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目に見えないもののなかに

早いもので、今年もすでに6月に入りました。1年のうちの半分が、もうすぐ過ぎようとしています。

先月も、定期購読マガジンを無事に書き終えることができました。購読してくださる方々、記事を購入してくださる方々、本当にありがとうございます。皆さまのおかげで、続けることができています。

定期購読マガジンを始める際にも書いた通り、マガジン収益の半額は児童虐待防止運動に携わっている「オレンジリボン」団体に寄付させて頂きます。

先月はマガジンの収益を公表した上でオレンジリボンへの寄付金の金額を載せていましたが、改めてnoteの規約を読み返してみたところ、万が一にもこちらの規約違反に当たるといけないと思い直し、今月からは振り返り記事では寄付金金額のみを公表させて頂きたいと思います。

『確定・未確定を問わず売上、利益その他これに類するものを公開して、本サービス上で配信するデジタルコンテンツや各種サービスの購入を煽る場合』

収入金額は単純に、寄付金×2と思ってもらえればと思います。寄付は1000円単位からとなっているので、端数が500円以上の場合はそこに自身のお金を上乗せして寄付に、500円以下の場合は私自身の活動費、創作費に宛てさせて頂きます。

当然ながら、寄付金の額を公表することでマガジンの購入を煽る意図は一切ありません。感謝の気持をお伝えしたいという想い、当初宣言した通りの収益の利用方法を実行している証明のためだけに載せています。

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今月は、8000円を寄付することができました。応援してくださる皆さまのおかげです。
本当に、ありがとうございます。


先月はエッセイを3本、創作小説を1本書き上げました。エッセイはどれも重めの内容で、私が忘れられない記憶の一部です。

「愛することと傷付けることは、セットにしてはいけない。」
「『大丈夫です』という人が、みんな大丈夫なわけじゃない。」

この二つは、タイトルにそのまま想いを込めました。結婚前、社会人生活を送るなかで出会った人々。その人たちとの時間のなかで、多くのことを学びました。
傷付けられた記憶は、もちろん忘れられないものです。しかしそれ以上に、誰かを傷付けてしまった記憶は、しつこいほどにいつまでも自身のなかに残ります。それは、”消してはならない”ということなんだと思っています。
ずっと抱えて生きていく。傷付けてしまった側にできることなんて、それくらいしかありません。「もういいだろう」と言っていいのは、傷付けられた側だけです。


以前、こんな記事を書きました。

いつ、許すのか。いつ、受け入れるのか。それを決められるのは本人だけだ。痛みを負って涙を流している人間に“許し”を強要する権利なんて、誰にもない。

この記事を公開したあと、コメントやⅮⅯでたくさんの言葉を頂きました。ネガティブなものではなく、「救われた」という内容のメッセージでした。この記事は、たった一人のためだけに書きました。ある大切な人に「あなたは悪くない」と伝えたい一心で、ひと息に書き上げました。届けたい人の顔を思い浮かべながら書く。それだけで、文章には力が宿る気がします。その人は、この記事を真っ直ぐに受け止めてくれました。そして、「ありがとう」と言ってくれました。

人はどのような理不尽な目に合ったとしても、そのことを「許さなきゃ」と思いがちです。それは周りがかけてくる圧力によるところが大きい気がします。

「いい加減許してあげなよ」
「でも、育ててもらったんでしょ?」

これらはおそらく、言っている側からしたら何の気なしの一言でしょう。でも、想像してみてください。抱えてきた痛み。地獄のような毎日。夜がくる恐怖。朝がくる絶望。抽象的な表現ではありますが、このような毎日を送ってきた人たちが世の中にはいます。わりとたくさん、います。その人たちにとって、自分を傷付けてくる存在は恐怖と憎悪の塊です。それを「許してあげなよ」と簡単に言われたら、その人は抱えてきた痛みを飲み込むしか術はなくなります。

何度も書いてきたことですが、私はnoteのなかでしか親にされてきた虐待の実態を公表していません。実生活では誰も私の過去を知りません。なので、親の話になったとき、私が口にできるものはせいぜいこの程度です。

「親とは、昔からあんまり上手くいってなくて」

これが精一杯です。初対面の人に「虐待されていました」なんて、言えるわけがありません。でもそうすると、その言葉だけを受けて先述したような台詞を言われます。まるで、お天気の話でもするみたいに。平坦な声で、当たり前のことみたいに。

「許してあげなよ」

「嫌です」と言い切りたいところですが、それを言うと事態は更に面倒なことになるので、曖昧に微笑んでその場をしのぎます。そういうしょうもない処世術ばかりが上手くなっていきます。虐待されている子ども、虐待されてきた大人たちは、日常的にこういうやりきれない小さな嘘を積み重ねて日々を生きています。

”それくらい”と思われるかもしれません。でもこれがけっこう辛いのです。平気じゃないのに平気なふりをして笑う。あったことをなかったことにする。許してないのに許したふりをする。そうこうしているうちに、親も年を取ります。こちらがされてきたことを口にしないからなのか、自分たちも忘れたいからなのか、年々きれいに彼らの記憶は書き換えられていきます。そうして、私の痛みは”なかったこと”になります。


誰しもが事実をすべて口にできるわけじゃない。そのことを、ほんの少しでいいので心の片隅に置いていてもらえたら嬉しいです。口にできることは、事実のうちのほんの数パーセントしかない場合だってあるのです。命に関わるほどの虐待をされている子どもが、怪我の理由を聞かれたときに「階段から落ちた」と言ってしまうように。本当はそのあとに、続きがあるのです。
「階段から落ちた。(と言え。と、お母さん(お父さん)に言われています)

目に見えないもののなかに、真実が隠されていることもあります。「死にたい」と思いながらも、「大丈夫」と言ってしまう人がいるように。


書きながら、やっぱり辛いなぁ、と思います。書くことがというよりは、こういう現実があるということが。
優しい世界はあると知った今、尚更思うのです。狭い世界に閉じ込められて、心を小さく小さく縮こまらせて日々を生きる子どもがいることを。その後遺症に大人になっても尚、苦しむ人たちがいることを。

どうしたら、減らせるんだろう。どうしたら、伝えられるんだろう。

毎日、考えます。明確な答えは、未だに出ません。だからこそ、これからも私は書き続けていきます。そのなかで答えが見つかるかもしれない。見つからないかもしれない。でもせめて、考えることを放棄したくありません。


大人が全員目を瞑ってしまったら、泣きたいのに笑うしかない子どもの真実には辿り着けない。大丈夫じゃない「大丈夫」を、見抜くことができない。


そんな悲しすぎる現実を、一つでもいい、減らしたい。それが私の願いでもあり、泣くことすら許されなかった子ども時代の私の、必死の叫びでもあるのです。


今日も、窓辺から風の音がします。静かな部屋は、平穏な匂いに満ちています。お腹のなかには友人が贈ってくれた美味しい手作りジャムがしっかりと蓄えられていて、内側からその甘さが私を包んでくれます。

優しくない現実。
優しくなってほしい未来。
優しいと知った世界。

これらを織り交ぜることで伝えられるものがあればいい。
永遠に続く痛みはあっても、永遠に続く暗闇はない。痛みも、いずれ薄まる。弱まる。そう信じたい私が、たしかにいます。


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