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公平である、ということ。

こちらの記事には虐待、犯罪などのセンシティブな内容が含まれております。読み進めるかどうかのご判断は、各自でお願い致します。


何かしらの犯罪が起きたとき、いつの世も人々は思い思いに声を上げる。その声は、立ち位置によって違う。両極にある考えの人もいれば、似ているけれどすべて同じとは言えない人まで、その様相は様々だ。


プロフィールにもある通り、私は虐待サバイバーだ。傷付けられる側の生活を、長年強いられた。両親から逃げたいあまりに人気のないところをふらつき、他の犯罪に巻き込まれたこともある。

原体験故に、私は犯罪に対して厳罰化を望む側の人間である。主に、性犯罪と虐待に於いては。


犯罪を犯す側には、犯すなりの理由がある。最も身近な犯罪である、「いじめ」を例に話をする。いじめられる側。いじめる側。非があるのは、圧倒的にいじめる側だ。しかしその行為には、抑圧された怒りや悲しみが隠されている場合がある。家庭環境によるストレス。いじめを受けた経験がトラウマとなり、他者をいじめることでいじめられることから逃れようとする心理。要因は様々だ。

結論から言う。

いじめられている側からしたら、相手の”要因”なんてしったことじゃない。

誰だって何かしらの痛みを抱えて生きている。痛みの全くない人生など、おそらくあり得ない。そして、自身の抱える痛みは関係ない第三者を傷付けていい理由にはならない。

もしも自分の子どもがいじめられて不登校になったら。あなたは、いじめた側の子どもの”要因”に配慮できるだろうか。
私は、できなかった。私の長男は、幼稚園から小学校低学年まで、悪質ないじめにあっていた。息子は言い返せるタイプの子で、親にも先生にも大きな声で助けを求めた。だから、幸いにも大事に至らずに済んだ。それでも未だに、そのとき受けた痛みの名残りがある。彼は時々悪夢にうなされ、飛び起きてすすり泣くことがある。そういうとき、決まって同じ台詞を言う。

「いじめられたときの夢を見たんだ」

ぎゅっと抱きしめて、「もう大丈夫だから」と囁く。そうしているうちに身体の震えはおさまり、再び静かな寝息を立て始める。

身体の傷は、大抵の場合一定の期間を置けば治る。しかし心の傷は、こうしていつまでも根深く人の心を苛む。


「学校に行きたくないのなら、行かなくていいよ」

そういう台詞を聞くことも珍しくなくなった。その台詞は、命を守る上で間違いなく救いの言葉だ。しかし、思うのだ。「その子が怖いのはいじめっ子であり、学校ではない」という事実は、一体どこへいってしまうのだろう、と。不登校の原因がすべていじめにあると言っているわけではない。ここでは、あくまでもいじめで不登校になってしまった場合の話をしている。

学校が好きで、部活が好きで、友達が好きで。でも、いじめてくる子が怖いから、行きたいはずの学校に行けない。そういう子どもにとって、「学校に行かなくてもいいよ」という言葉は、救いであると同時に苦しいものでもある。私は、そのことを息子から学んだ。

私も言ったことがある。息子に、「幼稚園なんて行かなくていいよ」と。そのとき、息子は泣き叫んだ。

「おれは、ようちえんいきたいんだよ!!」


何も悪くない側が、行きたいはずの場所に行けない。その葛藤は、想像に余りある。いじめている側は、それまでと何ら変わらず幼稚園や学校に通い続けている。それなのに、いじめられている側がその権利をはく奪される。
逃げていいのだと人は言う。逃げて失うものの大きさを知ってそれを言うのならいい。

慣れ親しんだ環境。友だち。大好きな先生。好きな科目の勉強。頑張っていた部活動。引っ越しをする場合にはマイホームと共に残ったローンの残金という莫大な借金を親は背負う。

簡単じゃないのだ。”逃げる”というのは。同時に失うものが大きすぎる。ただ、”いじめる側のターゲットに選ばれた”という、それだけの理由で。

それでも、我が子が生きていてくれるのならまだいい。まだ、救いはある。いじめにより我が子が自殺してしまったら、あなたは、どうするだろうか。そのとき、思いやれるだろうか。いじめていた側の子どもの、バックグラウンドを。その子が他者をいじめるに至った経緯を。

他の人がどうかは知らない。ただ、一つだけ言える。
申し訳ないが、私には無理だ。


犯罪にも様々なものがある。あと一つ、例を挙げたい。性犯罪についてだ。

性犯罪の被害は、今も昔も後を絶たない。昔に比べて周囲の意識も変わり、セクハラに対する認識や性犯罪に対する厳罰化を望む声も上がっている。それでも、犯罪自体はなくならない。ニュースになっているものなど、ごく一部だ。現に私が受けた性虐待の事実は、新聞にたったの一行すら載ったことがない。声を上げる人より、上げられないでいる人たちのほうが圧倒的に多い。それが、現実だ。


先ほどと同じ例え話をする。
もしもあなたの娘さんが、妹さんが、奥様が、性犯罪の被害にあったとしたら。もしくは、あなた自身が被害にあったとしたら。あなたは、その犯人の心理状況を思いやれるだろうか。そこに思いを馳せて、「それなら仕方なかったね、あなたも苦しかったね」と言えるだろうか。


私の父も、アダルトチルドレンだった。父親のアルコール中毒に振り回され、子どもらしい子どもとして生きる権利を剥奪されて大人になった。暴力も日常茶飯事だったらしい。

私は、父のそんなバックグラウンドを知っている。それでも、どうしても思えない。

「それなら仕方なかった」、なんて。思えるはずが、ない。


性犯罪は「魂の殺人」と言われている。その痛みに耐え切れず、自ら死を選ぶ人も少なくない。肉体が無事でも、魂を切り裂かれた人間がその後の人生を生き抜く道のりは、大袈裟ではなく獣道だ。その獣道に耐え切れず死を選ぶ。その人たちのことを“弱い”などと言う者もいる。そのたびに思う。

知らないから言えるのだ。あの痛みを、身体中を這い回る憎しみを、叫んでも叫んでも届かない苦しみを、知らないからそんなことを簡単に言えるのだ。

私が生き延びたのは、私が強かったからじゃない。たまたま、運が良かっただけだ。

何度も死のうとした。ICUにも入った。それでも、何かが私の命を引き留めた。それは幼馴染みのくれたお守りのような言葉であり、救いをくれた書籍であり、痛みや憎しみを許してくれた邦画でもあった。これらの存在が私を救ってくれたのは言うまでもない。しかし何より、ただ、運が良かった。そうとしか言えないほど、私は自身の身体をこれ以上ないほどに痛めつけていた。

生き延びたから私が強いわけじゃない。結果生き延びたから、強くならざるを得なかっただけだ。そして私は、おそらく周りが思うほど強い人間ではない。強く在ろうとすることで、そう見せる術には長けている。しかし今でも大きな波に飲み込まれそうになるときはある。


もしもあなたの大切な人が性犯罪の被害にあったら。そのことにより命まで落としてしまったとしたら。あなたはその犯人のことを、憎まずにいられるだろうか。許せるだろうか。何故その犯罪が起きたのかを突き止められたとして、その理由を知って納得できるだろうか。

私には、できない。どうしても、許そうとは思えない。相手の幸せを願うことも、できない。


ここまでが、犯罪被害に巻き込まれた経験を持つ私個人の意見だ。被害者が全員、私と同じ考えなわけではない。一人一人違う人間である以上、加害者に対する感情も、みな様々だ。


ここからは、真逆の立ち位置から話をする。

私は、加害者になる一歩手前だった。
あの男が私の身体に跨った日の夜、私はたびたび台所の床に静かに立ち尽くした。目の前にある出刃包丁を握りしめる。そこには明確な殺意があった。握りしめた包丁を振り下ろさなかったのは、ただの結果論だ。

私は被害者であると同時に、加害者になり得る側面を持っていた。その隔たりは、薄皮一枚だった。ほんの少しで破ける。それほど危ういものだった。

加害者として刑期を全うする。その後の人生を歩む。その道もまた、おそらく獣道だったろう。ぎりぎり境目にいた私は、違う種類の獣道を選んだ。人はそれを「正しい」と言う。私には正直、よく分からない。

人を殺すことは、たしかに罪だ。では、人の魂をじわじわとなぶり殺す行為は、罪ではないのか。それを止めるために犯してしまった犯罪も、非道のものとして扱われてしまうのか。

法は誰の前でも平等だ。その平等さ故に不平等が生まれているように感じてしまうとき、いつも酸素が薄くなり、肺がぎゅっと縮む。


加害者にも家族がいる。もしも私が加害者になっていたら、私の兄と姉はどうなっていただろう。その後の人生が、どれほど生きにくいものだったろう。

私は被害者の側しか経験せずにここまで来た。だから、加害者や加害者家族の本当の苦しみは分からない。ただ、思う。自身がそちら側だったら、きっと今とは真逆のスタンスで物事を見ていたであろう、と。厳罰化を望むこともなく、加害者の人権に思いを馳せていただろう、と。


人は、自分の立ち位置から見た物事に執着しがちだ。その考えが絶対解だと疑わず、対局にあるものを敵だと思い込む。もちろん相手が悪意を持って傷つけてきた場合は、敵と認識してしまうのも無理はない。でも、そうではない場合もある。”わたし”と”あなた”の立ち位置が違うだけの場合も、往々にしてある。

分かり合うことは、もしかしたら難しいかもしれない。でも、そこで憎しみをぶつけ合う必要はない。当事者同士ならいざ知らず、世界中で起きている犯罪の数々を互いに自分の立ち位置から見て罵り合うことに、何の意味もない。

大切なのは、知ることだ。声を聴くことだ。そのときに最も大切な役割を担うのが、第三者なのではないかと私は思う。

被害者でも加害者でもない、第三者。その存在が持ち得る冷静さ。それがなければ、世の中はおそらく混沌に満ちる。
私は被害者が無理に憎しみを捨てる必要はないと、常々思っている。憎むには憎むなりの理由がある。それを無理に手放せと言われたところで、そんなことが簡単にできたら誰も苦しまない。痛みを与えた相手を憎む。それは一種、生き物の持ち得る生存本能なのだと思う。
しかし、その感情と加害者側の感情がぶつかり合うだけの世界だったら、どこの国も年から年中戦争を繰り返す羽目になる。

少し離れた立ち位置から物事を客観的に見ることができるのは、圧倒的な第三者だ。だからこそ警察の捜査でも、身内の事件からは担当を外される。人には、感情がある。どんなに冷静な人だとしても、大切な人が被害者だった場合、もしくは加害者だった場合、それを公平にジャッジすることは不可能だろう。

そもそも、この世の中に”絶対の公平さ”など存在しない。だから法があり、人々はそれに従うのだ。その秩序があって初めて守られるものが人権であり、心であり、命なのだ。この国の法律に不満がないわけではない。でも、「法がある」という事実は必要だと思っている。法があるからブレーキをかけられる。法があるから守れるものがある。


被害者の声。加害者の声。第三者の声。それらを互いに聴く。耳を塞ぎたくなることもあるだろう。「お前に何が分かる」と思うこともあるだろう。それでも、これらの声はすべて必要なものだ。

人は誰しもが被害者になり得る。そして同じくらい、加害者にもなり得る。第三者として発言するとき、そのことを念頭に置いて物を言っているだろうか。そこに思いを馳せるだけで、人の発言は随分と違ってくる。

被害者の声は、加害者にとっては刃だろう。
加害者の声は、被害者にとっては刃だろう。

第三者がそのことを踏まえた上で、両サイドの視点を忘れずに話ができるか。人の世が平和に保てるかどうかは、そこに大きな比重がかかっている。


私には、それができない。虐待、性犯罪、暴力、いじめ。これらの報道を見て、客観視することがとてつもなく難しい。内側からじくじくと湧きあがる怒りは、悲しみと恨みに溢れている。どうしても、被害者側からしか物事が見れない。

そのことを不完全だとは感じるが、悪いことだとは思わない。体験に基づく感情をごまかしながら生きたところで、どこかに歪みがくる。

先ほども書いた通り、被害者の声は、加害者にとっては刃だ。私の発信は、おそらく加害者側、そのご家族にとって深く突き刺さるものだと思う。それでもこうして書き続けるのは、誰かが言わなければ、被害者の痛みは簡単になかったことにされるからだ。


声を上げられる被害者は、それほど多くない。特に虐待や性犯罪に関しては、知られたくない気持ちがどうしても先に立つ。そういうものだ。


私は私に伝えられるものを、自身の目線でこれからも書き続ける。そして、同時に他の目線も頭の片隅に置いておくことを忘れてはならないのだと思う。

声を上げなければ、何も伝わらない。そして、自分と対局にある声のすべてが敵なわけではない。互いを貶めることがなければそれでいい。きちんと距離を保った上で、自分の思いを発信するだけでいい。相手を蹴落とす必要はない。

あなたを傷付けてくる人は、あなたの敵だと思っていい。しかしそうではないなら、意見の違いはむしろ必要なものだ。クレヨンの箱にピンク色だけが入っていたら困るし、黒一色でも困る。たくさんの色があって初めて、彩りやグラデーションが出せる。人の世界も、それと同じだ。


どんなに重いテーマでも、センシティブな内容だったとしても、世の中は”違う”ことでバランスが保たれている。

バランサーになれる第三者は、そんなに多くない。そういう人の言葉を聴くことが、今の私には必要なのかもしれない。


お二人のnoteを読み、テーマは違えど、温かな客観性を感じました。傷付けられた側への思いやり。傷付けた側への配慮。この両者を持ち合わせるのは、簡単なことではありません。

どちらかに天秤が傾いているとき、対極にあるものを目にするのは痛みを伴います。お二人はそのことを踏まえて、誰にも何も強制しないカタチで大切なメッセージを発してくれています。

当事者の視点。第三者の視点。物事を俯瞰して見たいとき、これらはどちらか一方では足りないのだと改めて感じました。

自身の思考の癖を見つめ直すきっかけを与えてくださり、ありがとうございました。



「それでも、生きてゆく」
坂本裕二脚本の連続ドラマ。
主演、瑛太。満島ひかり共演。
「手紙」
東野圭吾原作の映画。
主演、山田孝之。沢尻エリカ共演。

私が今まで触れてきたコンテンツのなかで、今日のnoteを書くにあたり何度も思い返したのが、こちらの二作品です。

被害者側だけの意見で世の中が染まればいいと思えなくなったのは、これらの作品に出会えたからでした。鑑賞する際、痛みを伴わないとは言いません。その上でご興味を持たれた方は、ぜひ観てみてください。


人は強く、そして脆い。清濁併せ持っているのが人間なのだと、折に触れ感じます。

隣にいる人に優しくする。そんな当たり前のことすら、ときとして難しい。それでも、そんな人の世が、できる限り優しいものでありますようにと、今日も明日も願ってしまうのです。






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