見出し画像

趣味は恋ですがなにか。


私にはずっと趣味がないと思っていた。
趣味がない自分が嫌で、世の中で推し活を楽しんでいる人や、キャンプや料理とか好きなことを楽しんでいる人がうらやましかったし、憧れていた。

けれど最近、もしかすると私の趣味って「恋」なのでは?と思える出来事があったので、今日はそのことについて綴ろうと思う。

「趣味は恋です。」

そんなことを気軽に口に出せる世の中ではない。なぜかはわからないけど普通に恥ずかしいと私は思う。ずっと嫌でその事実を自認したくなかったけれど、私の人生における「恋」の所要時間は途方もなく長く、そして自分自身も他の人たちが、推し活やキャンプを楽しむのと同じように、恋を楽しんできた。

「恋」の定義は人それぞれだ。

両思いになって、付き合うことをゴールとして、そのために頑張る。みたいなのが一般論だとしたら、私は少しニュアンスが違うのかもしれない。

もちろん、最終的に両思いになって、付き合うことを願って頑張るのだけれど、基本的に私の恋は実らないのがベースだ。
きっとモテない私にも欠陥はあるのだと思うのだけれど、基本的に私の恋は叶わない。
なぜなら、「きっとこの人なかなか私に振り向かないだろうな。」
そんな自分とは住む世界の違う、遠い存在に恋をするからである。

ここでいう、遠い存在とは、いわゆる芸能人とか、アニメのキャラクターとの存在ではない。
それに、たとえば、既婚者だとか、彼女がいる人だとかそんな存在でもない。

自分の近くにいて、身近な存在ではあって、既婚者でもパートナーがいる訳でもないから、なんとか頑張れば付き合えるかもしれないけど、それが途方もなく難しい。みたいな人に恋に落ちる。

少しわかりにくいので例えを挙げてみる。

「夢があって、それを叶えるために一生懸命で、恋愛に割く時間や興味がまったくない人。」

「過去に恋愛のすごくショックな出来事があって、それがトラウマで恋愛ができない人。」

みたいな感じ。「この人何を考えているのかあんまりわからないな。」そういう人に出会ったとき、私は、この人を「理解してみたい」「手に入れてみたい」と、いつの時代かの狩猟民族みたいな狩りの態勢に入る。


そしてその態勢に入ったとき、私はすでに恋に落ちている。


恋に落ちたあと、私は驚くほどにその人に時間を費やす。
もちろん会えるのならば、とことん会いに行くし連絡も取る。
けれど、そんな簡単に毎日会えるわけでもないので、会えない日には、とにかくその人のことを考えて、その人に時間を使う。

とりあえず、彼をあらゆるSNSで検索して、探して、見つかったら眺めて、ある程度そこに限界がきたら、今度は、youtubeとかで、占いを検索して、自分の「運命の人」みたいなタイトルが書いてあるのをしらみつぶしに見る。そして、そこにも限界が来たら、彼が好きなものに今度はとことん時間を費やす。とにかく料理好きで料理が上手だった彼が好きだったときには、料理なんて、カップラーメンしか作れなかった私が、大量の調味料と食材を買ってとにかくやみくもに料理をした時期があった。小説を読むことが趣味だった彼を好きだったときには、その彼が読んでいる著者の本をやみくもに読んだ。たしか、村上春樹さんの本と出会ったのも彼がきっかけだ。
その彼は、ミスチルが大好きで、聞いたこともなかったミスチルの曲をほぼ暗記するまでリピートしてミスチルを聞いていた。
温泉が好きだった彼を好きだったときには、とにかく彼が行ってそうな温泉をググって、ゆでたこみたいに茹で上がりそうになるまで、温泉巡りをしたこともある。

そうやって彼のことを考えて、そしたら彼に近づいている気がして、そういう時間がとても充実していた。
「生きている」実感みたいなのが自分の中に芽生えてくるのだと思う。
趣味を楽しんでいる人たちが、つらくなったり、落ち込んだときに、その趣味のために仕事を頑張る。みたいに、彼のことに時間を費やすために、私は頑張っていた。
趣味に没頭している人たちが、「気づいたら料理している。」「気づいたら本を読んでいる。」みたいな感覚で、私は「気づいたら恋をしていた。」


けれど、例えば恋に落ちていた人に振られたり、その人が身近に会えないくらい遠くに行ってしまったとき、私はいつも我に返る。

私は一体何をしていたんだろうと。
今まで、彼に費やしていた時間、他のことに使えたのに。

そんな自分が何度も嫌になった。
けれど、気がつくとまた、私は恋をしていた。

みたいな人生を20数年生きてきた。
ずっとそんな自分を受け入れたくなかったし、認めたくなかった。

だって、自分が「恋」に要してきた時間を別のことに費やしていたら、もしかすると全然違う人生を自分は生きることができていたのではないかと思っていたから。
それに「恋」をしていたとして、それはその「恋」の対象によって、打ち込むことが変化するから、持続性がないし、積み重ねがない。
そうすると今、自分を振り返ったときに「何も残ってない」みたいな解釈になってしまうから。

そうやって、趣味を「誰か」への恋に依存したくなくて、たくさんの自分発信の趣味を見つける旅に出たこともある。塗り絵とか、手芸とか。
でもね、驚くほどに続かないし、恋をしているときほど楽しめなかった。

そうやってまた、そんな自分が嫌になった。

いい加減、そんな自分に飽き飽きしたのだろう。ある程度年齢も重ねてきて、少しエネルギーもなくなって、私はここ数年「恋」をしていない。

そんな私に最近、ある出来事が起こった。

ちょうど甥っ子を連れて実家に帰ってきていた妹の横で、普通に私は料理を作っていると妹が私にふと質問してきた。

「お姉ちゃんなんでそんなに料理できるの?お姉ちゃんが作る料理おいしいしうらやましい。」と。

「それはね、かつて好きだった人が料理が好きだったからだよ。」そんなことは恥ずかしすぎてとてもじゃないけど言えなくて、言葉を濁したけれど、私は純粋に褒められてとてもうれしかった。

「そうか、私は妹から見ると、料理ができる人に見えるのか。」
そして思った。
たしかに、結局その彼との恋は叶わなくて、悲しい結果に終わったけれど、おかげで私は料理ができるようになったのだ。と。

料理だけではない。
小説を読むことや、音楽を聴くことも、温泉に詳しいのもそうだ。

誰かの「恋」に依存してはじまっただけのことだけれど
それなりにエネルギーを注いでいたからなのか、気づかないうちに私の中にはたくさんの「引き出し」ができていて、誰かと会話しているときに「何を話そうか」とネタに困ることはあまりない。

しかもそれらは、恋の終わりという出来事のおかげで、偏ることなく、まんべんなく幅広いことをコンプリートしている。

なんと便利なことだろう。

みたいなことに気づいて、私がしてきた「恋」も悪くはないのかもしれない。そうはじめて思った。

たしかに私の費やしてきたことはいつも「恋した彼」発信で、持続性も積み重ねもないけれど、そのおかげで、できるようになったこと、自分の日常に新たな彩りが芽生えたことは間違いない。

それに、どんなに悲しい結末だったとしてもその「恋」の想い出は自分にとって、よくもわるくも自分を成長させてくれたり、考えるきっかけをくれたもので、自分に自信を与えてくれた。

「趣味は恋です。」

そんな自分も悪くないのではないか、と少しだけ自分を肯定できるようになった。まだまだ周りに宣言できるほどの勇気はないけれど、そんな自分は、自分のままで、生きていこうと思っている。

「もうすぐ春ですね。恋をしてみませんか。」
聞いていたラジオからキャンディーズの「春一番」が流れてきた。
思いコート脱いで、出かけて、久しぶりに恋をしてみるのもいいのかと思う今日この頃だ。















この記事が参加している募集

最近の学び

忘れられない恋物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?