息子が教えてくれた3つめの愛

両親から無償の愛を与えられて育った。けれど私は、それが不満だった。

両親だけではない。両方の祖父母にとって初孫だった私は、祖父母、ひいては曽祖母までを虜にした。
もちろんかわいがってもらうのは嬉しい。だが心の中では、なんで、という思いが消えなかった。

だって、私が「この私」じゃなくても、この人たちはきっと私が好きなんじゃないか。私の何が好きなのか? 私の中に流れる、あなたたちの血ですか? それって結局、自分がかわいいってことなんじゃないの?

例えば漢字テストでがんばって100点を取るとか、友だちがクラスで無視されても私だけは無視しないとか、たくさんの行動の積み重ねで、「この私」ができている。
その行動を選択するにあたっては、努力もしたし勇気もいった。幼いころの私は、その努力や勇気を褒めてほしかったのかもしれない。でも両親は、私がテストで10点をとっても、友だちと話さなくなっても、やっぱり私を愛してくれるだろうという自信があった。なぜなら、勉強なんてせずにゲームばかりしていた弟も、同じように両親から愛されていたからだ。

それなら、私が何したって何をしなくたって、同じじゃないか。努力したってしなくたって、変わらないじゃないか。

もちろん私は両親に褒められるためだけに生きているわけではないので、褒められる褒められないにかかわらず、なりたい自分になるための努力はして生きてきたつもりだ。だが「なりたい自分」像が今と違っても、そのための努力をしなくても、両親は私を愛していただろう。親子の愛、というものが今いち理解できなかったのである。


だから私は、いつか結婚したい、と小さいころから思っていた。
私と結婚したいという人が現れるとしたら、その人は私の人柄を好きになってくれたということだ。実家は由緒正しいお家柄でもお金持ちなわけでも事業をやっているわけでもないので、血筋などではなく「この私」を愛してくれているはずだ。
私と結婚したいという人は、私が選択して作り上げてきた、私という人格を愛してくれているはずなのだ。

夫と結婚したとき、私はやっと2つめの愛を手に入れたのだと思った。
努力したこと、一生懸命考えてきたこと、私が選んできたもの、つまり私の生き様をを肯定してもらったような気になった。

少し思い違いをしていたのは、夫婦だって相手の行動をすべて肯定して褒め称えているわけではないということ。
「ちょっとこれはないんじゃない」とカチンとくることもある。夫もきっと、私しか食べないのに買ったバナナが真っ黒になっていくさまを見て、「正しい」とは思っていない。だけど「まあ、いっか」と許してくれているのだと思う。だけどきっと、怒ったり、話し合ったり、受け入れたり、自分が変わったりすることが、他者と暮らしていくということなのだ。

とはいえ夫婦は、お互い愛し合っている、ということが大きな前提になっていると思う。どちらかの片思いで共同生活を続けていくことは難しい。「浮気されたら離婚する」と、私は結婚前に宣言した。
愛している相手にも、自分を愛してほしい。その時点で見返りを求めていると言わざるを得ない。それなら夫婦の愛は、やはり有償かもしれない。


息子が産まれたとき、瞬間的に「かわいい! 愛してる!」と思えたかというと自信がない。
しわくちゃでべちょべちょの息子は人間というよりは「生きもの」で、おお、これが長いこと私の中に入っていたんだなあ、と感慨を覚えた。
産む母も大変だが出てくる子も案外大変らしく、「人間は産まれてくるときに人生最大のストレスを感じる」という話を何かで読んだことがあったので、「お疲れさま」という言葉が自然と口をついて出た。
産まれてすぐには泣かない子も結構いるというのに、息子はひと息つく間もなく、力強い泣き声を上げた。無事に産まれてきてくれてありがとう。心配かけないでくれてありがとう。

「赤ん坊の世話は大変」ということはもちろん知っていたが、歴史上数多くの親がこなしてきたことなので、「かわいいからがんばれる」のだと思っていた。しかし実際は、「自分ががんばらないとこの子は死んでしまう、だからがんばらないといけない」だった。
息子が泣き出すと「何で泣いているんだ? 何をすればいいんだ?」と頭も体もせわしなく動くことになる。もう、本当に大変な毎日だった。息子は何もしていないのに身の回りの世話を全部してもらえる。私も赤ちゃんになりたいと何度思ったことか。
それでもしかめっつらで寝ている顔や、あたりをきょろきょろ見回している姿を見ると、「かわいいなあ」と感じるようになった。見ているだけで幸せなのである。

私はふと思う。これが無償の愛というやつなのか。

愛は与えるだけでもじゅうぶん幸せなのだ。愛するということは、それだけでこんなにも幸せなのだと、息子が教えてくれた。これは、幼い私が想像だにしなかった3つめの愛なのだと気づいた。

無償の愛には、血が繋がっているとか、どういう性格だとかはあまり関係ない気がする。一緒に過ごした時間が愛を育むのだと思う。時間の蓄積、経験が人間にとっては何よりかけがえのないものなのだ。親が子を愛する気持ちを、血の繋がりだけで理解しようとしていた私がそのことに気づけたのは、年の功に他ならない。
親や祖父母からの愛を、もっと素直に受け取っておけばよかったと少し後悔する。


先日、テレビを見ながら泣き出してしまったことがあった。2歳の息子がではなく、私がである。
息子が体調を崩したため託児にも行けず、友人にも会えず、1週間ずっと息子と2人で過ごした末のできごとだった。体調の悪い息子はいつも以上に「ママ、ママ」を連発し、何をするにも何度も中断させられる。この「やっていることを中断させられる」というのが、マルチタスクができず1つのことに集中したい私にとってはとてもストレスで、子育て歴2年になっても未だに慣れない。
その夜は夫と一緒にドラマを見ていたのだが、息子は私にばかり「ママー」と話しかけてまとわりついてくる。最高にいいシーンと「ママー」が重なったところで、私の中の張り詰めていた糸が切れてしまった。邪魔しないで。集中させて。感動させて。

息子は「ママ、えーん、ちゃった」と夫に報告してから、私の膝に乗って私に抱きついた。満面の笑顔である。彼は右の頬を差し出してキスを要求した。私が泣きながらキスすると、今度はくちびるを差し出し、左の頬も差し出し、彼は私から3回のキスをもらった。そして私の顔を掴んでぐっと引き寄せ、何度も何度もキスしてくれた。
先ほどとは別の涙が止まらなくなった。

息子が生まれて、無償の愛を与えることを教えてもらった。でも気づいたら、息子からも愛をもらっていた。

いま私のおなかには、新しい命が宿っている。きっと息子と同様に、とてもとてもかわいい、愛すべき存在になると思う。
だが息子の時と違うのは、私対その子、夫対その子という関係だけではなく、息子対その子という、かわいい対かわいいのやりとりが見られるということである。
息子が弟や妹をかわいがったり、下の子が兄の真似をしたり、その様子もきっと、私に愛の何たるかを教えてくれるに違いない。

おそらく世界にはたくさんの愛の形があって、何種類あるかなどと分類なんてできないのだ。だからこそきっと私たちは、常に新しい愛を見つけてゆけるのだろう。それが楽しみで仕方がない。

長生きしなければ、と今日も夕飯の献立を考える。

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