QRコード付きの船室の鍵だ。昔の様な大部屋雑魚寝の船旅ではない。スイートルームあり、個室ありだ。廉価版のベッドでさえプライバシーは確保されている。

大型トラック、トレーラーの車体などの積み込みが落ち着いたのちに乗用車の乗船が始まる。同乗者は徒歩での乗船。出航の放送が流れる。果たして海況は?

甲板では少し風が強いようだ。港口を出るとうねりが感じられる、外海はやや荒れ気味かも。悪い予感は当たり、船体は揺れ始めた。家人は弁当を一口食べて、危ないとばかりにベッドにもぐりこんでしまう。私は弁当を肴にクラシックビールを飲み、本を開く。揺れが本格的になってきた。船に慣れてはいるが、下を向いて本を読んでいては二重の酔いを招きかねない、横になろう。未明からの運転もあり、そのまま寝込んでしまった。

早朝の船内放送、接岸が近いとの知らせ。窓の外はまだ暗闇、身支度を整え指示を待つ。車両甲板は下船待ちの人びとが運転席に座っている。下船は同乗者も一緒。荷物の点検とカーナビの設定に余念がないようだ。

4時半の小樽港は真っ暗、先を急ぐ集団をやり過ごしてから札樽自動車道小樽インターへ。道央自動車道に入って札幌をかすめて旭川鷹栖インター。美瑛町の青い池が当面の目標。数年前に娘一家と寄った時は台風の影響で川の土砂が流入し青いどころか土色、外国人観光客が列をなしてピーチクパーチク、うるさくてかなわなかった。今回は確かに青色、客も少なくゆっくりと景色を楽しめた。

さて釧路へ。小樽釧路間は直行なら約400km、気合を入れて走らなければ。幸い土地勘はあるので、その点は気楽。三角形の二辺を回るかなり寄り道をしたが、富良野を経てR38を辿り、狩勝峠へ。新日本八景に挙げられるこの峠からの眺望は抜群、十勝平野と雌雄の阿寒岳が望める。いつも強風が吹きつけている。峠を下ると新得町、少し急がねばと十勝清水インターから道東自動車道に乗り入れる。高速道路とは名乗っているが1車線で対向車線の残る路、目指すは釧路。阿寒インターが終点。ここはすでに釧路市、市郊外では高速道路の延伸工事は随分進んでいた。勝手知ったる市内を友人宅へ直行。H部夫妻が待っていてくれた。久闊を叙し少し話してから、駅前のホテルへチェックイン。すぐにお二人が迎えに来て魚の美味なお薦めの店に。ホッケ、ホタテなどを焼いてもらいクラシックビールで乾杯。暫し語り合う。かくして片道800kmの旅を終えた。

2日目の優先行動は墓参り。雨の降る朝早く商店街の花屋さんでお花を整え、父母の眠る墓苑へ。今年は母の七回忌に当たる。本格的な法事とまで行かなくても心のこもったお参りをと、花と線香を用意していた。雨が強くなったので線香は諦め、用意の花を供えて墓前に額ずく。次は先に逝った親友の墓参りだ。一度ホテルに戻り、車を駐車場に入れる。間もなくH部夫妻が迎えに来て、墓地に向かう。彼の墓には娘のI田夫妻が待っていてくれた。彼の家は神道、そこで榊を供えて6人で頭を垂れる。かなり前に旅立ったのだが、友を喪う悲しみは深い。ここでも想い出が去来する。朝からの雨は墓に手を合わせる頃には止んできた。娘いわく「私は晴れ女なの」と。父を敬愛する娘の一念は天気も変えるようだ。

墓地を後にして蕎麦の銘店竹老園へ、この店は観光案内に掲載されていて客が多い。幸い席が取れたので6人で好みの蕎麦を食する。外では客が列をなしていて、いつまでも味わってはいられない。席をH部夫妻宅へ移し、積もる話を語り合う、出るは出るは。気が付くと闇が満ちてくる。続きは食事をしながらと、近くの焼肉屋で賑やかな夕食会になった。

その翌日、早朝駅周辺を散歩。改めて寂れようが沁みる。ホテルをチェックアウトする。今日の予定は3件。まず釧路きっての教養人とされる元教授宅を訪問。彼とは高校大学の先輩後輩の関係、一回り年上ながら昔から仲良くしてもらっている。夫人も交えて昔話、昨今の情勢、読書談義に花が咲く。時間が押してくる。昼になるのを機に、名残は惜しいが別れの挨拶をする。

その足で阿寒湖方面に車首を向ける。R38からR240に入り阿寒町の友人宅へ。高校時代の同級生で、東京での学生時代はよく彼の下宿に泊まって語り明かしたものだった。人柄は温厚で、誠実という文字が服を着て歩いているような人物。人は自分とは正反対の友を持つものなのかもしれない。ここも長居はできず、互いに生存を確認して車に戻る。サアー阿寒湖温泉に行かなくては。折悪しく雨模様になってきた。

まりもで著名な阿寒湖のほとりにそびえる館が今夜の宿。豪華絢爛なこの宿はH部夫妻の好意によるお招き。案内された部屋は30坪もありそうな広々として、眼下には阿寒湖が、好天なら阿寒の山々がまじかに望める展望は抜群。あまりに広壮、至れり尽くせりの室内に落ち着かぬこと。4人で館内を散策し、それぞれ待望の温泉へ。風呂は地下と屋上にありいずれも趣向を凝らした複数の湯舟を持ち、何時間でも楽しめそう。圧巻は屋上の展望風呂。氷雨の寒さをなんのその、火山の恵みに浸って霧雨に霞む薄紫の山々を眺めた。(因みに、雌阿寒岳は噴煙たなびく活火山で、戦後の一時期火口では硫黄が採掘されていた。私の父はこれを請け負っていた。私もその現場に数度登ったことがある。)湯上りの快適気分をさらに盛り上げたのは食事。端が見えないくらいの大会場に満漢全席プラス和食洋食飲み物デザート、山海の珍味が並ぶ。例によってまずはクラシックビールで乾杯。若い頃のようには沢山食べられないので、美味しいものを少しずつ吟味して食べる。話はますます弾みどこへ行きつくやら。

翌朝もう一度風呂へ、今度は地下に行ってみる。温泉に入っていると、湯が身に沁み込むようだ。朝食は軽めに和食。納豆と梅干しそれに焼き魚、味噌汁、漬物。食後のコーヒータイムは自室に戻って4人で。話は尽きぬ、でも時間は有限。出発予定を1時間延ばすものの無情に時は流れる。後朝の別れというほど色っぽくはないものの、別れを告げるのは辛い。3日間の厚情を謝し、互いの健康を願い再会を約してご夫妻は釧路へ、私共は小樽へ。

R241を経て足寄インターより道東自動車道に入り小樽を目指す。足寄は言わずと知れた松山千春(と大嫌いな鈴木宗男)の出身地。単調な道を楽しかった友との思い出を反芻しながら走る。昨日来の雨は晴れ、眼前には広大な十勝平野が広がっている。日高山脈を貫くトンネルを抜けると炭都夕張。千歳で道央自動車道に合流すると小樽はもうすぐ。朝里インターで高速道を降りて、目についたコインランドリーに車を停める。溜まった衣類を洗濯する。ホテルは市内中心部。以前も泊っているのですぐに分かった。このホテルはフェリー会社のグループ企業。ビジネスホテルとは格式が違い高級感ある雰囲気と構造である。フェリー利用なので優待があり、海鮮丼の夕食が供された。

次の朝は小樽散策、観光客並みに運河を歩き喫茶店のモーニングサービスで朝食をすませる。今日の予定は白老のウポポイ。小樽インターから道央道苫小牧を経由して白老インターまでほぼ100kmをひとっ走り。

ウポポイとは民族共生象徴空間と称し、国立アイヌ民族博物館を基幹として文化伝承・交流・体験などを通じて先住民族としてのアイヌの理解を深める広大な施設である。博物館はよくできていて入門編としては理解を助けてくれる。池と芝生広場があり、コタンや工房も設定され、とても回り切れなかった。研究者である愚息は、「研究者をはじめ関係者は充実させる努力をして構成している。同時に現地のアイヌや地元に雇用を生んでいることは評価できる」と語っている。この日は苫小牧泊まり。夜はかなり冷えていた。クラシックの飲める食事処を探して彷徨う。

北海道最終日。走り慣れた高速をまた小樽に戻る。先ずは小樽市博物館運河館へ。北のウォール街と呼ばれ日銀はじめ著名銀行の重厚な支店群が立ち並んだ小樽の成り立ちと全盛期を偲び、遡って北前船の来航、ニシン漁の賑わいなどの歴史をたどる。次は少し離れた手宮の本館へ。日本近代化のエネルギー源となった石炭を搬出するために明治早期に敷設された鉄道と、科学を主展示とする博物館が本館。幌内炭鉱から小樽の手宮に運ばれ石炭ローダーで船に積み込まれた。機関車、貨車、客車などに加えてレンガ造りの扇型機関車庫も保存され、明治初期に輸入されたアメリカ製の蒸気機関車「しずか号」がメインホールに展示されている。鉄道マニア必見である。小樽に行くと必ず寄ってしまう。

15:00フェリー埠頭へ。既にトレーラーと大型トラックの積み込みは始まっていた。乗船前の楽しみの一つに、船内にトレーラーを運び込むドライバーの腕の冴えを見ることである。急傾斜の登攀板を渡り狭い車両甲板をバックで所定の位置に固定し、ヘッドだけで戻ってくる。いつも感心する。ターミナルビル前には乗用車が集まり始めている。係員によると本日の乗用車は140台とか。手続きは終えた、サアー乗船だ。今夜の日本海は穏やかだろう。

翌朝9:15、定刻の接岸。後は帰宅するだけ。いざ帰りなん。

秋風の吹く自宅に車を収めると、トリップメーターは2200kmを示していた。「チョットしたもんだった、まだ走れそうだ」と独り言ちる。家人の目は「徘徊と言うよりも、放浪よ」と語っている。北への旅はこうして終わった。


旅は良いですね、それでも自宅はもっと良いのかも?!皆さんも北の大地へどうぞ!
インフルエンザが蔓延しているとか、コロナも軽視できず流行しやすい冬を迎え厳重注意です。どうぞお気を付けください。

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