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「誰のせい?」は、あなたが決めるしかない 〜4歳とのかかわりから見えた、おそらく真理

息子が、ことあるごとに「誰のせい?」と聞いてくるようになった。
4歳になった、小さくて大きな彼は、「あなたのせいじゃないよ」とママに言ってもらいたいのだろう。

「昨日、おっきな声で泣いちゃったんだよねー」と息子が言う。
「誰のせい?」
私は、うっと言葉に詰まった。

昨日は息子の友だちと、そのお母さんと一緒に遊んでいた。そのうち子ども2人がおもちゃを取り合い始めたので、お母さんが2人をこちょこちょして、別の遊びに誘おうとした。息子が体をよじらせて笑っていたら、頭をどこかにぶつけてしまった。それが痛くて、彼は泣いてしまったのだった。

「〇〇くんのママのせいかな」と言いかけて、私はやめた。
〇〇くんのママがしたことは、悪かったのだろうか?

いつもはたいてい、「ママのせいだったね。ごめんね」と言ってしまう。
「誰のせい?」と聞かれたとき、反射的に思い出す言葉がある。「人のせいにしない!」という言葉。誰でも一度は言われたことがあるのではないだろうか。何となく、子どもに面と向かって「あなたのせいだよ」と言うことができない。直接的には息子の行動が原因だったとしても、その下地を作ってしまったのは私だったりする。きちんと片づけていれば……とか、ずっと目を離さないでいれば……とか、「ママのせいだったね」というのは間違ってはいない。だから私の中での「人のせいにしない!」を守るために、「私のせい」にしていたのだ。

だが今回はどうだろう。息子に「あなたのせいじゃないよ」と甘い言葉を吐くためには、私以外の大人に罪を被ってもらうしかない。
「あなたたちがけんかしたのが悪かったんだよ」と、少し原因を掘り下げて話してみるか? いや、幼稚園の後で疲れている、些細なことで機嫌が悪くなりやすい子どもたちを、このタイミングで遊ばせようとした母親2人が悪いのか? しかし、母親たちが少し息抜きをさせてほしいと思うほどに疲れているのは、子どものせいではないか? だが子どもたちが存在するのは、親の意思の結果なわけで……。

誰が悪かったのか、を決めるのは意外と難しい。
誰のせいか、何のせいか。この問いに「答えを出す」ということは、言い換えれば「原因を遡るのをどこで止めるか」という決断をする、ということになる。息子の「誰のせい?」への対策を考えていたら、私が思い至った結論だ。
「私のせい」と決めていたら、どんなことでも私のせいにできる。反対に、「あれもこれも私のせいじゃない」と決めていたら、全部の原因を私以外の存在に求めることができる。
なのに私が簡単に「ママのせいだったね」と言ってしまうのは、何故なんだろう。

私が「人のせいにしない!」という誰かに言われた言葉を守るため。そして、手っ取り早く子どもを納得させて、機嫌を損ねないようにして会話を終わらせるため、でもあるかもしれない。一見優しく遠慮深い母親のように見えるかもしれないけれど、何のことはない、自分のために「私のせい」と言っていたのである。

だけど、「ママが悪かったね」と言われ続けて育った息子は、将来どうなってしまうんだろう? 常に誰かのせいにする人間になりはしないか?

息子は4歳になった。そろそろ彼との関わり方を意識的に考えていかなければならない時期なのかもしれない。「やってあげる」から、「やり方を教えてあげる」へ。守る者と守られる者という関係から、一対一の人間関係へ。親も手や足より、口や頭を使って対峙していかないといけなくなる。

全部が誰かのせい、ということは滅多にないということ。かといって、全部があなたのせいということもほとんどないということ。でも犯罪に巻き込まれたときなど、相手が100%悪くて、あなたは自分を責めなくてもいいような場面もあるかもしれない、ということ。答えをひとつに決めつけてはいけないよ、ということ。
あなたが変えられるのは、ここから先の自分の行動だけであるということ。「誰のせい?」という問いにあまり意味はないこと。その問いを誰かに投げかけるのはもっと意味がなくて、もし知りたいなら自分で考えること。「全部あいつのせい!」とすることで、自分の機嫌をとろうとしないこと。

もう4歳、されど所詮4歳なので、伝えていくのは結構難しい。だけど4歳のおかげで私がたどり着くことができた、おそらく真理。せっかくだから、時間はかかっても伝えていきたいと思う。
まずは、今度「誰のせい?」と聞かれたら、「なんでこうなったんだっけ?」と質問返ししてみようかな。

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