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恋ひ初めの街④【第3話】『ひまわり』(葉月)



恋の余韻

 初恋は突然舞い降りた。
 ツバメが夏を求めて飛来するように、初めての旅立ちの季節を迎えた二人の少女の胸にときめきをもたらした。
 だが、淡い蜂蜜色の盛りに仄かな甘酸っぱい余韻だけを置き土産に初恋は飛び去ったのである。


第一章・出会い

出会いは、不思議なものだ。
偶然? 
それとも……必然! 
“予め決められていた──運命” としか思えない時もある。
「きっと、あなたにも……」

◆1

 榎本裕里子えのもと ゆりこの家は眺望の利く高台に建つ一軒家で、祖父母の代からの純日本家屋の木造二階建ての佇まいは、かたくなに伝統を守り続けんと腕組みをして胡坐あぐらをかき、周囲の西洋風のモダンな家々ににらみを利かしている老人のように映る。
 この辺りは山を切り拓いて宅地造成され、標高も高いせいで、夏は比較的涼しく凌ぎ易い。とはいうものの、夏休み間際の盛夏とあって、午前中から気温はうなぎ上りに上昇を続け、東向きの窓から朝日が容赦なく差し込む裕里子の部屋は蒸し風呂と化し、机上に据えた温度計は、登校前、既に摂氏三十度を越えていた。
 小学校は、徒歩十五、六分下った場所にある。途中、大池公園が大きく立ちはだかるように小学校と自宅を分断する。登下校の折、決まって東門と南門をつなぐ遊歩道を二百メートルほど突っ切る。この池を巡るおよそ四キロメートルの遊歩道は、アスファルトで整備され、市民の格好の散歩コースとして親しまれている。森の中の大池公園は、この辺りが、かつて山であった名残を物語る唯一の証である。
 放課後、クラスメイトの女子二人と帰途に就いた。少女特有の他愛無い馬鹿話に花を咲かせながら仲良し三人組は大池公園手前の交差点で留まり、互いに冗談を飛ばしたあと、明日の再会を大袈裟に誓い合うのがお決まりの別れの儀式だった。
 裕里子は二人と別れてしばらく坂を上り、ひとり公園の南門をくぐった。池を左手に望み、木陰の道を選びながら百メートルほど行くと、池のほとりに設えてある木製ベンチに腰を下ろした。
 木柵もくさく越しに水面みなもに反射する陽光に目を細めながら、水鳥たちの遊泳姿に見入る。今年小学校に上がったばかりの裕里子の毎日の慣わしであり、密かな楽しみとなった。
 ぼんやりと池を望みつつしばらく夕風と戯れたあと、ふと横を向くと、見知らぬ少年が座っていた。いつ、どちらの方角からやって来たのか、気配にも全く気づかなかった。裕里子は少々戸惑いがちにそっと視線を逸らし、遠くを見つめた。
「鳥が好きなの?」
 あまりにも唐突な問いかけに、一瞬息が止まった。ぎこちない動きで首を回し、少年のほうを向いて一度だけ頷いた。
「ぼくも。オカメインコ飼ってるんだよ……知ってる?」
 弾んだ声で、はにかんだ笑みをチラリと覗かせる。人懐っこい表情が裕里子の緊張を解してくれた。裕里子も微笑しながら首を横に振ると、少年ははにかんだ顔のまま、楽しそうにこと細かに説明してくれた。その明るい心の波が伝播したようで、それに同調するかのように裕里子の心もときめいた。
「とても可愛いみたいねえ……」
 想像を巡らせながらつぶやいた。
「そうだ、いつか見せてあげるよ。今度、うちにおいでよ」
 一層声を弾ませて少年は立ち上がった。
 裕里子もつられて思わず立つと、何だかおかしくなって声を上げて笑い出す。
「ええ、今度、必ずね」
 笑いながら返答した。
 約束を交わしたあと、大まかな自宅の所在地を手振りで示しながら町名と番地を口頭で告げたのを、裕里子はランドセルからノートと鉛筆を取り出して書き留めた。少年はそれを確認するとノートを受け取り、自ら鉛筆をとって滑らせる。
「来月引っ越すんだ。その前に来てね」
 裕里子に微笑んでノートを手渡し、ゆっくりとその場を離れた。途中、名残を惜しむかのように何度か振り返りながら立ち去った。
 ノートに視線を落とす。そこには電話番号と新旧の正確な住所が二つ記されてある。ふと、ベンチの上に目が留まった。今まで少年が座っていた場所に純白のハンカチが落ちていた。それを拾い上げて確かめてみると、ハンカチの左端にアルファベットのMの文字が二つ並んで刺繍が施されてある。『三浦正樹』のイニシャルに違いない。彼を呼び止めようとそちらに顔を向けたときには、どういうわけか既に姿はどこにも見当たらなかった。去った方向へと追いかけ、さがしたが、人の気配などない。裕里子は首を傾げながらしばし呆然としたあと、正樹少年の忘れ物に見入る。今度、家を訪問したときにでも返そうと思い、今は仕方なく家路へと足を向けた。

        *

 数日が経った土曜日の昼下がり、帰宅し早々に昼食を済ませると、母に行く先を告げ家を出た。今日、正樹少年の家を訪ねてみようと思った。
 彼のハンカチを携え、玄関の扉を開けて外に出た途端、陽に蒸された大気が肌に絡みついてくる。しばらく歩くうちに、発汗した皮膚が休み無く大粒の雫を次から次へと吐き出し続ける。額を左右の手の甲で交互に拭いながら、うんざり気味で公園へと歩を進めた。
 公園内の木々は息をひそめ、蝉時雨が凪いだ大気に乗って鼓膜を揺さ振るのみ。
 公園を出て、途中、小学校を右手に望み、坂を下り切った先の交差点で立ち止まった。ここを五百メートルほど直進すると、正樹少年が通う小学校がある。
 信号が青に変わると、正面にガソリンスタンドを見ながら足を速めた。スタンドの真向かいにはホームセンターが広々とした駐車場を従えて、十字路の主の顔つきでどっかと胡坐をかいていた。裕里子の家族もよく利用している。裕里子は尚も直進し、二区画目の横断歩道で立ち止まった。信号機のボタンを押して渡り、ホームセンター裏とスーパーマーケットの間の路地を抜けると、一面に田んぼが広がる。
 田んぼを見渡しながらポケットをまさぐり住所が記されたメモを取り出した。町名と番地を確認し、砂利道をまっすぐ行った。左手に連なる民家群を一軒ずつ注意深く見て回ったが、それらしき家屋は見当たらなかった。もう一度メモを確認する。町名は確かに符合する。しかし、番地と合致しない。彼の家の所在は、この辺りに違いないのに、どこをさがしても一向に辿り着けない。通りがかりの人も、この辺りの住民に聞いても、メモにある住所はない、と断言された。それでも裕里子は、町の隅から隅までくまなく歩き回りさがした。が、結局、甲斐もなく徒労に終わった。
 斜陽が頬を照らし始めていたので、仕方なく帰路に就くことにした。前を行く長い影に導かれながら元来た道を逆に辿るのだった。
 それから何度かその町に赴いては手掛かりをさぐってみたものの、全くつかめない。似た町名は無いか、と地図上をさまよったとて他には見当たらなかった。思い切って電話を掛けてみたりもしたけれど、「現在使われておりません」と優しげな女性の声が冷たく鼓膜を突き刺した。
 彼が嘘をついたとも、自分をからかったとも思えない。幼心にもそれだけは確信できた。が、心には風が吹き渡った。
 そうして、放課後になると決まって公園のベンチで彼を待つ日々が続いた。しかし、ついぞ再会は叶わなかった。彼との出会いは、あのときの一度きりだったのである。それで余計に裕里子の胸に、一日限りの三浦正樹少年との想い出は、深く刻み込まれてしまったのかもしれない。


◇2

 風間かざま陽子ようこは、突飛なことを口走ってはずいぶんと周囲の大人たちのひんしゅくを買う子であった。陽子にしてみれば、単に頭の中に浮かんだ映像について感じたことをそのまま口に出したに過ぎなかった。
 幼い頃から不思議な感覚に襲われることがある。
 物心ついた頃から同じ風景が見えるのだ。それがどこなのかわからない。行ったこともなければ、テレビで見たことのある場面でもなかった。ただ何となく懐かしさを覚えた。
 三歳時分、母に手を引かれて大池公園を散歩していたときのことだ。公園の一角にあるベンチの横を過ぎようとしたら、意志とは裏腹に足は自ずとベンチのほうへと引き寄せられた。つないでいた手は解かれ、ひとりベンチに座ってじっと水面を見つめた。そしたら、誰かの声がして、辺りを見回した。だが、自分と母以外は誰もいない。声の主はしきりに何かを訴えているが、その内容まではわからなかった。その声の響きには妙な懐かしさと心安さを覚えたのだ。その瞬間の記憶は、瞼の裏と耳に鮮明に焼きついてしまった。
 それ以来、その場所を通る度、声はささやき続けたが、年毎に薄れ、七歳となった今では全く聞こえなくなった。

        *

 小学校最初の夏休みが始まって一週間が過ぎた。
 坂道沿いの七階建てマンションの三階が陽子の自宅である。東向きの陽子の部屋から大池公園の森の緑が目に鮮やかに映える。小学校は坂を二、三分ほど下った目と鼻の先に位置している。
 朝食を済ませ、散歩に出て、気まぐれに大池公園に入った。そしてあのベンチ横を過ぎようとしたら、懐かしい声に呼び止められた。思わず振り返りくうを見つめる。陽子は、あの三歳の頃の体験を思い出していた。その場に留まったままベンチを見つめ続けると、強い既視感に襲われた。声に導かれるようにベンチに吸い寄せられ、腰を下ろし、ぼんやりと水面に視線を渡らせる。
 池からの風が気持ちよい。木陰のベンチは意外にも涼しく、自らも風に溶かされ風景に馴染んだかのような一体感で穏やかな心持ちになる。
 しばらく自然と戯れていたら、いきなり目の前を映像が過った。“見知らぬ”少年の顔がはっきりと現れたのだ。
 ──誰だろう?
 ──いつか会った気がする……
 声の主だと陽子は直感した。幻を見たこのときから陽子の心はざわめき出した。

        *

 その晩から三日続けて同じ夢を見た。
 公園のベンチに座っていると、目前に一瞬だけ少年の顔が迫ったかと思ったら、見知らぬ街を歩いていた。住宅街をさまよったあと、必ずある家の前に立って玄関先をうかがいながら扉が開くのを待っていた。三日目の朝方見た夢の中で初めてその扉が開き、そこで目が覚める。
 幼い頃から不思議な夢はよく見るほうだったが、立て続けに三回同じ夢なんてこれまで経験したことはない。おまけに、目覚めた直後、決まって胸は締めつけられ、何とも切ない気分に見舞われたのだ。
 それから数日が経った日曜日の朝、また公園へ行った。あのベンチに腰かけ、いつものように水面を眺める。ふと映像が過った。それと共に頭の中に直接声が響く。内容はわかりかねるが、陽子の心をしきりに急かせるのだ。思わず立ち上がり、大きく深呼吸を繰り返した。心を落ち着かせようとしても胸は高鳴る。それを抑える術も見いだせず、仕方なく家路へと足を向けた。だが、なぜか違う方向へ心はかれてしようがない。どうにも抑えきれず、陽子は心の赴くままそちらへと足はなびいた。
 公園の南門を出て、坂を下り、四つ角にあるホームセンターの裏をまっすぐ進んだ。この辺りは路地が入り組んだ住宅街だ。二十分ほど歩いただろうか、しばらく街並を確認しながらぶらぶら散策していたら、ある路地に差し掛かった。その場に立ち止まって路地の先をじっと見つめる。一度も訪れたことはないが、何となく風景に見覚えがあるような気がした。よくある既視感かもしれない。陽子は躊躇ちゅうちょもせず路地を辿ってみることにした。
 路地を進むうちに平常心ではいられなくなった。とある一角に差し掛かったとき、どこに何があるかをはっきりと知っていたのだ。自ずと足は止まった。左を向いたとき、息をんだ。紛れもない、夢で見たあの家だった。
 しばらく呆然と玄関前で佇んでいたら、扉が開いて、中から同い年くらいの少年が現れ、陽子に気づいた途端、微笑みかけてきた。陽子も咄嗟に笑みを作ったものの、度肝を抜かれ、そのまま顔は強張った。
 ──あの日の幻だ!
 公園のベンチに腰かけていたとき、目の前を過った“見知らぬ”少年だった。
 少年は歩み寄って来て、あたかも以前からの知り合いのように振舞った。初め、そんな態度で陽子に接する少年に戸惑いつつも次第に妙な懐かしさ、親しみを覚えた。 
 少年の話によれば、今日、遠く県外へ引っ越すのだと言う。それで陽子の訪問を待ち侘びていた、と奇妙なことを口走った。それに約束を果たせないことを詫びるのだった。
「兄が、もう連れて行ってしまってね……。ゴメンね、約束したのに……」
 腑に落ちぬ陽子は、しばし放心して少年を見つめたのち、我に返って何のことか尋ねようと口を開きかけたら、胸底から熱い感情が込み上げて咽喉いんこうを塞いで声を遮るのだった。唾液を飲み込んでのどのつかえを胸底へ落とし返すのが精一杯だった。
「今日、来てくれて安心したよ。もう二度と会えないんじゃないかって……」
 とても弾んだ声が陽子の耳を揺さ振ってきた。声の振動は全身を駆け巡り、共鳴させ、温もりに包まれた心は高揚し、自ずと目頭を熱くした。気持ちを鎮めようと一旦視線を落とし、もう一度濡れたまなこを少年に向ける。優しい眼差しに最早言葉もなくしてしまった。
 別れ際、必ず連絡をくれるよう少年は念を押し、路地を一緒に歩いて四つ角まで見送ってくれた。そこで、お互い別れを告げ、再会の約束を交わすと、陽子は少年を幾度も振り返りながら帰途に就いた。少年はいつまでもその場に立って手を振っていた。
 この出来事には腑に落ちないことだらけだったが、胸底から突き上げてくる初めての感情に戸惑いながらも再会を確信するのだった。なぜかわからないが、自分と少年は見えない糸でつながれているような錯覚に襲われた。この日以来、少年の面影は脳裏に焼きついて思い出す度に懐かしさで胸を焦がす日々を送って来たのだ。


第二章・ときめき

高鳴る鼓動は抑えがたく……

◆1

 一学期の期末テストも期待を裏切らなかった。中間テストの華々しい栄光を過去の遺産に変え、気分を底無し沼のどん底へとへし込んで悪魔は微笑みかける。ため息混じりに肩を落とし、嘆いたりしたとて、あの栄光の日々は帰らない。
 ──フンッ、どうにでもなれ!
 こうなったら仕方がない。しばし勉学から離れ、夏休みを部活に邁進する決意を固めた矢先、朝レンで華麗なるシュートを決め、転がってきたバスケットボール目がけ見事着地し、右足首を捻挫した。夏休み初日から心をもくじかれる羽目になった。
 飛び跳ねることもままならず、走ることも、もちろん歩行にも支障を来す始末で、この呪いを解く術を模索しつつ努めて心穏やかに公園のベンチで佇む毎日を過ごさん、と方向転換を余儀なくされ、青春真っ只中、かくして裕里子、高ニの夏休みは始まった。
 座ったまま右脚をそっと蹴り上げてみる。“水色のワンピース”の裾から覗く足首を包み込んだサポーターの眩い純白が余計に痛々しく映える。一度ため息をついて静かに脚を下ろした。
 池に視線を移すと、さざ波が陽をはね返す。目を細めながら大きく伸びをした。最早諦め気分で己の不運を受け入れん、と断ずれば、小鳥たちのさえずりはようやく耳に届いた。目を閉じてその声に耳を傾ける。
 頬を掠めた風が小さな気流の乱れを起こした。目を開け、気配の方向を見やる。
 水面に反射する陽光を、ひと粒ずつ瞳がはね返す。背もたれに両肘を掛け、脚を組み、短く刈られた頭部に薄らと汗が滲む。白のボタンダウンの制服の袖から日焼けした筋骨質の腕がのび、浮き出た血管が若い血潮を激しく揺さ振る。その音に目覚めたかのように裕里子の神経は昂った。
 一瞥いちべつしただけの精美な横顔に胸はざわめいた。
 裕里子は息をひそめた。身動きすら叶わず、心は怯えと好奇心と期待で激しく華やいだ。
 ふとあの日の記憶が蘇った。小学校一年の夏休みに出会った三浦正樹という少年の面影が脳裏に浮かぶ。
 ──もしや、あのときの……?
 そう思い始めると、心は一層ざわめき立つ。
 裕里子は視線を向けることもできず。水面を見つめたまましばらく心を制することに躍起になった。ひと言だけでも聞いてみようと思うのだが、どうしても勇気が出ない。仕方なく目を閉じる。大きくため息をついてから勇気を振り絞り、目を開けるのと同時に視線を素早く隣の彼に向けたときには、既に姿は消えていた。辺りをくまなく見回してもどこにも見当たらない。気配さえも消え失せていた。
 己の気弱さを呪い嘆くと共に後悔した。と同時に、あれは自分の願望が見せた幻影に過ぎなかったのかもしれないとも感じる。そんな偶然など決してありはしないだろうから。
「そんなはず……絶対にあり得ないわよね」
 苦笑しながら静かに立ち上がると、天を仰いでその場を離れた。空模様が大分怪しくなってきたので、右脚をかばいながらも家路へと急ぐのだった。


◇2

 あのとき、少年は必ず連絡をくれるようにと陽子に告げた。ところが彼の連絡先の情報は何も聞いていなかったことを帰宅して気づき、翌日、もう一度少年の家を訪問してみた。既に家には人気などなく、引っ越したあとであった。
 今振り返ると、あの少年の思い違いだったのではないか。自分と誰かを間違えたとしか思えない。だが、たとえそうだったとしても、確信に満ちたあの熱い眼差しは幼い少女の胸を焦がすに余りある贈り物であった。あれ以来、仄かな憧れを胸に沈めたまま時は過ぎ去ったのだ。
 陽子は不思議な体験をした三歳の頃から何となくこの池のほとりの、このベンチに腰かけ、時間を過ごすことが多くなった。ここにいると、気分は高揚し、何とも例えようもないくらい温かな気持ちになるのだ。十七歳になった今は、ほぼ毎日、放課後はここに立ち寄ることにしていた。
 今日もいつものようにベンチに腰を落ち着け、ぼんやり池を眺めていた。と、突然夕立に見舞われ、慌ててベンチの後ろの木陰に避難した。“水色のワンピース”の裾が雨に濡れる。両肩に降りかかった雫を手で交互に払い落とした。
 しばらく鼻歌交じりに雨筋を目で追っていたら、見知らぬ少年が駆け込んで、いきなり話しかけてきた。陽子よりもかなり長身の彼の顔を見上げる。
「さっきは気づかなかった……隣にいたのに……けど……君だったんだね? もしや、と思って慌てて引き返して来てこのザマだよ」
 彼はずぶ濡れ姿でおどけながら息も絶え絶えに微笑みかける。「元気だった?」
 陽子はその面影にハッとした。紛れもない、あのときの少年だ。
 二人は無沙汰の挨拶をしたあと、言葉少なに近況を語り合うだけが精一杯だった。高校二年生の二人にはもっと話題もあったはずなのに、結局、二言、三言ずつ、途切れ途切れに発してはお互い頷くだけの会話しかできなかった。恥じらいと照れが勝り、もどかしさに胸が締めつけられる。相手からもそんな感情がひしひしと陽子にも伝わってきた。
 雨がやむと、明日の夕刻、もう一度ここで会う約束をして別れた。


◆3

 部活を見学しての帰り道、足を引きずりながらも、裕里子はまたここに来てしまった。
 ベンチに腰かけると、セーラー服の裾から覗く幼気な右脚に視線をやる。
 ──片足をもぎ取られた丹頂鶴はうまく舞を披露できず、悲恋に終わり、泣き崩れながら……
 そんなロマンスを期待するわけでもなく──少しは期待しつつ──このところほとんど毎日、必ずこの場所で鋭気を養うことが、密かな決まりごとになった。ほぼ同時刻にやって来て、修験者よろしく、しばらくぼんやり無心になってこの場のエネルギーを吸収して立ち去るのみの自分だけの楽しみ。いわゆるリハビリの一環とでも言ったほうが適当かもしれない。
 座ったまま大きく伸びをして力を緩め、頭の後ろで手を組んで上半身だけツイスト運動を繰り返した。首を後ろに倒し、そのまま青空とじっくり向かい合う。空に落ちて行く感覚が訪れるまでしばらく静止してから、いきなりガクンと首を前に落とし、素早く正面を向いて姿勢を正した。大きく深呼吸を二、三度繰り返したら背もたれにもたれかかり、ダラリと上体を緩めた。
 陽射しと水と木々と、それぞれが織り成す陰影が複雑に絡み合い、空気は夏に彩られた。耳を澄まして風が一つひとつの色彩をたおやかに撫でて行く音を聞く。真夏は淀みなく流れる。
 夏の音の中に、急に足音を聞いた。首を回しその方向を見た。昨日、隣に座っていた少年が手を振りながら駆け寄って来る。
 裕里子は思わず立ち上がり、息を呑んだ。
 彼は傍まで来て立ち止まると、ベンチの背もたれに両手をついて息を切らせている。喘ぎながらまっすぐ背筋を伸ばすと、二人はベンチを挟んで向かい合った。
「もう行かなきゃ……列車の時間が迫ってる……ゴメンね、慌ただしくて……」
 裕里子がキョトンとしていると、彼は白い紙切れを差し出した。ほとんど無意識に手を差しのべてそれを受け取った。
「ホントにゴメン。でも行かなきゃ……」
 一瞬だけ腕時計を覗き込むと、慌てて踵を返し、彼はその場を離れた。彼は走りながら何度も振り返り「連絡待ってる」と叫びながら大きく手を振った。裕里子もそれにつられて手を振り返す。彼の姿は段々小さくなり、仕舞いには遠くの風景に溶け込むように見えなくなってしまった。
 その場にひとり取り残された裕里子は、なす術も知らず、しばし呆然と立ち尽くした。なぜ見ず知らずの裕里子に渡したのか。まるで以前からの知り合いのように接してきた彼の態度がどうしても解せない。だが裕里子もそんな彼に引きずられ旧知の仲のような錯覚に囚われてしまった。
 ようやくハッとして手渡された紙を広げた。住所と電話番号が記されている。名前を確認した瞬間、戸惑いながらも心は激しくざわめいた。胸は締めつけられ、上気した頬を幾筋もの流れが伝う。夏の陽射しはまなこをも焦がして熱い雫を裕里子の胸底へと落として行くのだった。


◇4

 心は躍った。恋の訪れを心待ちに全てが今日、この瞬間のためだけにプロデュースされたかのように。
 鋭角に射し込む陽を受けて次第に影がのびる。斜光を浴びた目を細めながら池を望んだ。水面を掠めて渡る風が西へ時を見送ると同時に夕映えを迎えに出る。葉擦れを聞きながら薄らと暗がりを落とし始めた足元に視線を移した。
 陽子は人の気配を感じる度に反射的にそちらを向いた。園内の遊歩道沿いの街灯にも灯が入り、残照が今日の名残を惜しんでいた。
 待てど暮らせど彼は来ない。
 薄暮から夕闇へと移ろう時間を越えたとき、胸底深く凍てついた風がシクシクと疼きをもたらして吹いた。陽子は決心して立ち上がる。後ろ髪を引かれつつもベンチの傍を離れると、重い足取りで帰途に就いた。ついぞ訪れぬ恋心を置き去りにして。


第三章・運命の人

「運命の人」
誰かが囁く。

◆1

 十年前、列車の時刻が迫るなか慌ただしく手渡されたメモに記された連絡先へ何度も電話したり、手紙を送ったりしてみたが、三浦正樹が存在する痕跡など認められなかった。まるで幻を追いかけているのではないか、と己の精神状態さえ疑ってみる羽目に陥った。だが、手元のメモには確かに正樹少年の筆跡が、裕里子の魂を揺さ振り続けてきた。
 この場所にやって来ると、脳裏に当時の光景がまざまざと蘇る。あの記憶は今でも裕里子の胸をセピア色に焦がしてしまう。この歳になってもいつまでも忘れられないことがいささか滑稽に思われ、その度にクスリと笑みをこぼしてしまうが。近頃では頻繁には訪れなくなったが、会社が休みの日などは思い出したように足が向いてしまう。
 裕里子は地元の短大を卒業したあと、ずっとOLをしている。今年二十七歳の現在に至るまで恋人と呼べる男性との出会いはなかった。幾度か交際を申し込まれ、成り行き任せにつき合ってみたこともあるが、ついぞ恋愛と呼べるまでには至ったためしがない。シャボン玉がフワリと舞い上がったかと思うと、すぐに破裂するように、お互いの関係はいつだって自然消滅の憂き目に遭うのだ。どこかで心に制御が働いて、一向に加速しようとはせず、しらけムードに陥ってしまう。そんなとき、必ずあの少年たちを思い浮かべてしまう。
 裕里子は生涯二度の恋をした。三浦正樹という少年に二度、恋心を抱いたのだ。最初は七歳の頃、ここで出会った。二度目は、十七歳、同じくこの場所で。何れも不思議な出会いだった。
 裕里子にとってここは特別な場所だ。初恋が訪れた場所なのだ。しかし、実ることのない果実は、かじることも、甘酸っぱささえも味わうことも叶わない。幻想の味を想像しながらベンチの背もたれに背を思い切り反らせ、天を仰いだ。六月の昼下がりの公園の上空を白雲は流れ、青と白のグラデーションを織り成して映した水面が風に揺らめいた。日曜日の園内は清涼を求めてやって来る人で賑わっている。
 裕里子が池の向こう側の樹木に目を移してしばらくすると、突然、視界が塞がった。目の前に男性が立っている。
 ラフなTシャツとジーンズにスニーカーの筋骨質の長身からこちらを見下ろす顔は、丹精で骨ばっていて、かといってとげとげしい印象はなく、柔らかな眼差しは、温もりにあふれていた。見知らぬ彼は、裕里子をまるで恋人でもあるかのように話しかける。裕里子は面食らってしまったが、その優しさにあふれた口ぶりといたわりを兼ね備えた彼の誠実さがひしひしと伝わってくる仕種にたちまち魅了されてしまった。
 裕里子は言葉を忘れ、彼を見つめ続けた。
「どなたかと間違えていらっしゃるのね?」
 しばらく沈黙したのち、投げかけた問いに彼は一瞬だけ腑に落ちぬ顔を見せたものの、隣に腰を下ろすと、満面の笑みを向けたので裕里子も微笑んで一瞥したのち、視線を自らの足元に落とした。幸福な気分を味わってみたくなり、しばし黙り込んだ。こんな魅力的な男性の恋人を羨望した。
「オカメインコ、死んじゃった……」
 彼の思いがけぬ言葉に、視点はそのまま固定され身体も膠着状態に陥った。
「今日は、一緒に弔ってほしくて来たんだ」
 そう言うと、彼はビニール袋を裕里子のほうに掲げて見せる。中には一握りのヒマワリの種が入っていた。
「──エサ……ね?」
「ああ、池のほとりに撒いてやろうと思って。ここならいつも一緒にこの風景を望めるから。君の一番好きな風景……。撒くの手伝ってくれる?」
 彼は袋に手を入れ少量の種を手渡そうとするので、裕里子は手を差しのべそれを受け取った。と、彼は徐に立ち上がり、ベンチを離れ、木柵越しに池を見渡した。裕里子も彼に倣い、隣に寄り添う。
 彼は静かに種を撒き始めた。
 裕里子は握り締めていた掌を広げると、種を見つめながらそっと傾けた。種はヒラヒラと大きな雨粒のように地面へと舞い落ちた。ひと粒ひと粒が、裕里子には梅雨空の僅かな晴れ間を縫って降り注ぐ陽の雫に見えた。
 一連の儀式を終えた二人は、互いに見つめ合う。と、彼は裕里子の肩をそっと抱き寄せる。時間が止まったように周りの景色も静止し、風音さえ聞き取れない。
 どれくらいの時間が経ったのかわからない。彼の腕が解かれると、一気に温もりは去って行った。彼は何も言わず微笑んでいたが、薄らと目を潤ませ、後日の再会の約束を交わすと、裕里子に手を振ってサヨナラをした。裕里子は胸の高鳴りを必死に押さえながら言葉も出せず、手を振り返すのが精一杯だった。彼は何度か振り返っては大きく手を振った。彼の去って行く姿を見えなくなるまで見送った。
 裕里子の心にある思いが芽生え始めた。彼は紛れもなく『運命の人』だと。裕里子を誰かと間違えていることは確かだ。だが、直感はそう訴え続けるのだ。


◇2

 振り返ってみると、全てがこの場所から始まった。三歳のとき、初めて不思議な体験をした日から今日まで、運命の羅針盤の指し示す方向へと何ものかが導いているとしか思えない。
 恋人を待ちながら陽子は不思議なえにしに思いを馳せた。

        *

 彼とつき合うきっかけもやはりこの場所だった。
 二十六歳になった陽子はフリーランスの翻訳者としてパソコンのモニタとにらめっこする毎日を送っていた。自宅と仕事場が同じなので、メリハリをつけるためにも時間を決め、散歩に出ることにしている。近くにこの大池公園があるのは幸いで緑の中を歩けば気晴らしにもなるし、鳥のさえずりや、多様な自然の音が、昂った神経を宥めてくれもする。
 あの日も遊歩道を例のベンチの方向へ歩いていたら、雲行きが怪しくなってきたので、早足で進んだ。しばらく行って小雨が落ちてきた。幸いベンチ後ろの木陰まで大降りにはならず、びしょ濡れは免れた。雨が濡らした髪の水滴を手で払い落としながら空を望むと、雷鳴と共に急に雨足は激しくなった。いたる所に大小の水溜りが大粒の雨をはね返す。そこからあふれ出た雨水は無数の筋を形成し、約束の場所を求めるように、より低地へと流れ落ち、再び合流する。
 やがて夕立も小康状態を保ったあと、潮が引くようにおさまって積乱雲を押し退けて太陽が地べたを焦がし始めた。
 陽子は雨がやんでもその場を離れず空を仰ぎ続けた。視界を人影が掠め、ふとそちらに目をやる。と、同年代の男性がゆっくり近づいて陽子の正面で立ち止まり、微笑みかけた。軽く会釈して幹を背にすると陽子の隣で空を見上げる。
「久しぶりだね。元気だった?」
 陽子は彼の横顔を見つめながらその声に聞き入る。懐かしい響きに胸が締めつけられた。
「ええ、あなたは?」
 一度深呼吸をして心をおさめてから、そっと彼の横顔をうかがいながら聞き返す。彼が空に向けた目を陽子に向けると、視線が重なった。しばらく見つめ合い、どちらからともなくクスクスと声が漏れ、互いに笑い合う。
「あなたとは縁がなさそうで、ずいぶんと不思議なご縁がありそうね? そう思わない?」
「そうらしいね。そろそろ決着をつけたほうがいいのかもね」
「どういう……意味?」
 彼はそれ以上何も言わなくなった。二人は明日の再会の固い約束を交わして別れた。それ以来、いつもこの場所で待ち合わせて、初めて出会った日から二十年間の時を一秒ずつ埋めていった。そうして今度こそ愛を育み、決してお互いを見失わないと誓い合ったのだ。

        *

 彼とここで待ち合わせていると、時折不思議な感覚に襲われることがある。突如自分の経験ではない記憶が映像として目の前に展開するのだ。ぼんやりする中、肉体の外部にもう一人の自分がいて、二つの意識が同時に景色を眺めている。それはほんの一瞬の出来事なのかもしれない。自分でありながら自分でないような感覚がこの身を襲うのだ。たぶん疲弊し切った神経がもたらす現象なのだろうと解釈している。
 今、別の自分にささやきかける声が聞こえた。若い女性の声だ。それを肉体の中の自分が受け止める。声の響きに揺さ振られ、次第に二つの意識は合一する。ハッとして陽子は立ち上がった。耳にこびりついた声を思わずつぶやいていた。
「運命の人!」


◆3

 三浦正樹少年が忘れて行ったハンカチをタンスの引き出しから取り出した。過日、イニシャルの刺繍の横に裕里子自ら新たな刺繍を施した。その箇所をしばらく見つめると、机の前に腰かけ、机上の宝石箱のフタを開ける。オルゴールの音色が淡い想い出を語りかけてきた。静かに目を閉じ、ハンカチを胸にあてがい、面影を瞼の裏に焼きつけた。メロディを奏で終えると同時に目を開け、ハンカチを箱に収めてフタをした。
 それを済ませ、居間で家族と団らんのひと時をすごしていたら、急に意識が遠退いて、夢の世界をさまよっていた。
 少年が目の前に現れたと思ったら、そこは少年の家の玄関先だった。裕里子が訪れたときは一面田んぼが広がっていた同じ場所だった。夢の中ではそこは見知らぬ住宅街で、景色は一変していた。少年は裕里子に話しかけてきた。が、その途端、また別の場所に裕里子はいた。大池公園のベンチに座っていた。ときめきをもたらした少年の横顔を十七歳の裕里子は見つめていた。そして、先日、自分に近寄り、恋人のように接してきた彼が同じ場所に現れた。夢は目まぐるしく目の前に展開した。
 目覚めると、裕里子はベッドの上だった。見知らぬ部屋を見回してみる。意識が徐々に鮮明になってくる。家族の顔が自分を覗き込んでいた。
 裕里子は病室にいた。あのとき、倒れて意識をなくして救急車で搬送され、三日三晩生死の境をさまよった挙句、命は取り留めたのだと、姉から教えられた。
 夢から覚めた直後、裕里子は悟った。七歳、十七歳のときに出会った少年。そして先日、裕里子の前に現れ、一緒にヒマワリの種を撒いた彼。三浦正樹に間違いない。だが、彼は現世の人ではない、と魂はしきりにそう告げるのだ。

        *

 退院し、彼と約束を交わした再会の日。宝石箱からヒマワリをかたどったお気に入りのペンダントを携えて待ち合わせの場所に赴いた。
 夕日を反射して煌く金色のヒマワリのペンダントを見つめながら、ベンチに座って彼を待つ。
 ほどなくして彼は現れた。裕里子の隣に腰かけると、一度お互い笑みを交換して黙って池を望んだ。穏やかな時間を共有したあと、もう一度ペンダントに視線を移し、用意してきた想いを彼に告げた。
「お願いがあるの。私の二十七歳の誕生日にあなた自身の手でこれを首にかけてほしいの」
 ペンダントを手渡すと、裕里子は正面を向いて目を閉じた。映像が裕里子の意志を無視したかのように流れ始める。
 未来の光景が現れた。──彼は気づかれないように背後から近づき、首にそっとペンダントをかけた。──現世では決して叶わぬ恋人同士の甘い時間は、裕里子の胸を永遠に焦がし続けることだろう。
 裕里子は悟るのだった。彼は不憫な裕里子を慮って神様が使わしたのだと。
「運命の人!」
 裕里子は未来に向かってささやきかけた。


◇4

「運命の人!」
 ささやきを噛み締めながら、陽子はもう一度静かに腰を下ろした。不思議な体験のあと、ふと空を仰ぎ見たとき、風に揺らめく大輪のヒマワリが陽子を見下ろしていた。その向こうには八月の焼けつく西日が明々と目の前の世界を映し出した。今しがた聞いたささやき声に思わず涙ぐむと同時に、背後に気配がした。
「誕生日おめでとう」
 首にかけられたものを指で触れた瞬間、脳裏にこれまでの人生が蘇る。魂が辿って来た歴史がまざまざと映し出された。現世はその一部分に過ぎなかった。自分でもどう捉えたらいいかわからない。俄かには信じ難いが、そう感じずにはいられなかった。彼と自分はつながっていて、いつでも一緒なのだ。陽子は悟った。彼は永遠の伴侶なのだと。

        *

 我に返り、金色のペンダントを掌に載せ、見つめるうちにその形に見覚えがあることに気づいた。陽子はハッとして立ち上がり、咄嗟に彼の手を取った。
「ねえ、一緒に来て!」
 強引に彼を引っ張って陽子はその場所へ急いだ。


終 章・花ことば

ヒマワリの花ことばを
あなただけに……

◆1

 裕里子の心はいでいる。この上もない幸福の只中にいた。
 波濤はとうにのまれたあと、魂の平安を取り戻し、最早恐れなど微塵みじんもない。目の前には未来が見えるだけだ。希望に満ちあふれた未来が。
 命を全うし切った者にとって、死は単なる過程に過ぎない。新たなる生への回帰なのだ。魂の終わりを告げるものではない。
 風が立った。揺れる窓に視線をやる。
「姉さん……開けてほしいの」
 ベッドの横に腰かけていた姉は、頷いて静かに立ち上がり、窓を全開にしてくれた。
 八月の風が頬をなぞった。肉体の輪郭を風が描く。今、魂は風と一体化し、かき回され、大自然の中で溶け合う瞬間が訪れたことを裕里子は悟った。
 何と心地いいのだろう。風に心の奥底までをも愛撫され、形容し難い平安がこの身に舞い降りた。
 病室の白い壁は七色の色彩であふれ、裕里子の元にだけ眩い光の道が天高く延びてゆく。
 裕里子は起き上がり、一歩を踏み出した。この道の果てに幸福はある。熱望すればいい。求め念じるだけでその場所へと辿り着けるのだ。
 ベッドを取り囲むように親しい人たちの顔が見える。父もいた。母も嗚咽する姉をそっと抱き締めている。裕里子は前を向き、射し込む光に向かって微笑んだ。
 ──あの虹の門をくぐろう。
 ひたすら目指すのだ。一直線に延びる光の道を、迷いなく……
 今、全てを脱ぎ捨てた。数多あまたの肉体的苦痛を置き去りにして昇ってゆける。喜びが心に芽生え始めたとき、ついに願いは叶った。
 見下ろせば、ヒマワリ畑が無限に広がっていた。無数に咲き誇るうちの、黄金色こがねいろに輝く一本だけが裕里子を見つめている。 
 温かな眼差しに包まれた裕里子は、幸福の場所へと心穏やかに歩むのだった。


◇2

 陽子は彼を母の実家に連れて来た。
 呼鈴を押し、玄関の扉が開いて、顔を覗かせた祖母に向かっていきなりアルバムを見せてくれるようせがんだ。祖母が陽子の隣に立つ彼に目をやり、「どちら様?」と微笑みながら聞いてきたので、通り一遍の紹介で済ませると、しなやかな物腰で中へ促された。二人は居間へと通され、ソファに座ると、アルバムを取りに一旦その場を離れた祖母を待つ。
 戻って来た祖母は向かい側に腰を下ろして、テーブルの上に三冊の白いアルバムを置いた。陽子はすかさず最上段のアルバムを開く。写真を確認しながら一ページずつゆっくりと捲った。母と叔母の歴史が流れていった。
 彼が一枚の写真の上に人差し指を軽く乗せた。小学校の入学式の写真である。校門の前で微笑む少女の姿が初々しい。陽子が彼のほうを向くと、彼は写真と陽子を交互に見比べている。
「君?」
「いいえ」
 陽子は軽く微笑んでからまたアルバムを捲った。捲る毎に姉妹は成長を遂げてゆく。一冊目が終わり、二冊目も半分が過ぎた頃、彼はまた指差した。
「君だね」
 確信に満ちた口調で告げた。セーラー服姿の少女が学生かばんを両手で正面に提げ、家の玄関前で白い歯を覗かせた一瞬が切り取られていた。快活に笑うさまが見る者をも幸福な気分にしてくれるような一枚である。
「私じゃないわ」
「そうなの? でも……よく似てる」
「そうねえ、あの子に生き写しだものね……陽子は」
 祖母がアルバムを覗きながらつぶやいて、陽子に微笑みかける。
「制服も全く同じだね……」
 彼は陽子に目配せする。
「制服……同じ?」
 陽子はアルバムから視線を外すと、首を傾げながら瞬きを繰り返した。
「あのベンチの後ろの銀杏の木陰で雨宿りした日さ。覚えてる?」
「ええ、翌日の再会の約束をしたわよね……」
「ああ。翌日、君はこれと同じセーラー服姿で待っててくれた。あのとき、列車の時刻が迫ってて、慌ててたけど、君のセーラー服姿は強烈に目に焼きついているよ」
「ちょっと待って! 翌日、あなたは現れなかった。それに、私、制服じゃなくて私服だったのよ」
「君、勘違いしてない? あのとき、連絡先を記したメモを渡したじゃないか。君からの連絡を首を長くして待ってたけど、何の音沙汰もなかった。僕、とても悲しい気分だったんだよ」
 彼は訴える眼差しを向けた。
 陽子は一旦目を伏せてしばらく経ってから彼をまっすぐ見た。
「セーラー服じゃないのよ。私の高校の制服はブレザー。紺のブレザーなの。セーラー服なんて一度も着たことないのよ」
 陽子は優しく諭すような口調で笑みを浮かべながら深く彼に頷いた。
「そんなはずは……」
 目を泳がせながら彼は何度も首を捻ると、腑に落ちぬ顔を陽子に向けた。
 彼からそっと目を逸らすと、さっきかけてくれたペンダントの鎖を摘まみ上げ、祖母に示してみせる。
「陽子、それ、どこで見つけたの? いくらさがしても見つからなかったのよ」
 立ち上がりしなそう聞いた祖母に微笑みかける。と、祖母は居間を出て行った。
 陽子は注意深く目的の写真をさぐりながらまたアルバムを捲り出す。しかし、なかなかその一枚には出くわさなかった。三冊目を半分ほど捲り、更に目を凝らして一枚ずつ確認していったが、見当たらない。諦めかけてついに最後のページを捲った。
 若かりし母の写真が目に入った。母の写真の隣に目的の写真は並んでいた。水色のワンピース姿で明るい表情で映っている。このワンピースは、十七歳頃、陽子も着ていた。元は被写体の人物のお気に入りだった一品で、ぜひ陽子に着てほしいとの祖母達ての願いで託されたのだ。陽子は被写体の人物の胸元を凝視する。
 しばらくして祖母が戻って来て、何か箱のようなものをテーブルに置くと、フタを開けた。聞き覚えのあるメロディをオルゴールは演奏する。中を覗くと、丁寧に折り畳まれた白いハンカチの下から、イヤリングやネックレスなどの装飾類が輝きを覗かせていた。
「あの子、大切なものは全てこの中に入れていたのよ。そのペンダントもてっきりこれに入っているとばかり……」
「これって確か……お母さんの……」
「ええ。初めてのお給料で、記念にお揃いのを買ったのね」
「知ってる。お母さんも肌身離さずいつも身につけているもの。お母さんのは銀色だけど……」
 横で祖母とのやりとりを聞いていた彼が身を乗り出してアルバムを手に取ると、真剣な眼差しをその写真に向けている。
「これって……君……だよね?」
 写真と陽子を見比べながら言った。「このペンダント……誕生日に首にかけてほしいって君が言った……」
「私が?」
 眉根を寄せながら聞き返す。
「えっ! 忘れたの? ついこの間のことじゃないか」
 彼は訴えかける。
 陽子はそっと彼から視線を外すと、うつむいて黙りこくった。もちろんそんな約束を交わした覚えなどないし、被写体の人物は自分ではない。ただ二人はあまりにも似ている。他人から見れば、いや、身内と言えども見分けはつきかねるかもしれない。それほど瓜二つなのだ。
 陽子はこのペンダントを首にかけられた瞬間に見えた人生を振り返った。
 過去から現在への一筋の流れの狭間に抜け落ちた人生がもう一つ人生を補完しながら、記憶の欠片を埋め尽くして確かな想い出を形成していった。
 今、二つの人生のつじつまが合う。ひとつは陽子自らが歩んで来た人生。もうひとつは、写真の人物の人生だ。
 陽子とて俄かには信じ難いが、己の直感はしきりにそう訴えかけるのだ。

        *

 叔母は母の二歳下の妹で、陽子が生まれる一年前の夏に病に倒れ他界している。母の結婚式を見届けた数ヵ月後、永遠の幸せが母に訪れるよう祈りつつ息を引き取った、と母から聞いていた。仲の良かった姉妹に別れが訪れた翌年に待望の第一子、つまり陽子は生まれた。陽子の名づけ親はこの叔母なのだ。
「来年の八月に女の子が生まれるの。『陽子』と名づけてほしいの。八月の陽にサンサンと照らされて祝福を受けるのよ。まるでヒマワリのように明るくてきっといい子に育つわ」
 病床に伏した叔母の予言どおり、八月の陽が生命を慈しむ午後、母に女の子が授かり、『陽子』と命名したのだ。
 陽子には奇妙な想い出がある。
 ごく幼い頃、三歳時分だと思うが、この母の実家を法事で訪れたときのことだ。祖母がさがし物をしていて、どうしても見つからない、と言う。陽子は祖母の手を引いてさがし物のある場所へと迷うことなく導いたのだ。もの心ついて初めての訪問にもかかわらず、この家の間取りから物の所在といった細かなことまでが、どういうわけか手に取るようにわかっていた。その場にいた身内一同、呆気に取られた顔で口を揃えて神童とか、挙句には“超能力”少女、“霊感”少女などと形容詞が付随して呼ばれ始め、辟易するなか、
「だって、私、ここに住んでいたじゃない」
 と返して皆を驚かせたことがある。それを聞いた誰かが、
「裕里子の生まれ変わりかも」
 と目を丸くしていたのを覚えている。 

        *

 もう一度、叔母、榎本裕里子の写真を見つめた。ヒマワリをかたどった金のペンダントが陽光を反射して煌き、胸元を飾っている。
 陽子はペンダントを撫でた。
 彼は腕組みをして眉間に皺を一層深めながら、しきりに首を捻り続けている。
「確かに君だよ。紛れもない君だ。君から渡されたんだ」
 いかに解釈すべきか、陽子とて戸惑うばかりだが、この不可思議な現象を素直に認めて受け入れるとしても、口に出すことは憚られた。彼を混乱させるだけだろうから。
 彼は陽子と裕里子の二人に会っていたのだ。彼が裕里子の元へ現れたのか、それとも裕里子が彼を求めてあの時代からやって来たのか。そう考えるのが合理的に思える。二人が同一の魂だったら、つまり陽子が裕里子の生まれ変わりだとしたら……。
 人の切なる想いというのは時代を超えてまでも届けられるものかもしれない。果たしてそんなことが現実にあり得るのか。陽子にも証明しようがないし、誰もが否定するに決まっている。ただひとつだけ確信しているのは、陽子と彼は永遠の時の流れの中でつながっている。二人は永遠の伴侶なのだ、と直感し得ることだ。
 ──私は私を生きる!
 陽子は開いていたアルバムを全て閉じた。
 彼もようやくアルバムから目を背け、陽子のほうを向いた。陽子は穏やかな微笑で応える。と、彼は不意にオルゴールに視線を移し、ハンカチを手に取った。
「懐かしいよ。これ僕が落として行ったハンカチだ。僕のイニシャルが刺繍してある。母からのプレゼントだったんだ、七歳の誕生日に……君が持っていてくれたんだね。ありがとう」
 もちろん陽子の記憶にはなかった。陽子は彼の優しげな眼差しを受け、胸が張り裂けそうなほど苦しくて目頭が熱くなった。今、互いの心は溶け合う。
「さあ、行きましょう」
 陽子は一旦ハンカチを奪い取って自らの手で再び彼の手に握らせた。「二人からの想いを、永遠の伴侶へ……」
 彼は瞬きを繰り返しながら首を捻り、笑っている。
 陽子は祖母に暇乞いをすると、彼と共に母の実家を後にした。 

        *

 二人は公園へ入り、再びベンチに座って池を望んだ。水面を渡る微風が草むらや木々の隙間を縫って通ると、微かな葉擦れの向こうで蝉の呼応は始まった。瞬く間に連鎖を繰り返し、時雨となった。
 正樹が微笑みかけると、陽子は無言で寄り添う。ふと木柵の向こう側の大輪のヒマワリに目が行った。正樹も陽子の視線の方向を見る。
「咲いたね。僕らのヒマワリ。種を撒いた日のこと、覚えてる?」
 懐かしそうな眼差しをヒマワリの花に向けている。
 無論、陽子自身の記憶ではない。が、確かにヒマワリは咲いている。二つの魂の狭間を辿って咲いているのだ。自ずと胸が熱くなる。
「今日、決めてたことがあるんだけど……」
 急に真剣な表情になり、正樹は口ごもった。
「何かしら?」
「二人の関係を終わりにしない?」
 唐突に立ち上がると、ためらいがちに言い放つ。
 陽子もつられ立ち上がる。胸に冷たい風が吹き渡って行く。
 さっき陽子が握らせたハンカチの端を摘まむと、思い切り振り下ろして広げた。陽子にそれを突き出しながら表情は一層硬くなった。
 陽子は差し出されたハンカチを手に取って覗き込む。イニシャルの横に黄色いヒマワリと青い文字が刺繍してあった。
「これが君の仕業だってことは承知なんだ。これが君の返事なのかい?」
 目を吊り上げながらジャケットのポケットから何かを取り出すと、いきなり陽子は左手をつかまれた。
 陽子は成り行きをを静観するのが精一杯だった。ふと己が左手を見ると、金属片が指に巻きついていた。目はそれに釘づけになる。
「結婚……してほしい」
 正樹は照れてドギマギしながらやっとの思いで口を聞いたようだ。顔は幾分紅潮している。
 陽子の薬指には金色のリングが輝いていた。もう一度ハンカチに目をやる。この刺繍を施したのが陽子だと彼は疑っていない。
 ──だけど、これは裕里子という、もう一人の魂なの!
 陽子は心の中で叫んだ。
「私は、あなただけを、見つめる」
 強い口調で陽子の両手を取りながら熱い視線を送ってくる。夕日に映えた彼の瞳には陽子の姿しか映ってはいない。
「私は、あなただけを、見つめる」
 陽子も青い糸でヒマワリの花言葉が刺繍されたハンカチをそっと手渡しながら返答すると、その胸に飛び込んだ。と、肩越しにそっと抱き締めてくれる。
 正樹の胸に顔を埋めた途端、温もりは全身を駆け巡り、陽子の胸を濡らした。自ずと熱い雫が頬を伝う。
 それぞれの魂が溶け合う時間の狭間で、ペンダントに手を添えた陽子は心の中で復唱し、誓うのだった。
 ──ワタシハ、アナタダケヲ、ミツメル……
 ──過去から未来へ……
 ──永遠に…… 
    

【第三話】〈了〉


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